第百九十四話 魔族領
翌朝。
カイルたちは城塞都市レグナを発ち、ドーガに教えられた街道を東へ進んでいた。
三日ほど進むと、周囲の景色が少しずつ変わっていく。
人間側が整備した石畳は途中で途切れ、代わりに幅の広い土の街道が続いていた。
道標に書かれている文字も、アルセリア王国で使われているものとは微妙に形が違う。
そして、その先。
街道脇に立つ大きな石柱を見て、エレナが馬を止めた。
「……ここね」
石柱には、人間側の文字と魔族側の文字が併記されている。
――ここより魔皇領。
バルドが周囲を見回した。
「もっとこう……門とか砦とかあると思ってたんだが」
「私もです」
シアも少し拍子抜けしたように言う。
国境を越えると聞いて想像していたものとは、随分違った。
兵士が並んでいるわけでも、巨大な城壁がそびえているわけでもない。
ただ街道が、そのまま先へ続いている。
カイルは石柱を見上げた。
「行こう」
四人はそのまま魔皇領へ足を踏み入れた。
それから数時間。
何も起こらなかった。
魔獣が襲ってくることもなければ、魔族の軍勢が現れることもない。
むしろ街道はよく整備されており、人間側より歩きやすい場所さえあった。
やがて前方から、一台の荷馬車がやってくる。
御者台に座る男は、見た目こそ人間とほとんど変わらないが、耳が少し尖っていた。
男はカイルたちを見ると一瞬だけ警戒したものの、そのまま荷馬車を道の端へ寄せた。
何事もなくすれ違う。
バルドが振り返った。
「……何もしてこなかったな」
「何で向こうから襲ってくる前提なのよ」
エレナが呆れたように言う。
「いや、分かってるけどよ。魔族領だぞ?」
「私たちの方がよほど怪しく見えてるかもしれませんよ」
シアに言われ、バルドは黙った。
さらに進むと、街道の先に畑が見えてきた。
広い農地では何人もの魔族が働き、道端では子供たちが走り回っている。
洗濯物が風に揺れ、家畜の鳴き声が聞こえる。
家々の煙突からは、夕食にはまだ早い時間だというのに細い煙が上がっていた。
カイルは無意識に馬の速度を落とした。
「……普通だな」
バルドが呟く。
誰も否定できなかった。
カイルが想像していた魔族領は、もっと荒れた場所だった。
武器を持った魔族が徘徊し、人間を見つければ襲いかかってくる。
少なくとも、人間の国ではそう語られている。
だが実際に目の前にあるのは、どこにでもありそうな農村だった。
もちろん、カイルたちを見る視線は友好的ではない。
人間だと気づいた者は警戒し、遊んでいた子供を家へ呼び戻す親もいる。
それでも、誰一人として武器を手に襲いかかってはこなかった。
「歓迎はされてないわね」
エレナが声を落とす。
「当然でしょう」
シアが答える。
「アルセリアの村へ魔族が武装して四人で入ってきたら、私たちだって警戒します」
「……そうだな」
カイルは村を見ながら進んだ。
昨日、ドーガに言われた言葉が頭をよぎる。
――自分の目で見ろ。
まだ、何も分からない。
だからこそ。
今は見るしかなかった。
その頃。
魔皇城城下町にある冒険者協会。
ゼラスは受付で、一枚の書類を睨んでいた。
「……これ、マジ?」
「マジです」
受付の女性が即答する。
「もう少し依頼を受けずにいると、ライセンス失効の手続きに入ります」
「SSランクでも?」
「SSランクだから免除、なんて規則はありません」
「うわ、面倒くせえ……」
ゼラスは頭を掻いた。
現在のゼラスはSSランク冒険者。
ガリオール大陸全体でも、片手で数えられるほどしか存在しない最高位の冒険者だ。
だからといって、何年も名前だけ置いておけるわけではない。
一定期間、正規の依頼を受けた記録がなければ資格を維持できなくなる。
