第百九十六話 また勇者
グレイファングの巨体が宙に浮いていた。
頭を掴んで持ち上げているのは、どう見ても少年にしか見えないゼラスだ。
カイルたちは完全に動きを止めていた。
「ちょ、ちょっと待て……」
最初に声を出したのはバルドだった。
「何で持てるんだ、あれ」
「俺に聞かないでくれ」
カイルにも分からない。
グレイファングは必死に四肢を振り回しているが、ゼラスの腕は微動だにしなかった。
「暴れんなって」
ゼラスが面倒そうに言う。
次の瞬間。
その身体を地面へ叩きつけた。
ズドンッ!
土が大きく抉れ、グレイファングの身体が跳ねる。
まだ僅かに動いていたため、ゼラスはその頭へ拳を一発。
鈍い音が響いた。
それきり、魔獣は動かなくなった。
「よし」
ゼラスは何事もなかったように立ち上がる。
リズナが近づき、倒れたグレイファングを覗き込んだ。
「終わった?」
「たぶん」
「たぶんって」
リズナが軽く蹴ってみる。
反応はない。
「終わってるわね」
「じゃ、討伐証明取って帰るか」
「早かったね」
「SSにこれやらせる方がおかしいんだよ」
そんな会話を聞きながら。
カイルたちはまだ固まっていた。
エレナが小さく口を開く。
「……今、SSって言った?」
ゼラスが振り返った。
「言ったけど」
「SSランク?」
「ああ」
今度こそ全員が絶句した。
SSランク冒険者。
その存在自体は、アルセリア王国にも伝わっている。
だが実際に目にした者など、ほとんどいない。
大陸全体でも片手で数えられるほどしか存在しない最高位。
それが。
目の前の少年だという。
「嘘だろ……」
バルドが呟いた。
「ライセンス見る?」
ゼラスが何でもないことのように言う。
「いや……」
カイルはどう反応していいか分からなかった。
その間に、シアは別のことに気づいていた。
ゼラスの耳。
そしてリズナの耳。
人間より僅かに尖っている。
角もない。
翼もない。
尻尾もない。
見た目だけなら、人間とほとんど変わらない。
だが。
「あなたたち……魔族なんですか?」
シアが尋ねた。
ゼラスは一瞬きょとんとする。
「俺はそうだけど」
あまりにも普通に答えられたため、逆にシアが困った。
カイルは剣を握り直す。
ゼラスの視線がそこへ落ちた。
「何?」
「……俺たちは魔皇城へ向かっている」
「ああ、さっき聞いた」
「目的も察しているんだろう?」
ゼラスは少し考える。
「まあな」
勇者が魔皇領へ入ってきた。
目的など、昔からほとんど変わらない。
「魔皇を討つ」
カイルがはっきりと言った。
リズナの表情が僅かに変わる。
だが。
ゼラスは驚かなかった。
「ああ、やっぱり」
その反応にカイルが眉を寄せる。
「……驚かないのか?」
「何で?」
「魔皇を討つと言っているんだぞ」
「聞き慣れてるし」
「聞き慣れてる?」
ゼラスは討伐証明に必要な部分を確認しながら答える。
「昔から何回も来てるぞ。勇者」
カイルの目が見開かれた。
「何回も?」
「ああ」
「その勇者たちは……?」
「失敗してる」
淡々とした答えだった。
バルドが思わず聞く。
「全員?」
「俺が知ってる限りはな」
空気が少し重くなる。
人間側では、過去にも勇者が魔皇討伐へ向かったという記録は残っている。
だが。
その結末が詳しく語られることは少ない。
帰らなかった勇者。
消息を絶った勇者。
途中で討伐を断念したとされる者。
カイルも、それ以上のことは知らなかった。
「お前は……過去の勇者に会ったことがあるのか?」
「ああ。何人か」
「戦った?」
「あるぞ」
ゼラスはあっさり答えた。
エレナの視線が鋭くなる。
「殺したの?」
ゼラスの手が止まる。
少しだけ考えてから。
「殺した奴もいる」
リズナは黙ってゼラスを見ている。
「でも、全員じゃねえよ」
「……どういうことだ?」
カイルが聞く。
「向こうが引けば、それで終わりだろ」
