第百五十六話 谷に刻まれたもの
翌日の夕刻。
リュミエラの部屋では、珍しく机の上が片付いていた。
本も、記録板もない。
窓際の椅子に座ったリュミエラは、何もない机を見つめて小さく息を吐く。
「……暇ね」
「休め」
向かいに座っていたゼラスが即答した。
「朝から休んでるわ」
「なら順調だな」
「何が順調なのよ」
リュミエラが呆れたようにゼラスを見る。
その横で、リズナが苦笑した。
「本を読むくらいならいいんじゃない?」
「夜まで読むだろ」
「まだ夕方よ」
「そのまま夜になる」
「ゼラス」
リュミエラが目を細める。
「私を何歳だと思ってるの?」
「千二百くらい」
「そういう意味じゃないわよ」
リズナは思わず笑った。
昨日から、ゼラスの過保護ぶりは目に見えて増している。
魔皇から直接言われたことも大きいのだろう。
「父上にも言われたわ。しばらく戦闘任務から外すって」
「やっぱり反対したんですか?」
「まだ動けるとは言ったわ」
「言うと思ってました」
「リズナちゃんまで」
「だって、陛下もゼラスもミテイも、全員同じ予想だったもの」
リュミエラが少しだけ眉を寄せる。
「私のいないところで意見を揃えないでほしいわね」
「そこは諦めろ」
ゼラスが言う。
「今回は全員一致だった」
「余計に腹が立つわ」
そう言いながらも、リュミエラの表情はどこか穏やかだった。
リズナはその顔を見つめる。
胸の奥に残る複雑な気持ちは、まだ消えていない。
ゼラスとリュミエラの間には、自分の知らない長い時間がある。
それを昨日今日で何も感じなくなるはずもなかった。
けれど、今すぐ答えを出す必要もない。
そう思えるだけで、少し楽になっていた。
その時。
扉が二度叩かれた。
『入っていい?』
ミテイの声だった。
「ええ」
扉が開き、小型の記録板を持ったミテイが入ってくる。
『アスタリアから連絡が来た』
ゼラスがすぐに立ち上がった。
「谷の件か?」
『うん。先に向かった人たちが着いた』
リズナも表情を引き締める。
「何か見つかった?」
『見つかった。陛下のところで報告する』
ミテイはリュミエラを見る。
『リュミエラは休んでて』
「分かってるわ」
『ならいい』
簡潔に言って、ミテイは扉へ向き直る。
リズナも立ち上がった。
「終わったら、あたしが戻って説明します」
「ええ。お願い、リズナちゃん」
ゼラスも部屋を出ようとする。
その背中へ、リュミエラが声をかけた。
「ゼラス」
「何だ?」
「そんなに何度も振り返らなくても、勝手に出ていかないわよ」
ゼラスが一瞬黙る。
「……そうか」
「本当に過保護ね」
「今はそれでいい」
「はいはい」
リュミエラは小さく笑った。
魔皇の執務室へ入ると、すでに通信盤が用意されていた。
魔皇が机の向こうから三人を見る。
「来たか」
「はい、陛下」
リズナが頭を下げる。
『お待たせしました、陛下』
ミテイも続いた。
ゼラスが通信盤を見る。
「アスタリアから?」
「ああ。先行した者たちが谷へ到着したそうだ」
魔皇はミテイへ視線を向ける。
「繋げられるか」
『はい、陛下』
ミテイが通信盤へ手を触れた。
淡い光が広がり、揺れていた像が安定していく。
やがて、中央風塔にいるセレイナの姿が映し出された。
『聞こえてる?』
「ええ。聞こえてるわ」
リズナが一歩前へ出る。
「谷まで着いたの?」
『先に飛んでもらった人たちがね。私は中央風塔にいるわ』
「何かあった?」
セレイナが頷く。
『あった。今、記録を送る』
通信盤を通じて、複数の映像と魔力情報が送られてくる。
谷を挟む巨大な岩壁。
吹き抜ける強い風。
草木の少ない地表。
周囲には建物らしいものは何もない。
