第百五十四話 知らなかった事情
治療師が医務室を出ると、室内へ静けさが戻った。
リュミエラは寝台へ横になり、ゼラスはその傍らに立っている。
リズナは少し離れた椅子へ腰を下ろしていた。
先ほどよりは落ち着いている。
それでも、まだ聞かなければならないことが残っていた。
「ゼラス」
「何だ?」
「リュミエラさんとのこと、きちんと説明して」
ゼラスは黙ってリズナを見た。
リズナも視線を逸らさない。
「子供ができたことは分かったわ。でも、どうしてそうなったのか、あたしは何も知らない」
「……そうだな」
「さっきは驚きすぎて、そこまで考えられなかった。でも、このまま曖昧にはしたくないの」
リュミエラが寝台から身体を起こそうとする。
「私からも話すわ」
「無理に起きなくていいです」
「でも、ゼラスだけに説明させることではないでしょう?」
リズナは少し迷った後、枕を重ねてリュミエラの背を支えた。
「これなら大丈夫ですか?」
「ええ。ありがとう、リズナちゃん」
リズナは椅子へ戻り、二人を見つめる。
「いつのことなの?」
「お前がアスタリアへ戻った後だ」
ゼラスが答えた。
リズナの胸の奥が、僅かに痛む。
「やっぱり、あたしがいない間なのね」
「ああ」
「何があったの?」
ゼラスは一度息を吐いた。
「エルシアを若返らせた時のことは覚えてるな」
「もちろんよ」
忘れるはずがない。
白い光に包まれたエルシアの身体が、老いた姿から連れ去られた当時の姿へ戻っていく。
リズナは、その光景をすぐ傍で見ていた。
「でも、それがリュミエラさんと何の関係があるの?」
「若返りの秘術には副作用がある」
「副作用?」
「ああ。およそ三十年に一度、発情期が来る」
リズナは何度か瞬きをした。
「……発情期?」
『発情期』
ミテイが確認するように繰り返す。
「二度言わなくていいわよ」
リズナは額へ手を当てた。
あまりにも予想外の言葉だった。
「そんな副作用があるなんて、聞いてないわ」
「話してなかったからな」
「胸を張って言うことじゃないでしょう?」
「胸は張ってない」
「そういう問題じゃないの」
リズナが睨むと、ゼラスは僅かに視線を逸らした。
リュミエラが静かに言葉を継ぐ。
「普段なら、前の発情期から三十年ほど経って現れるものなの。でも今回は、エルシアへ秘術を施したでしょう?」
「ええ。八十六年前の状態まで戻したんですよね」
「そうよ。自分ではなく、他人の身体を一度に大きく若返らせた。その負担によって、本来の周期とは関係なく発情期が引き起こされたの」
「それが、いつ?」
「秘術を使ってから二日後よ」
リズナはゼラスへ視線を向ける。
「そんなに急に来たの?」
「ああ。最初は少し熱が残ってる程度だった。だが、二日目に一気に強くなった」
「自分で抑えられなかったの?」
「抑えようとはした」
ゼラスは誤魔化さずに答える。
「だが、長く耐えられる状態じゃなかった」
「本人の意思だけでは鎮めるのが難しいのよ」
リュミエラが補足した。
「魔力と生命力が身体の中で過剰に巡る。放置すれば、ゼラス自身にも負担がかかるわ」
リズナは膝の上で両手を握る。
事情は少しずつ分かってきた。
だが、一番聞きにくいことが残っている。
「それで、リュミエラさんが相手をしたんですね」
「ええ」
リュミエラは隠さず頷いた。
「どうしてリュミエラさんだったの?」
「以前にも、同じ反動を知っていたからよ」
「昔にもあったんですか?」
「ええ。ゼラスが他人へ同じ秘術を使った時、私が傍にいたの。その時に、発情期がどう現れるのかも知ったわ」
二人の間には、自分の知らない長い時間がある。
分かっていたはずなのに、その一端を具体的に聞かされると胸がざわついた。
「最初に異変へ気づいたのも私よ」
リュミエラはゼラスへ一度視線を向ける。
「状態を確認して、発情期が始まっていると伝えた。その上で、どうするか二人で話したの」
「話したって……何を?」
「互いの意思を確認した」
ゼラスが答える。
「どちらかが止めたいと思ったら、必ず止める。それを確かめた上で決めた」
「無理に求められたわけではないわ」
リュミエラの声に迷いはなかった。
「私も、自分の意思で受け入れたのよ」
リズナは暫く黙った。
「相手は、誰でもよかったの?」
「違う」
ゼラスは迷わず答えた。
「誰でもよかったわけじゃない。反動のことを知っていて、俺が任せられたのはリュミエラだけだった」
ゼラスはリュミエラへ一度視線を向ける。
「それに、俺たちの間にあったものが消えたわけでもない」
リズナの胸へ、鋭い嫉妬が刺さった。
だが、目を逸らさずに尋ねる。
「つまり、発情期を鎮めるためだけに、リュミエラさんを利用したわけじゃないのね?」
「ああ」
「かといって、あたしの代わりにしたわけでもない?」
「違う」
答えは早かった。
「お前の代わりに誰かを求めたわけじゃない。リュミエラを都合よく使ったつもりもない」
「それは、リュミエラさんにも伝えたの?」
「ああ」
リュミエラが小さく頷く。
「ゼラスは、あなたの代わりではないと言ったわ。私を反動を鎮めるためだけの相手として扱うつもりもないと」
「そうですか」
リズナは短く答えた。
ただの衝動だった。
だから何の意味もなかった。
そう言われるよりはよかった。