ゼラスにとっては、それだけの話だった。
魔皇を討つと言って攻め込んできた者。
止めても剣を振るうなら戦う。
退くなら追わない。
昔から変わらない。
カイルは目の前の少年を見る。
恐ろしく強い。
過去の勇者とも戦っている。
それでも。
自分たちが勇者だと知った瞬間に襲いかかってくることはなかった。
それどころか、今も討伐した魔獣の処理を優先している。
「お前は魔皇の部下なのか?」
カイルが尋ねた。
「違う」
「違う?」
「今は軍人じゃねえよ」
ゼラスは立ち上がり、手についた汚れを払う。
「冒険者」
「SSランクの……?」
「そう」
カイルはますます分からなくなった。
魔族領にいる。
過去の勇者と戦ったことがある。
魔皇を知っている。
なのに、軍人ではない。
リズナがカイルたちを見ながら言う。
「ゼラス。もう帰る?」
「そうだな」
「待ってくれ」
カイルが呼び止める。
ゼラスが振り返った。
「何?」
「魔皇城への道を知っているんだろう?」
「知ってるけど」
「教えてほしい」
リズナが少し呆れた顔をした。
「今から倒しに行くって言った相手のところまで案内してって?」
「……」
カイルも言われてから気づいたらしい。
「いや、案内までは頼まない。道だけでも――」
「やめとけ」
ゼラスが遮った。
「何故だ」
「勝てねえから」
即答だった。
カイルの表情が強張る。
「戦ってもいないのに、何故分かる」
「分かるよ」
ゼラスはカイルたち四人を見る。
先ほどの戦いも見ていた。
実力も、おおよそ分かっている。
「今のお前らじゃ無理」
カイルが剣の柄を握る。
「俺たちは――」
「別に馬鹿にしてるわけじゃねえって」
ゼラスは面倒そうに頭を掻いた。
「強い方だと思うぞ。でも陛下を倒せるかって聞かれたら、無理」
「陛下……?」
エレナがそこを聞き逃さなかった。
「魔皇をそう呼ぶのね」
「まあな」
カイルの目が細くなる。
やはり。
ただの冒険者ではない。
「ゼラスと言ったな」
「ああ」
「俺と戦ってくれ」
リズナが目を瞬いた。
ゼラスも。
数秒だけカイルを見る。
「何で?」
「俺たちでは魔皇に勝てないと言った」
「ああ」
「なら、お前を超えられなければ、その言葉が正しいかどうかすら分からない」
ゼラスは少し考える。
それから。
倒れたグレイファングを見る。
依頼は終わった。
急ぐ用事もない。
だが。
「嫌だ」
「……え?」
「面倒くさい」
カイルが固まった。
リズナが吹き出す。
「ふふっ」
「何で笑うんだよ」
「だって、勇者に決闘申し込まれて『面倒くさい』って」
「実際面倒だろ」
ゼラスは討伐証明を収納する。
「帰るぞ、リズナ」
「はーい」
二人が歩き出す。
カイルは慌ててその背中を追った。
「待て!」
「まだ何かあんの?」
「俺は本気だ!」
「俺は依頼終わったから帰りたい」
「一度だけでいい!」
ゼラスが止まった。
振り返る。
少しだけ。
昔を思い出したような顔をした。
勇者というものは。
いつの時代も。
妙なところで頑固だった。
「……ほんと変わんねえな、勇者って」
「何?」
「何でもねえよ」
ゼラスは小さく息を吐いた。
「じゃあ一回だけな」
カイルの表情が引き締まる。
リズナは少し離れた場所へ移動した。
「怪我させないでよ?」
「分かってる」
「ゼラスじゃなくて、勇者の方」
「そっち?」
カイルの眉が僅かに動いた。
リズナは悪気なく言っただけだった。
だが。
勇者としては聞き流せない。
カイルは剣を抜いた。
ゼラスは。
何も構えなかった。
「……武器は?」
「いらねえよ」
「後悔するなよ」
「しないしない」
そのあまりにも軽い態度に。
カイルの闘志へ火がついた。
そしてリズナは。
少し離れた木陰へ移動しながら思う。
――これ、たぶんすぐ終わるな。
ゼラスと勇者。
二人の最初の戦いが始まろうとしていた。