そして最後に、一枚の記録が大きく表示された。
灰色の岩肌へ、幾重もの細い線が刻まれている。
リズナが目を細めた。
「魔法陣……?」
『そう見えるわ』
セレイナが答える。
『でも、古いものじゃない』
岩肌を削った部分はまだ新しい。
風雨に晒され続けた周囲と比べれば、その違いは明らかだった。
ゼラスの目が鋭くなる。
「最近刻まれたものか」
『現地でもそう判断してる』
「周りには本当に何もないの?」
『ないわ。ただの谷よ』
リズナは記録を見つめた。
古い施設が残っていたわけではない。
忘れられた転移装置が眠っていたわけでもない。
誰かが、この何もない谷へわざわざ足を運び、自分で術式を刻んだのだ。
ミテイが記録板へ手を置く。
灰色の魔力が広がり、送られてきた術式を一つずつ分解していく。
暫くして。
『ヴェルグの可能性が高い』
「分かるの?」
リズナが尋ねる。
『術式そのものは初めて。でも、魔力を重ねる順番が同じ』
ミテイは魔皇へ向き直る。
『観測所で確認したヴェルグの術式と、同じ癖があります、陛下』
「偽装は?」
『表面の魔力はほとんど消されています。ただ、内部の組み方までは消し切れていません』
魔皇が記録を見る。
「何をする術式だ?」
『まだ解析中です』
ミテイの指先が灰色の線を辿る。
数本。
十数本。
複雑に重なった線が、少しずつ役割ごとに分けられていく。
やがてミテイが顔を上げた。
『転移術式じゃない』
リズナが目を瞬く。
「違うの?」
『うん。これだけで何かを飛ばすことはできない』
ゼラスが腕を組む。
「なら何だ?」
『周囲の風に魔力を流して、遠くの反応を拾う術式』
「探知か」
『近い』
ミテイは一本の線を拡大する。
『特定の魔力の流れを探してる』
魔皇が問う。
「何を探しているかまでは分かるか?」
『今の記録だけでは分かりません、陛下』
「そうか」
リズナは岩壁の術式を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……やっぱり、変なのよね」
ゼラスが横を見る。
「昨日の話か?」
「ええ」
リズナは頷く。
「最近、転移って言葉を聞くことに慣れすぎてた気がする」
通信盤の向こうで、セレイナが黙って聞いている。
「あたしが最初にガリオールへ飛ばされた時なんて、何が起きたのかも分からなかった。帰る方法もなかったし、ガリオールではアスタリアの存在さえほとんど知られてなかった」
「ああ」
「それが今じゃ、ヴェルグが転移したとか、座標が残ってるとか、普通に話してるでしょう?」
ミテイが短く答える。
『転移が普通になったわけじゃない』
「そうよね」
リズナは新しく刻まれた魔法陣を見る。
『短距離転移と、大陸を越える移動も別物』
「そこだ」
ゼラスが頷いた。
「俺も気になってた」
ゼラスは術式の記録へ視線を向ける。
「戦闘中に数歩や数十歩飛ぶだけなら、ヴェルグ自身の魔法でできる。だが、あいつが一人で好きな時にアスタリアとガリオールを行き来できるなら、祖先帰還路を使おうとする理由がない」
リズナの目が僅かに大きくなる。
「自分では大陸を越えられないから、経路を必要としてる」
「少なくとも、その方が筋は通る」
魔皇も頷いた。
「今ある情報だけならば、私もそう考える」
ミテイが記録板へ目を落とす。
『ヴェルグ自身が大陸間転移した痕跡は見つかっていません』
「じゃあ、この谷の術式も」
リズナが岩壁を指す。
「大陸を越えるために何かを探してた可能性がある?」
『可能性はある。でも、まだ決められない』
ミテイは簡潔に答えた。
「そうね」
リズナも頷く。
決めつけるには、まだ情報が足りない。