けれど、二人の間には今も消えていないものがあると知れば、それはそれで複雑だった。
「……事情は分かったわ」
リズナは胸の奥に溜めていた息を、ゆっくりと吐き出す。
「あたしに隠れて二人で会い続けてたわけでも、軽い気持ちで関係を持ったわけでもないのね」
「それは違う」
「今回、関係を持ったのはその一度だけよ」
リュミエラも答えた。
リズナは小さく頷く。
少なくとも、何も知らない自分を置き去りにして、二人が密かに関係を続けていたわけではなかった。
ただの浮気だったわけでもない。
それでも、別の怒りは残る。
「それなら、どうして今まで黙ってたの?」
ゼラスが沈黙した。
「若返りの秘術を使ったことは、あたしも見てた。反動があったことも、その後に何があったのかも、戻ってから話せたでしょう?」
「話すべきだった」
「分かってたの?」
「ああ」
「だったら、どうして?」
「最初は、お前がアスタリアにいたからだ」
ゼラスは言葉を選びながら続ける。
「離れた場所にいるお前へ伝えても、余計な心配をさせると思った」
「それはゼラスが勝手に決めたことでしょう?」
「ああ」
「戻ってきた後は?」
ゼラスは僅かに目を逸らした。
「言い出す時期を逃した」
「逃したんじゃなくて、言いにくくて先延ばしにしたんでしょう?」
「そうだな」
あまりにも素直に認められ、リズナは額へ手を当てた。
「本当に、こういう時だけ変に正直なんだから」
『ゼラスが悪い』
ミテイが言った。
「お前は迷わないな」
『今回はゼラスが悪い』
「今回は、ミテイの言う通りよ」
ゼラスは反論しなかった。
リュミエラが申し訳なさそうに目を伏せる。
「私からも話すべきだったわ」
「リュミエラさんだけの責任じゃありません」
リズナは首を横へ振った。
「二人で決めたことなら、どちらか一人だけが謝るのは違います」
「でも、リズナちゃんを傷つけたことに変わりはないわ」
「ええ。傷つきました」
リズナは正直に答えた。
「事情を聞いて、ただの浮気じゃないことは分かりました。それでも、何も感じないわけじゃありません」
リュミエラは黙って聞いている。
「嫉妬もしてます。あたしの知らない二人の関係があることも、子供までできたことも、すぐに平気になれるとは思えません」
「分かってるわ」
「だから、少し時間をください」
「ええ。急がせるつもりはないわ」
「ありがとうございます。ちゃんと自分の中で整理してから、また話します」
「分かったわ、リズナちゃん」
リズナはゼラスへ視線を移す。
「ゼラスも、それでいい?」
「ああ」
「勝手に、あたしが身を引くとか決めないでよ」
「決めるつもりはない」
「リュミエラさんと子供を守るために、あたしとのことを終わらせるとかも駄目だからね」
「俺はお前を手放す気はない」
迷いのない声だった。
リズナは一瞬、言葉を失う。
こんな時に限って、真っすぐ言う。
頬が熱くなるのを感じ、リズナは顔を背けた。
「だったら、最初から隠し事なんてしないでよ」
「悪かった」
「次からは、ちゃんと話して」
「ああ」
『次の発情期も?』
ミテイが尋ねる。
リズナはゆっくりとミテイを見る。
「……それは、三十年後でしょう?」
『普通なら』
「今回は秘術で早まった」
ゼラスが補足する。
「分かってるわよ。今、その確認をしたかったわけじゃないの」
『でも大事』
「大事だけど、今じゃないの」
リズナが額を押さえると、リュミエラの口元に僅かな笑みが浮かんだ。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
リズナは椅子から立ち上がり、寝台の傍へ近づいた。
「リュミエラさん」
「なに?」
「産みたいっていう気持ちは、変わらないんですよね?」
リュミエラは自分の腹部へ手を添えた。
まだ外からは何も分からない。
それでも、そこには確かに新しい命がある。
「ええ。変わらないわ」
その声に迷いはなかった。
リズナは暫く黙った後、ゆっくりと頷く。
「分かりました」
「リズナちゃん……」
「まだ、全部を受け入れられたわけじゃありません。でも、この子には何の責任もないもの」
リズナは、リュミエラの手へ自分の手を重ねる。
何かを感じ取ることはできない。
それでも、その内側に命があると知れば、触れ方も自然と慎重になった。
「無事に生まれてきてほしいとは思ってます」
リュミエラの目が僅かに潤む。
「ありがとう、リズナちゃん」
「ただし」
リズナはゼラスを振り返った。
「これからは、今まで以上にしっかりしてもらうからね」
「分かってる」
「リュミエラさんに無理をさせないこと」
「ああ」
「あたしに黙って、大事なことを決めないこと」
「ああ」
「怪我を浅いって自分で決めないこと」
「それも入るのか?」
「入るわよ」
『全部守れる?』
ミテイが尋ねる。
ゼラスは僅かに眉を寄せた。
「守る」
「今度はちゃんと言えたわね」
リズナの声に、リュミエラが小さく笑った。
胸の奥に残った痛みは、まだ消えていない。
三人の関係が、すぐに綺麗な形へ収まるわけでもない。
それでも、知らないまま疑い続けるよりはよかった。
これから話す時間はある。
生まれてくる命を迎えるまで、向き合う時間も残されている。
リズナはリュミエラの手へ自分の手を重ねたまま、静かに息を吐いた。




