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第百五十五話 残された座標

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第百五十五話 残された座標


翌朝。


ゼラスとリズナは、魔皇の執務室へ呼び出されていた。


ミテイも一緒である。


昨夜から続けていたヴェルグの転移痕跡について、解析結果を報告するためだ。


ただ一人、リュミエラの姿はない。


治療師から安静を言い渡され、今は自室で休んでいる。


三人が入室すると、机の向こうに座っていた魔皇が顔を上げた。


「来たか」


「はい、陛下」


リズナが頭を下げる。


『はい、陛下』


ミテイも続いた。


ゼラスは魔皇の正面へ立つ。


「お呼びでしょうか、陛下」


「ああ」


魔皇は短く答えた。


だが、その視線は机の上の記録板ではなく、ゼラスへ向けられている。


暫く。


何も言わない。


リズナは隣のゼラスを横目で見た。


ゼラスも理由は分かっているらしい。


いつもより僅かに姿勢が固い。


「ゼラス」


「はい」


「昨夜、治療師から報告を受けた」


魔皇が静かに口を開く。


「リュミエラが子を身籠ったそうだな」


「はい、陛下」


「今朝、本人からも話を聞いた」


魔皇の目が細くなる。


「父親は、お前だと」


「はい。俺です」


ゼラスは目を逸らさなかった。


執務室に沈黙が落ちる。


魔皇が魔力を放ったわけではない。


それでも、空気そのものが僅かに重くなったようにリズナには感じられた。


やがて魔皇が深く息を吐く。


「……相手がお前でよかったと思うべきなのだろうな」


ゼラスが僅かに眉を上げた。


「と、言いますと?」


「他の男だったなら」


魔皇は真顔のまま言った。


「私は今頃、殺すべきかどうか真剣に考えていたかもしれん」


リズナは思わず魔皇を見る。


冗談には聞こえなかった。


ミテイも黙っている。


ゼラスだけが僅かに困った顔をした。


「陛下。それは皇として、かなり危ない発言では」


「分かっている」


魔皇は即答する。


「だから実行したとは言っていない」


「考えるところまでは行くんですね」


「娘の話だぞ」


「……なるほど」


「納得するな」


リズナは口を挟むべきか迷った。


ただ、魔皇の顔を見ていると、本当にそれくらい考えかねなかったのだろう。


魔皇は椅子の背へ身体を預けた。


「私は、お前を昨日今日知ったわけではない」


ゼラスの表情から、僅かに軽さが消える。


「はい」


「昔から見てきた。お前がどういう男かも、リュミエラとどれほど長く関わってきたかも知っている」


魔皇は静かに続ける。


「お前が、あの子を粗末に扱う男ではないこともな」


ゼラスは暫く黙っていた。


それから、深く頭を下げる。


「ありがとうございます、陛下」


「礼を言うところではない」


「では、黙って聞きます」


「最初からそうしろ」


魔皇は小さく息を吐いた。


だが、その表情は先ほどより僅かに柔らかくなっている。


「リュミエラは産むことを望んでいる」


「はい」


「私も反対するつもりはない」


そこで魔皇は、一度視線を落とした。


「……孫か」


ぽつりと零れた言葉に、リズナが目を瞬く。


「陛下」


「何だ?」


「その……嬉しいんですね」


魔皇はリズナを見る。


否定するかと思った。


しかし。


「当然だ」


あっさりと言われた。


「娘に子ができたのだ。嬉しくないはずがないだろう」


「そうですよね」


リズナは思わず笑った。


魔皇は腕を組む。


「問題は、リュミエラが大人しくしていられるかだ」


ゼラスが苦笑した。


「そこは俺も心配してます」


「昔からそうだ。自分の身体より役目を優先する。少し具合が悪い程度なら隠す。止めても必要だと思えば動く」


「否定できませんね」


「お前も似たようなものだがな」


「俺もですか?」


「昨日、誰が壁へ叩きつけられた?」


ゼラスが黙った。


リズナがすぐに頷く。


「陛下のおっしゃる通りです」


「リズナ、お前はどちらの味方だ?」


「今回は陛下です」


「今回は、か」


魔皇は少しだけ口元を緩めた。


そして、リズナへ真っ直ぐ視線を向ける。


「リズナ」


「はい、陛下」


「リュミエラから、昨夜のことも少し聞いた」


