第百八十三話 逃げ道のない海
「終わりにしようぜ」
ゼラスの声に。
ヴェルグは答えなかった。
海風が甲板を抜けていく。
折れた杖。
遠くへ転がったウェポンブレイカー。
その前に。
レイスウィザードを持ったゼラスが立っている。
隣にはミテイ。
ヴェルグがゆっくりと息を吐いた。
「……随分と余裕がおありですね」
「余裕?」
ゼラスが眉を上げる。
「お前が逃げ続けた結果だろ」
一歩。
前へ出る。
「剣は取り返した」
もう一歩。
「転移も読まれた」
『かなり分かる』
ミテイが淡々と付け足した。
「ウェポンブレイカーも落とした」
ヴェルグの視線が僅かに動く。
ゼラスは肩を竦めた。
「まだ何かあるか?」
「……ございますとも」
ヴェルグの右手に魔力が集まる。
そして。
甲板へ叩きつけた。
『下!』
ミテイが反応する。
直後。
船体が大きく揺れた。
上空からリズナの声が飛ぶ。
「何したの!?」
『船の魔力経路に干渉してる』
「船ごと壊す気!?」
ヴェルグが薄く笑った。
「沈む前に逃げればよろしい」
「また逃げんのかよ」
ゼラスが踏み込んだ。
ヴェルグの目の前へ。
拳が頬へ叩き込まれる。
「ぐっ!」
身体が吹き飛ぶ。
甲板を転がりながら。
ヴェルグが短距離転移を使った。
『右』
ミテイの声。
ゼラスはすでに動いている。
現れたヴェルグの腹へ。
レイスウィザードの柄が叩き込まれた。
「がっ……!」
ヴェルグが膝をつく。
「何度やるんだよ」
ゼラスが見下ろす。
「もう読まれてんぞ」
「……ならば」
ヴェルグが顔を上げた。
「これなら、いかがでしょうか」
空気が。
歪んだ。
ゼラスが目を細める。
ヴェルグを中心に。
魔力が急激に膨れ上がっていく。
甲板の左。
右。
前方。
さらに上空。
何もない空間へ。
黒い亀裂が一本。
また一本。
次々と走った。
『……今までと違う』
ミテイの表情が変わる。
亀裂はただ生まれているだけではない。
互いに位置を変え。
ゼラスを囲むように広がっていく。
逃げ場そのものを。
切り刻むように。
「私も長く生きております」
ヴェルグが両腕を広げる。
「無論、短距離転移だけを研究してきたわけではございません」
空間が軋む。
甲板の手すりの一部が。
亀裂へ触れた。
音もなく。
切断された。
リズナが息を呑む。
「ゼラス!」
ヴェルグの顔に。
僅かに笑みが戻る。
「これで終わりにいたしましょう」
両腕が振り下ろされる。
「《カオス・フラクチャー》」
無数の空間断層が。
一斉に収束した。
ゼラスは左手を前へ出した。
掌の前に。
淡い白色の球体が生まれる。
ヴェルグの目が細くなる。
「その魔法は――」
球体が。
さらに圧縮される。
空気が震えた。
ゼラスが掌を突き出す。
「バスターブリッツ!」
白い魔力弾が撃ち出された。
直後。
轟音。
最初の空間断層へ激突する。
亀裂が大きく歪んだ。
二つ目。
三つ目。
白い魔力が。
ヴェルグの作り出した断層を次々と押し潰していく。
「な――!」
ヴェルグの笑みが消えた。
最後の断層が弾ける。
バスターブリッツは僅かに軌道を逸らし。
遥か海上へ飛んでいった。
数瞬後。
遠くの海面が巨大に爆ぜる。
ヴェルグは。
消えた空間断層を見つめていた。
「……カオス・フラクチャーを」
ゼラスが左手を下ろす。
「惜しかったな」
「正面から……押し切った……?」
「当たるとこに撃っただけだ」
「……」
ヴェルグの顔が歪む。
すぐに。
空間が揺れた。
『止める』
ミテイの魔力が走る。
転移が潰れた。
ヴェルグの姿は消えない。
「……またですか」
『また』
ミテイが答える。
ヴェルグが後退する。
その踵が。
何かへ触れた。
ウェポンブレイカー。
甲板へ落ちた黒銀の武器。
ヴェルグが咄嗟に手を伸ばす。
だが。
ドンッ!
