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第百五十三話 沈黙のあと



医務室の前を、長い沈黙が満たしていた。


ゼラスは立ち尽くしたまま、開いた扉の向こうにいるリュミエラを見つめている。


リュミエラも何も言わない。


寝台へ腰かけ、片手を腹部へ添えたまま、ゼラスの反応を待っていた。


最初に口を開いたのは、ミテイだった。


『新しい命って、子供?』


「はい」


治療師が頷く。


『誰の?』


あまりにも真っすぐな問いだった。


治療師は困ったようにリュミエラを見る。


リュミエラは僅かに息を吐いた。


「ゼラスよ」


リズナの視線が、ゆっくりとゼラスへ向く。


ゼラスは否定しなかった。


「……ああ」


再び、沈黙が落ちた。


リズナは何度か口を開きかけたが、言葉が出てこない。


驚き。


戸惑い。


胸の奥を刺すような嫉妬。


幾つもの感情が、一度に押し寄せていた。


「いつ?」


ようやく出た声は、自分でも驚くほど平静だった。


リュミエラが答える。


「少し前よ。思い当たるのは、その時だけだから」


「そう」


リズナは短く答えた。


ゼラスが慎重に名前を呼ぶ。


「リズナ」


「ちょっと待って。今、頭の中を整理してるから」


「分かった」


ゼラスはそれ以上何も言わなかった。


その素直さが、今は少し腹立たしい。


リズナは両手を腰へ当て、ゼラスとリュミエラを交互に見る。


「二人とも、何でそんな顔してるのよ」


「どんな顔だ?」


「今にもあたしが剣を抜くと思ってる顔」


ゼラスは僅かに視線を逸らした。


リュミエラも困ったように笑う。


「思ってないわよ」


「嘘。少しは思ったでしょう?」


「……少しだけ」


「正直ですね、リュミエラさん」


リズナは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


胸のざわつきは消えない。


すぐに笑って祝えるほど、器用でもなかった。


「平気ではないわ」


リズナは正直に言った。


「驚いたし、嫉妬もしてる。何であたしが知らないところでって、ちょっと腹も立ってる」


「リズナちゃん……」


「でも、子供には関係ないでしょう?」


リュミエラの言葉を遮り、リズナは続ける。


「生まれてくる子に怒るつもりはないし、いなければよかったなんて絶対に思わない」


リュミエラは目を伏せた。


「ごめんなさい、リズナちゃん」


「謝らないでください」


リズナはすぐに返した。


「謝られると、あたしが二人を責めてるみたいになるでしょう?」


「でも――」


「リュミエラさんは、この子をどうしたいんですか?」


リュミエラの手が、腹部の上で僅かに動く。


まだ外からは何も分からない。


それでも、その内側には確かに新しい命がある。


リュミエラはしばらく考えた後、静かに答えた。


「産みたいわ」


その声に迷いはなかった。


「驚いているし、怖くないと言えば嘘になる。でも、この子を失いたくはない」


ゼラスが一歩、医務室の中へ入る。


「俺も同じだ」


リズナが横目で見る。


「そこは即答なのね」


「迷う理由がない」


「そう」


胸の奥が、少しだけ痛んだ。


けれど、ゼラスが曖昧な態度を取る方が嫌だった。


自分の子供だと分かった瞬間に、守ると決める。


それはゼラスらしい。


「なら、ちゃんと守りなさいよ」


「ああ」


「リュミエラさんだけに全部任せるのは駄目だからね」


「分かってる」


「それと」


リズナはゼラスの正面へ立った。


「だからって、あたしとのことを勝手に終わらせたら怒るから」


ゼラスの目が僅かに見開かれる。


「終わらせるつもりはない」


「本当に?」


「俺はお前を手放す気もない」


今度は、リズナが言葉を失った。


こんな時に限って、迷いなく言う。


頬が熱くなるのを感じ、リズナは顔を背けた。


「だったら、最初からそう言いなさいよ」


「言う前に待てと言われた」


「今は細かいことを言わないの」


『ゼラスが悪い?』


ミテイが尋ねる。


「だいたいゼラスが悪いわ」


『分かった』


「納得するな」


ゼラスが低く返す。


リュミエラが小さく笑った。


だが、すぐに表情を改める。


「リズナちゃん。私は、この子を理由に二人の関係を壊したいわけじゃないの」


「壊させません」


リズナはリュミエラを見る。


「ただ、今すぐ全部受け入れて笑えって言われても無理です。しばらくは嫉妬くらいさせてください」


「ええ。それくらいなら、いくらでも」


「いくらでもは困ります」


「難しいわね」


二人の間に、僅かな笑みが生まれた。


張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。


そこで治療師が遠慮がちに咳払いをした。


「お話の途中で申し訳ありませんが、リュミエラ様にはしばらく安静にしていただく必要があります」


ゼラスがすぐに振り返る。


「何を避ければいい?」


「大出力の魔法、長時間の飛行、激しい運動です。今回の吐き気も、戦闘による負担が重なった可能性があります」


「分かった」


「本人より先に答えないで」


リュミエラが呆れたように言う。


「お前は大丈夫だと言って戦っただろ」


「あの時は知らなかったのよ」


「今は知った。なら休め」


「命令しないで」


「頼んでも戦うだろ」


「それは状況によるわ」


「休め」


「……分かったわよ」


リズナはそのやり取りを見ながら、僅かに頬を膨らませた。


やはり、面白くないものは面白くない。


けれど、その感情を隠す必要もないのだと思う。


ミテイが三人を順番に見た。


『これが修羅場?』


「違う」


ゼラスが即答した。


「たぶん違うわ」


リュミエラが続ける。


リズナは少し考える。


「まだ修羅場にはしないわよ」


『まだ』


ミテイが頷く。


「そこだけ拾わないで」


医務室に、小さな笑い声が広がった。


完全に気まずさが消えたわけではない。


これから話さなければならないことも、決めなければならないことも多い。


それでも、誰かを切り捨てることで終わらせるつもりはなかった。


リズナは寝台の傍へ近づき、リュミエラへ手を差し出す。


「まずは休んでください、リュミエラさん」


「ええ。ありがとう、リズナちゃん」


リュミエラが、その手を取る。


ゼラスは二人の隣に立ったまま、まだ少し呆然としていた。


リズナはそんな彼を見上げる。


「ゼラス」


「何だ?」


「父親になるんだから、しっかりしなさいよ」


ゼラスは一度だけ瞬きをした。


それから、自分へ言い聞かせるように答えた。


「……ああ」

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