第百七十一話 潮騒を裂いて
崖沿いを駆け抜ける。
入り江が見えた瞬間、リズナは目を見開いた。
「何よ、あれ……!」
洞穴の前で、巨大な魔獣が暴れていた。
海から半身を乗り上げた巨体。
岩のような鱗に覆われた長い胴が、波を巻き上げながら崖へ打ちつけられている。
その周囲を、いくつもの魔法が飛び交っていた。
「セレイナ!」
リズナの声に、洞穴前にいたセレイナが振り返る。
「リズナ!?」
「説明は後!」
三人は斜面を駆け下りる。
魔獣が大きく口を開いた。
青白い魔力が奥へ集まる。
『撃つ』
「させない!」
リズナが剣を抜き、風の刃を放つ。
魔獣の顔面へ直撃。
首が大きく逸れ、放たれた魔法が洞穴の横へ着弾した。
岩壁が爆ぜる。
「何なの、こいつ!」
リズナが叫ぶ。
「こっちが聞きたいわよ!」
セレイナも魔法を放ちながら答える。
「剣を外へ出した途端、沖から上がってきたの!」
『魔力に引かれた可能性が高い』
ミテイが魔獣を見る。
その時。
ゼラスの視線が別の方向へ動いた。
「リズナ」
「何?」
「あいつだ」
入り江の端。
斜面を駆け下りてくる人影。
ヴェルグ。
こちらより僅かに先へ抜け、真っ直ぐ洞穴へ向かっている。
「もう来たの!?」
セレイナが表情を変える。
「完成版は?」
ゼラスが聞く。
「洞穴の前! 岩からはもう抜いてある!」
布に包まれた大剣が、調査器具の横へ置かれている。
ヴェルグもそれを見た。
足が速くなる。
「ゼラス!」
「ああ!」
ゼラスが走り出した。
だが、海の魔獣が太い尾を振り上げる。
リズナたちへ横薙ぎに迫った。
「っ!」
リズナが飛び退く。
尾が地面を抉り、大量の石と土が弾け飛ぶ。
ゼラスだけがその範囲を抜けた。
『リズナ、こっち』
「分かった!」
リズナはヴェルグを追いたい気持ちを押さえ、魔獣へ向き直る。
「セレイナ! 先にこいつを海へ戻すわよ!」
「ええ!」
ミテイも二人の横へ並んだ。
ヴェルグの手が、布に包まれた剣へ伸びる。
その直前。
「触るな」
横からレイスウィザードが迫った。
ヴェルグの姿が消える。
短距離転移。
数歩離れた場所へ現れ、そのまま完成版へ回り込む。
だがゼラスも止まらない。
一歩踏み込み、再び間へ入る。
ヴェルグが足を止めた。
「相変わらず、お邪魔がお好きですね」
「ここで諦めろ、ヴェルグ」
ゼラスがレイスウィザードを構える。
「こいつは渡さない」
ヴェルグは静かに笑った。
「残念ながら、その言葉を受け入れるつもりはございません」
杖が向けられる。
魔法弾が連続して放たれた。
ゼラスが一発目を避ける。
二発目をレイスウィザードで弾き。
三発目を斬り払う。
その隙にヴェルグが消えた。
「――!」
完成版のすぐ横へ現れる。
今度こそ柄を掴んだ。
布が落ちる。
完成版レイスウィザードが姿を現した。
「ようやく――」
ヴェルグが持ち上げる。
だが。
刀身へ魔力を流した瞬間、その腕が大きく揺れた。
「……っ」
完成版から溢れた魔力が安定しない。
地面へ黒い亀裂が走る。
ゼラスが目を細めた。
「随分扱いづらそうだな」
「長く眠っていた剣でございます。多少の不機嫌は仕方ありません」
「剣のせいにするなよ」
ゼラスが踏み込む。
二本のレイスウィザードが激突した。
轟音。
魔力が周囲へ吹き荒れる。
ヴェルグの身体が後方へ押される。
完成版そのものの出力は高い。
だが、その力をヴェルグが制御しきれていない。
対して。
ゼラスの手にあるレイスウィザードは、動きに遅れない。
魔力を流せば、必要な場所へそのまま届く。
振れば、刃が意図した軌道を通る。
ヴェルグがその違いを見た。
「……なるほど」
「何だ?」
「いえ」
完成版を押し返しながら、ヴェルグが僅かに笑う。
「長い年月というものは、興味深いと感じただけでございます」
ゼラスの目が細くなる。
「戦ってる最中に考え事か?」
一気に力を込める。
ヴェルグの体勢が崩れた。
ゼラスが蹴りを叩き込む。
「ぐっ……!」
ヴェルグが吹き飛ぶ。
完成版が手から離れ、地面を滑った。