その手の前へ。
レイスウィザードの切っ先が突き刺さった。
「触んな」
「私の武器でございますが」
「今は俺らの方が近い」
ゼラスが足で蹴る。
ウェポンブレイカーが甲板を滑った。
ミテイの足元で止まる。
『取った』
ミテイが拾い上げる。
固定部は壊れている。
刃にも以前の亀裂が残っている。
だが。
本体はまだ原形を保っていた。
ヴェルグがそれを見つめる。
「……返していただけませんか?」
『嫌』
「即答だな」
『またレイスウィザード切るかもしれないから』
「それは困る」
ヴェルグの表情が僅かに引きつった。
ゼラスが再び剣を構える。
「さて」
ヴェルグが周囲を見る。
海。
船室。
上空の飛空艇。
ゼラス。
ミテイ。
逃げ道はない。
「……一つだけ、お聞きしても?」
「あ?」
ヴェルグの視線が。
レイスウィザードへ落ちる。
「その剣は、本当に完成版なのでございますね?」
「ああ」
「ですが」
目を細める。
「数日前とはまるで違う」
ゼラスは黙っている。
「魔力を流す速度も」
「……」
「剣を返す際の癖も」
「……」
「以前のレイスウィザードを扱っていた時と、ほとんど変わらない」
ヴェルグが柄を見る。
しばらく。
そして。
小さく呟いた。
「……記録核」
ゼラスの目が細くなる。
「知ってたか」
「当然でございます。私も研究に関わっておりましたので」
「なら説明いらねえな」
ヴェルグは完成版を見つめる。
「生き残っていた……」
「ああ」
「何百年もの記録が?」
「ああ」
ヴェルグが。
僅かに笑った。
だが。
今度のそれは。
自嘲に近かった。
「なるほど」
「何だよ」
「私は」
ヴェルグが静かに息を吐く。
「あなたの剣を破壊したつもりでおりました」
ゼラスは答えない。
「ですが」
視線を上げる。
「積み重ねたものまでは、壊せなかった」
「あの剣が壊れたことに変わりはねえよ」
ゼラスの声が低くなる。
「だから許す気もねえ」
「……そうでございますか」
ヴェルグの右手へ。
再び魔力が集まった。
『まだやる』
ミテイが構える。
「最後まで大人しく捕まる気はねえらしいな」
「ええ」
ヴェルグが薄く笑う。
「そこまで素直な性格ではございませんので」
魔力が弾けた。
同時に。
ヴェルグが船縁へ走る。
『転移じゃない』
「海か!」
ゼラスが追う。
ヴェルグが手すりへ足をかける。
そのまま。
海へ飛び込もうとする。
「ここからなら――」
「させるかよ!」
ゼラスが甲板を蹴った。
ヴェルグの外套を掴む。
「な――!」
そのまま。
引き戻す。
少年の腕一本で。
ヴェルグの身体が宙を舞った。
甲板へ叩きつけられる。
「ぐっ!」
ヴェルグが起き上がろうとする。
だが。
目の前には。
レイスウィザードの刃。
「……」
ヴェルグが止まった。
ゼラスは静かに見下ろす。
「終わりだ」
数秒。
ヴェルグは剣先を見つめていた。
やがて。
小さく息を吐く。
「……ええ」
目を閉じた。
ゼラスが剣を振る。
鈍い音。
刃ではなく。
レイスウィザードの腹が脇腹へ叩き込まれた。
「ぐ……っ」
ヴェルグの身体から力が抜ける。
そのまま。
甲板へ倒れた。
『生きてる』
ミテイが確認する。
「ああ」
ゼラスは収納魔法を開く。
拘束具を取り出した。
両手。
両足。
さらに。
魔力を封じる拘束具まで重ねる。
「これで今度こそ逃げられねえだろ」
『たぶん』
「たぶん言うな」
その時。
上空から。
リズナの声が響いた。
「ゼラスー!」
「あ?」
「終わったの!?」
「ああ!」
「じゃあ早く戻ってきて! あたしもう限界!」
飛空艇が。
少し傾いた。
ゼラスの顔が引きつる。
「おい!」
『傾いてる』
ミテイが上を見る。
「分かってるわよ!」
「ミテイ、リズナの方行ってくれ!」
『うん』
ミテイが飛空艇へ戻る。
ゼラスは倒れたヴェルグを見て。
大きく息を吐いた。
「ったく……」
そこへ。
船室から。
救助された船員たちが恐る恐る出てきた。
一人の男が。
拘束されたヴェルグを見る。
「……終わったのか?」
「ああ」
ゼラスが頷く。
「もう大丈夫だ」
男の肩から力が抜けた。
「助かった……」
「船、動かせるか?」
「ああ。俺たちだけで大丈夫だ」
「なら西岸まで頼む」
「任せてくれ」
ゼラスが頷く。
少しして。
飛空艇を安定させたミテイが戻ってきた。
手には。
ウェポンブレイカー。
『これ』
ゼラスが受け取る。
黒銀の武器。
左腕へ固定する部分は壊れている。
本体にも。
いくつか傷が残っていた。
だが。
刃は生きている。
ゼラスが軽く振った。
風を切る。
独特の重さ。
独特の感触。
ゼラスの口元が僅かに上がる。
「……面白えな、これ」
『欲しい?』
「使えるならな」
もう一度。
ウェポンブレイカーを見る。
「リュミエラに見せてみる」
『うん』
収納魔法が開く。
ウェポンブレイカーが消えた。
続いて。
レイスウィザードも収納する。
ゼラスは最後に。
拘束されたヴェルグを見る。
千年前から。
研究に囚われ。
死を偽り。
剣を盗み。
長い時間を逃げ続けた男。
その逃走は。
ようやく終わった。
ゼラスは背を向ける。
「帰るぞ」
『うん』
上空から。
またリズナの声が飛んでくる。
「ゼラス! まだ!?」
「今行く!」
海の上には。
もう。
逃げる影は残っていなかった。