リズナの表情が僅かに固くなる。


魔皇はそれ以上、詳しい事情へ踏み込まなかった。


「お前にも思うところがあるだろう」


「……はい」


「それでも、あの子の傍にいてくれたそうだな」


「放っておけませんでしたから」


「そうか」


魔皇は一度頷く。


「ありがとう」


父親としての声だった。


リズナは少しだけ目を見開いた。


「……はい」


それ以上、うまい返事は思いつかなかった。


魔皇は再びゼラスを見る。


「ゼラス」


「はい、陛下」


「娘を頼む」


今度はゼラスも冗談を挟まなかった。


「はい」


「戦うと言えば止めろ」


「はい」


「長時間の飛行船移動も、治療師が許可するまではさせるな」


「はい」


「高出力の魔法も禁止だ」


「はい」


「夜中まで記録を読んでいたら取り上げろ」


ゼラスが一瞬黙った。


「そこまでやりますか?」


「やれ」


「陛下、かなり親馬鹿になってませんか?」


一瞬。


執務室が静まり返った。


リズナは目を閉じた。


言わなければいいのに。


魔皇がゆっくりとゼラスを見る。


「ゼラス」


「はい」


「先ほど、お前でよかったと言ったな」


「はい」


「撤回してもいいぞ」


「申し訳ありませんでした」


ゼラスが即座に頭を下げた。


リズナは堪えきれず、小さく吹き出した。


『陛下のおっしゃることは正しいと思います』


ミテイが真面目な顔で言う。


魔皇がミテイへ目を向ける。


「そう思うか?」


『はい、陛下。リュミエラは止めなければ無理をすると思います』


「やはりそうだな」


『ですが、ゼラスも同じです』


「おい」


『昨日も怪我を軽いと言っていました』


魔皇の視線がゼラスへ戻る。


「……だそうだ」


「ミテイ、お前」


『事実です』


ミテイはそこで魔皇へ向き直った。


『失礼しました、陛下』


「構わん」


魔皇は小さく息を吐く。


「ゼラス。お前自身も無茶をするな」


ゼラスの表情が少し変わる。


「父親になる前に死ぬような真似は許さん」


「……はい、陛下」


今度の返事には、いつもの軽さはなかった。


「それと、リュミエラは当面、戦闘任務から外す」


「賛成です」


ゼラスが即答する。


「あたしも、それがいいと思います」


リズナも続いた。


『はい、陛下。私も賛成です』


「本人は文句を言うだろうがな」


「確実に言いますね」


「言うでしょうね」


『言うと思います』


三人の答えが重なった。


魔皇は眉間へ皺を寄せる。


「……そこだけは全員の意見が一致するのだな」


「長い付き合いですから」


ゼラスが答えた。


「私から伝える。今回は何を言われても譲らん」


親としての決意が滲む声だった。


魔皇は一度咳払いをする。


「さて」


表情が変わる。


父親から、魔族を統べる皇のものへ。


机の上に置かれた記録板へ視線を移した。


「ヴェルグの件を聞こう」


『はい、陛下』


ミテイが記録板へ手を置く。


灰色の魔力が細い線となって浮かび上がった。


『昨日、観測所からヴェルグが逃走した時に使ったのは短距離転移です。地下から安全な場所へ離脱するためのものだと思います』


ゼラスが腕を組む。


「あいつが戦闘中にも使っていたものと同じか」


『ほぼ同じ』


ミテイは一度ゼラスへ答えてから、魔皇へ向き直る。


『ただ、その術式に別の座標情報が混ざっていました』


「行き先か?」


『完全なものではありません。ですが、ガリオールのものではない可能性が高いです』


ミテイが一本の線を拡大する。


『風属性の比率と、周囲の魔力を座標へ組み込む方式が、アスタリアで確認したものに近いです』


リズナは記録板を見つめた。


そして、ふと眉を寄せる。


「……なんだか変な感じね」


ゼラスが横を見る。


「何がだ?」


「最近、転移って言葉を普通に聞きすぎてる気がする」


『普通に?』


「だって、あたしが最初にガリオールへ飛ばされた時なんて、何が起きたのかすら分からなかったのよ」


リズナは記録板から視線を外した。


「あの時は、アスタリアへ戻る方法なんて見当もつかなかった。ガリオールだって、別の大陸があること自体ほとんど知らなかったでしょう?」


「ああ」


「それなのに今は、転移したとか、転移座標とか、そんな話を当たり前みたいにしてる」


ミテイが少し考える。