ゼラスはすぐにそちらへ走る。
ヴェルグが杖を向けた。
短距離転移の魔力。
その瞬間。
『させない』
灰色の魔力がヴェルグの周囲へ走った。
空間が僅かに歪み――元へ戻る。
転移は起こらない。
ヴェルグがミテイを見る。
「……妨害できるようになられましたか」
『何度も見たから』
「実に厄介ですね」
その僅かな時間で。
ゼラスの手が完成版の柄を掴んだ。
一度だけ、その重さを確かめる。
そして。
収納魔法が開いた。
完成版レイスウィザードが、その中へ消える。
ヴェルグの笑みが止まった。
「……なるほど」
ゼラスは再びレイスウィザードを構える。
「これでもう奪えない」
「ええ」
ヴェルグの声が僅かに低くなる。
「少々、面倒になりましたね」
一方。
海側では、魔獣が再び崖へ前脚をかけていた。
「リズナ、右!」
「分かってる!」
セレイナの声に合わせ、リズナが走る。
魔獣の爪が振り下ろされる。
直前で横へ飛び。
剥き出しになった前脚へ風を纏わせた剣を叩き込む。
鱗の隙間が裂ける。
魔獣が咆哮した。
『もう一回』
ミテイの魔力が反対側の前脚へ絡む。
巨体が僅かに傾いた。
「セレイナ!」
「合わせる!」
二方向から風が吹きつける。
魔獣の身体が崖際へ押されていく。
踏ん張ろうとした前脚が滑った。
さらに一歩。
「押して!」
リズナが風を強める。
セレイナも続く。
巨体が完全に足場を失った。
咆哮。
魔獣が海へ落ちる。
巨大な水柱が上がった。
「よし!」
リズナはすぐに振り返る。
その先では。
ゼラスとヴェルグが再び向かい合っていた。
「完成版は!?」
『ゼラスが収納した』
「取ったのね!」
リズナの表情が明るくなる。
だが。
ヴェルグが杖を地面へ向けた。
ゼラスがすぐに動く。
「何をする気だ!」
「本日は、ここまでといたしましょう」
「逃がすか!」
ゼラスが踏み込む。
ヴェルグの魔法が放たれた。
狙いはゼラスではない。
崖だった。
爆発。
岩壁が大きく崩れる。
「っ!」
大量の岩が入り江へ降り注いだ。
ゼラスがレイスウィザードで大きな岩を砕く。
リズナが風で破片を逸らす。
セレイナたちも負傷者を庇いながら下がった。
砂埃が入り江を覆う。
「ヴェルグ!」
リズナが風を放つ。
視界が開く。
そこにヴェルグはいなかった。
『森』
ミテイが振り向く。
『走ってる』
「転移は?」
『使ってない。今は私に邪魔される』
ゼラスがレイスウィザードを下ろす。
「逃げ足だけは速いな」
「追う?」
リズナが尋ねる。
ゼラスは一瞬、森を見る。
その後ろでは調査隊が負傷者を運び、崩れた岩場を確認していた。
沖には、先ほどの魔獣がまだ泳いでいる。
そして何より。
完成版はすでにゼラスの収納魔法の中だ。
「いや」
ゼラスが首を振る。
「今はこっちを片づける」
リズナも剣を鞘へ収めた。
「そうね」
セレイナが二人へ歩いてくる。
「それで」
リズナを見る。
「そろそろ聞いていい?」
「何を?」
「どうしてガリオールにいた三人が、突然アスタリアの西岸から走ってきたのよ」
「あ」
リズナが止まる。
ミテイが答えた。
『飛空艇で来た』
セレイナも止まった。
「……飛空艇で?」
「海を越えてきたの」
「ガリオールから?」
「ええ」
数秒。
セレイナは海を見た。
それからリズナを見る。
「できるの、それ」
リズナも同じように海を見る。
少し前なら。
あたしだって、同じことを聞いていた。
「できたみたい」
「何よ、その答え」
リズナは小さく笑った。
だが。
すぐに森の方へ目を向ける。
「問題はヴェルグね」
飛空艇は失った。
完成版も奪えなかった。
そして今。
ヴェルグはアスタリアの森へ逃げ込んでいる。
『帰る方法もない』
ミテイが言う。
ゼラスが頷く。
「あいつが次に何をするかだな」
リズナは森の奥を見つめた。
完成版レイスウィザードは、ついにこちらの手へ渡った。
だが。
それと引き換えに。
長い間、姿すら掴めなかったヴェルグ本人が。
今度はアスタリアの地に取り残されていた。