ミテイはさらに術式の構造を追う。
その指が、突然止まった。
『方向がある』
「方向?」
『この術式、全方向を探してない』
灰色の線が記録板の上で一本にまとまっていく。
『探知する範囲を絞ってる』
セレイナが地図を広げた。
『どっち向き?』
『谷から見て西寄り』
「西方天測所?」
リズナが尋ねる。
『違う。もっと南』
セレイナが送られてきた線を地図へ重ねる。
暫くして、指が止まった。
『このまま伸ばすと……海ね』
「海?」
『ええ。アスタリアの西岸へ出る』
ゼラスの目が細くなる。
「その先は?」
セレイナは少し考えた。
『海しかないわ』
リズナが口を開く。
「ガリオールがある方角は?」
セレイナは地図を見つめる。
『正確な位置関係はまだ分からないけど……大まかな方角で言えば、海の向こうになるはず』
室内が静かになった。
リズナは記録板に引かれた一本の線を見る。
アスタリアの谷から。
海へ。
そのさらに向こうへ。
「……ガリオールを探してた?」
『まだ分からない』
ミテイがすぐに答えた。
『方向が近いだけ』
「ええ。分かってる」
リズナもすぐに頷く。
魔皇が静かに口を開く。
「だが、確認する価値はあるな」
『はい、陛下』
ミテイが答える。
「術式そのものへ近づけば、もう少し分かるか?」
『詳しい記録があれば解析できます。ただ、触る必要はありません』
魔皇は通信盤へ視線を向けた。
「こちらとしては、危険を冒してまで調べることは望まん」
セレイナが頷く。
『私も同じ考えよ』
魔皇は続ける。
「可能であれば、今より近い位置から術式と周囲の魔力を記録してもらいたい。だが、現地でどう動くかはそちらの判断に任せる」
『分かったわ。こちらで安全を確認してから決める』
「助かる」
短く答えた魔皇に、セレイナも頷いた。
リズナが通信盤へ近づく。
「セレイナ、現地の人たちには無理させないでね」
『ええ。そのつもりよ』
「何か変化があったらすぐ教えて」
『分かった』
余計な言葉は交わさず、二人は頷き合った。
通信が終わる。
光が消えた後も、ミテイは記録板を見つめていた。
リズナが隣から覗き込む。
「ねえ、ミテイ」
『何?』
「もし本当にヴェルグが海の向こうを探してたなら……」
リズナは少し考えてから続ける。
「ヴェルグも、ガリオールとアスタリアの正確な位置関係を知らなかった可能性があるのよね?」
『あると思う』
「自由に行き来できるなら、探す必要もない」
『うん』
ゼラスも記録板を見る。
「千年前から全部知ってたわけじゃないってことか」
『少なくとも、そういう可能性は出てきた』
魔皇が腕を組む。
「ヴェルグが持っている知識を、我々が過大に見積もっていた部分もあるのかもしれんな」
「長く生きてるからって、何でも知ってるわけじゃないってことね」
リズナが言う。
ゼラスが横を見る。
「俺を見ながら言うな」
「あら。別にゼラスのことだとは言ってないわよ」
「顔が言ってる」
リズナは小さく笑った。
ミテイが記録板を閉じる。
『次の記録が来たら、もっと分かる』
「ええ」
リズナは窓の外へ視線を向けた。
少し前まで。
アスタリアとガリオールは、互いに存在すらほとんど知らないほど遠い場所だった。
今も、その距離が縮まったわけではない。
転移という言葉に慣れ始めていただけで。
大陸と大陸の間には、今も簡単には越えられない隔たりがある。
そして、その隔たりを越える方法を。
ヴェルグも探しているのかもしれない。
岩と風しかない谷に刻まれた新しい術式。
それは、古代から残されたものではない。
ヴェルグ自身が、今の時代に残した痕跡だった。