『転移が普通になったわけじゃない』


「ええ。そうなのよね」


『普通じゃないことが続いてるだけ』


ゼラスが記録板を見る。


「それに、俺が気になってるのもそこだ」


「何?」


「戦闘中に数歩、数十歩飛ぶのと、大陸を跨ぐのは別物だ」


ゼラスは灰色の線を指す。


「ヴェルグが自力で好きな時にアスタリアとガリオールを行き来できるなら、祖先帰還路なんて調べる必要がない」


リズナの表情が引き締まる。


「……確かに」


魔皇も頷いた。


「私もそう見る」


ミテイが記録板へ視線を落とす。


『短距離転移は本人の術式だけで成立してる。でも、大陸間を渡った痕跡は見つかってない』


「なら、この座標は?」


『アスタリアにある何かを確認するために、記録していた可能性がある』


「場所そのものを覚えていたってこと?」


『たぶん。でも、こっちだけでは特定できない』


魔皇が問う。


「アスタリア側の記録が必要か」


『はい、陛下』


「ならば通信を繋げよ」


『承知しました、陛下』




暫くして。


解析室へ移動した三人の前で、通信盤に光が灯った。


揺れていた像が安定すると、中央風塔にいるセレイナの姿が映し出される。


『聞こえてるわ』


「セレイナ、久しぶり」


リズナが通信盤へ近づく。


セレイナの表情が少し緩んだ。


『リズナ。そっちから連絡してくるなんて、何かあったの?』


「ええ。かなり大きな進展があったわ」


『何が分かったの?』


「今回の転移に関わってたと思われる人物と、直接会った」


セレイナの表情が変わる。


『直接?』


「ヴェルグ=アルディオンっていう魔族よ」


予想通り、セレイナは眉を寄せた。


『ヴェルグ?』


「知らなくて当然よ。ガリオールで千年前に死んだことになってた人物だから」


リズナはこれまでに分かったことを簡潔に説明した。


かつてリュミエラの直属の部下として研究に関わっていたこと。


死を偽装した可能性が高いこと。


その後、別人として魔皇軍へ潜り込み、八十六年前のエルシアの転移にも関与していたと考えられること。


そして昨日、その本人と思われる男と戦ったこと。


話を聞くにつれて、セレイナの表情が険しくなっていく。


『八十六年前の件まで、その男が……』


「ええ。まだ全部を証明できたわけじゃないけど、かなり繋がってる」


『それで、その男は?』


「逃げられた」


『でしょうね』


リズナが眉を寄せる。


「何で即答なのよ」


『捕まえてたら、もっと嬉しそうに連絡してくるでしょ』


「……それはそうかも」


ミテイが通信盤へ近づいた。


『ヴェルグが残した転移術式から、別の座標情報を拾った』


『場所が分かったの?』


『まだ。でも、アスタリア側の可能性が高い』


「それで、向こうの記録と照らし合わせたいの」


リズナが続ける。


「エルシアさんなら、何か分かるかもしれないと思って」


『エルシアさんなら、今はネフィラさんの屋敷よ』


「やっぱり母さんのところにいるのね」


『ええ。看護をしながら、空いた時間に西方天測所から持ち出した記録も読んでもらってる』


「悪いんだけど、エルシアさんにも見てもらえない?」


セレイナはすぐに頷いた。


『分かった。屋敷へ連絡を入れるわ』


「母さんの具合が悪かったら、無理に来てもらわなくていいからね」


『そこは確認する。来られそうなら中央風塔まで来てもらうわ』


「お願い」


『少し待ってて』


通信が一度途切れた。




待っている間も、ミテイは記録板から目を離さなかった。


リズナは椅子へ腰を下ろす。


「こうやって普通に話してるのも、不思議よね」


ゼラスが壁へ背を預けたまま答える。


「さっきの話か?」


「ええ」


リズナは消えた通信盤を見る。


「少し前まで、セレイナとまた話せるかどうかすら分からなかったのに」


「今も自由に行き来できるわけじゃない」


「分かってる」


リズナは小さく笑った。


「だから余計に変な感じなのよ」


ミテイが顔を上げる。


『慣れすぎない方がいいかも』


「転移に?」


『うん』


「そうね」


ゼラスも頷いた。


「当たり前だと思い始めた時が一番危ない。ヴェルグがやってることは、今でも異常だ」


その言葉に、リズナの表情が引き締まった。




暫くして。


通信盤が再び光った。


像が安定すると、セレイナが映し出される。


その隣には、エルシアが立っていた。