「最近、普通の依頼どころじゃなかったんだけど」
「事情は承知しています。でも規則は規則です」
「融通利かねえなあ」
「ゼラスさんにだけ特例を作ったら、もっと面倒になります」
「それはそうだけどさ」
少し前までなら、もう少し違う言い方をしていたかもしれない。
ヴェルグを捕らえ、長く尾を引いていた一件に決着がついてから。
ゼラスは以前より、どこか肩の力が抜けていた。
本人にはほとんど自覚がないが、口調にもそれが少しずつ出るようになっている。
受付の女性が掲示板を指した。
「とにかく、一件でいいので受けてください」
「一件でいいんだ?」
「今のところは」
「じゃ、簡単なのでいいじゃん」
「……本当にSSランクですか?」
「ライセンス見せる?」
「結構です」
ゼラスは掲示板へ向かった。
討伐。
護衛。
採取。
調査。
様々な依頼書が並んでいる。
その少し後ろでは、リズナが一人で待っていた。
最近新しくした軽装に身を包み、伸びてきた赤い髪は後ろで一つに束ねている。
ふと。
今朝のことを思い出した。
――その髪型、俺かなり好きだぞ。
家を出る前。
ポニーテールにしたリズナを見たゼラスが、何気なくそう言った。
思い出した瞬間。
「……へへ」
頬が緩む。
少しだけ身体を揺らし、束ねた髪の先を指で弄る。
掲示板を眺めていたゼラスが横目で見た。
「……あいつ何やってんだ?」
リズナは気づかない。
しばらく依頼書を眺めていたゼラスは、その中から一枚を抜き取った。
「これでいいや」
受付へ持っていく。
女性が内容を見る。
「……これですか?」
「うん」
「西部街道のグレイファング討伐ですよ?」
「そう書いてあるな」
「SSランクが受ける依頼ではありません」
「依頼達成の記録は残るんだろ?」
「残りますけど……」
「じゃあ問題ないじゃん」
「戦力が余りすぎてます」
「早く終わるからいいだろ」
受付の女性はしばらくゼラスを見た後、諦めたように息を吐いた。
「対象は大型のグレイファング一体です。最近、行商人や旅人が何度か襲われています」
地図が広げられる。
場所は魔皇領の南西部。
人間側との境界からも、それほど離れていない街道沿いだった。
ゼラスが場所を確認する。
「近いな。これでいい」
そこで、ようやく現実に戻ってきたリズナが横から地図を覗き込んだ。
「あたしも行く」
「いいのか?」
「いいわよ。久しぶりに二人で依頼っていうのも楽しそうだし」
「じゃ、一緒に行くか」
「うん」
ゼラスが少し嬉しそうにすると、リズナもまた頬を緩めた。
受付の女性が二人を見比べる。
「リズナさんまで行くんですか?」
「行くけど?」
「グレイファング一体ですよ?」
「あたしたち二人で行ったら駄目なの?」
「駄目ではないですけど……可哀想になってきました、グレイファングが」
「何でだよ」
ゼラスは依頼書を受け取った。
ミテイは今日は魔皇城にいる。
妊娠中のリュミエラを支えるため、研究の補助をしていた。
そのため今回、依頼へ向かうのはゼラスとリズナの二人だけだ。
協会を出ると、ゼラスが西部街道の方角を見る。
「今日中に終わらせるか」
「普通に行くのよ?」
「分かってるって」
「ゼラスの普通、信用ないのよね」
「何でだよ」
「今までの自分を思い出して」
「……普通に行きます」
「よろしい」
二人は並んで街道を歩き始めた。
同じ頃。
魔皇領南部。
カイルたちは、魔皇城を目指して北へ向かっていた。
まだ正確な道筋は知らない。
まずは次の街で情報を集めるつもりだった。
そして。
その進路の先には。
ライセンスを失効させないため、久しぶりに冒険者らしい依頼を受けたゼラスと。
今朝言われた一言を思い出しては、密かに機嫌を良くしているリズナがいた。