『待たせたわね』


「エルシアさん」


リズナが身を乗り出す。


「母さんは大丈夫ですか?」


『ええ。今は眠っているわ。私が戻るまで、屋敷の方に見てもらっているから心配しないで』


「よかった……。呼び出してしまってすみません」


『気にしなくていいのよ。八十六年前のことに関わるのでしょう?』


エルシアの表情が真剣になる。


『私にも見せて』


『今送る』


ミテイが記録板へ手を置いた。


灰色の魔力が通信盤へ流れ込み、拾い上げた座標情報と、その周囲に残っていた魔力の特徴が送られていく。


エルシアとセレイナが受け取った情報を覗き込んだ。


『……これは』


エルシアの手が止まる。


「何か分かりますか?」


『座標そのものは分からないわ。でも、この風の流れには覚えがある』


ミテイが顔を上げた。


『どこ?』


『少し待って』


エルシアは傍らに置かれていた古い記録を開く。


何枚か頁をめくり、別の資料へ手を伸ばす。


セレイナも地図を広げた。


暫くして。


エルシアが一枚の記録を指で押さえた。


『たぶん、この辺りよ』


「何があるの?」


リズナが尋ねる。


エルシアは地図の一点を示す。


『西方天測所からかなり南へ下った場所に、大きな岩谷があるの』


「岩谷?」


『ええ。人が住むような場所ではないわ。一年を通して強い風が抜ける土地みたい』


エルシアは古い記録を見ながら続ける。


『西方天測所では、周辺の風と魔力の流れを長期間記録していた。この特徴が、その谷の記録とかなり近いわ』


ゼラスが通信盤へ近づく。


「そこに何か施設があるのか?」


『いいえ』


エルシアは首を横へ振った。


『少なくとも、私が読んだ記録にはないわ。ただの自然の谷よ』


リズナは少しだけ安心したように息を吐く。


「じゃあ、昔の転移施設が残ってるとかじゃないのね」


『そういう記録はないわ』


ミテイが送られてきた情報を見比べる。


『場所はかなり絞れる』


セレイナが地図へ目を落とした。


『今の街道からは外れてる。中央風塔から普通に向かえば何日かかかるわね』


「人を出せる?」


リズナが尋ねる。


『ええ。飛べる者を先に向かわせれば、周辺だけなら早く確認できる』


「でも、中――っていう場所でもないのよね」


『谷だからね』


セレイナが少し笑う。


『勝手に遺跡へ入ったりはしないわよ』


「そういう意味じゃなくて」


リズナも苦笑した。


「ヴェルグが本当にそこへ行ってたなら、何か仕掛けてるかもしれないってこと」


セレイナの表情が戻る。


『分かってる。まず遠くから確認させる』


「お願い。危なかったら絶対に引いてね」


『はいはい』


「返事が軽い」


『リズナに言われたくないわ』


「何よ、それ」


エルシアが二人を見て小さく笑う。


ゼラスは地図へ視線を向けたまま口を開いた。


「ヴェルグ本人が今そこにいるとは限らない」


『うん』


ミテイが答える。


『残ってた座標が、その谷を示している可能性が高いだけ』


「それでも十分だ」


ゼラスの目が細くなる。


「昨日まで、あいつがアスタリアのどこを見ていたのかすら分からなかった」


リズナも頷いた。


「セレイナ。何か見つかったら、すぐ連絡して」


『分かった』


「エルシアさんも、ありがとうございました。母さんのところへ戻ってあげてください」


『ええ。そのつもりよ』


「母さんに、あたしは元気だって伝えておいてください」


『ちゃんと伝えるわ』


「お願いします」


通信盤の光がゆっくりと消えた。


解析室へ静けさが戻る。


ミテイは記録板に、新しく絞り込んだ位置を書き加えた。


そこにあるのは、古代の転移施設でも、忘れられた装置でもない。


ただの岩と風の谷。


それでも、ヴェルグの残した座標はそこを示している。


リズナは記録板を見つめた。


「少し前なら、大陸の向こうに残った座標をこっちから追ってるなんて、考えもしなかったわね」


「ああ」


ゼラスが答える。


「だが、だからって転移が当たり前になったわけじゃない」


「分かってる」


リズナは静かに頷いた。


むしろ逆だ。


当たり前ではないからこそ。


ヴェルグが何をしようとしているのか、確かめなければならない。


そのための最初の場所が、ようやく見えた。

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