第百五十二話 もう一つの反応
観測所を出た一行は、待機させていた飛行船へ戻った。
リュミエラは自分で歩けると言い張ったが、ゼラスは聞かなかった。
成人姿のまま彼女の隣を歩き、片腕で身体を支えている。
「本当に、もう大丈夫よ」
「さっきも同じことを言ってただろ」
「倒れてはいないわ」
「吐き気で魔法が途切れた」
「それは……そうだけど」
「なら、黙って掴まってろ」
リュミエラは何か言い返そうとしたが、諦めたようにゼラスの腕へ身体を預けた。
少し後ろを歩くリズナは、その様子を複雑な気持ちで見つめる。
以前なら、胸の奥に小さな嫉妬が浮かんでいただろう。
今も、全くないとは言えない。
それでも、青ざめたリュミエラを見ていると、そんなことを考えている場合ではなかった。
「リュミエラさん、船に乗ったら横になってくださいね」
「ええ。そうするわ」
『城へ戻ったら診察』
ミテイも念を押す。
「分かってるわよ。二人までゼラスみたいにならないで」
「俺みたいで何が悪い」
「少し過保護なのよ」
「足りないくらいだ」
リュミエラは困ったように笑った。
魔皇城へ戻ると、ゼラスはそのままリュミエラを医務室へ連れていった。
リズナとミテイも付き添おうとしたが、リュミエラに先に報告を済ませるよう言われる。
ゼラスだけは残ると言って譲らなかった。
「報告はリズナとミテイがいれば足りる」
「あなたも当事者でしょう?」
「今はこっちの方が大事だ」
「陛下に失礼よ」
「後で俺から謝る」
リュミエラが溜息をつく。
「分かったわ。好きにして」
リズナは二人を残し、ミテイとともに魔皇の執務室へ向かった。
報告を聞き終えた魔皇は、机の上で指を組んだ。
「ヴェルグ本人と見て、間違いないのだな?」
『はい、陛下。表面の魔力は偽装されていましたが、内側の構造は記録に残されていたものと一致しています』
「変装した姿も、以前の通信管理官とは異なっていました」
リズナが続ける。
「本当の顔がどれなのかは、まだ分かりません」
「姿そのものには意味がないということか」
『おそらく、必要に応じて姿を変えているのだと思います』
ミテイは観測所から回収した記録板を机へ置いた。
『転移の残留魔力も保存しました。すぐに行き先を特定することはできませんが、解析すれば経路の方向は絞れます』
「どれほどかかる?」
『一日か二日ほど必要です』
ミテイは魔皇を真っすぐに見た。
『ただし、ヴェルグも痕跡が残ったことには気づいているはずです。別の場所へ移動する可能性があります』
「構わない。まずは追跡可能な場所を確定させよ」
『承知しました、陛下』
魔皇は椅子の背へ身体を預けた。
「完成品レイスウィザードを使い、アスタリアで何かを進めていた。少なくとも、ヴェルグ自身はそう語ったのだな?」
「はい、陛下」
リズナは頷いた。
「完成品をさらに先へ進めるための条件が、アスタリアには揃っていたと話していました」
「祖先帰還路は閉じられている。すぐに同じ経路を利用することはできまい」
「ですが、別の方法を用意している可能性もあります」
リズナの言葉に、魔皇は静かに頷いた。
「千年をかけて身分を変え、軍の内部へ入り込んだ男だ。用心しすぎるということはない」
魔皇は記録板へ視線を落とす。
「ミテイは解析を続けよ。リズナはゼラスとリュミエラへ、今日のところは休むよう伝えてくれ」
『承知しました、陛下』
「承知しました」
「特にゼラスだ。傷を負った状態で、すぐに追うと言い出しかねん」
リズナは僅かに苦笑する。
「すでに、そのつもりのようでした」
「やはりか」
魔皇は短く息を吐いた。
「私からの命令だと伝えよ」
「はい、陛下」
医務室へ戻ると、ゼラスが廊下の長椅子に座っていた。
成人姿のままだったが、脇腹の傷は治療され、裂けていた衣服も着替えている。
それでも落ち着かないのか、閉ざされた扉を睨むように見つめていた。
「診察は?」
リズナが尋ねる。
「まだ終わってない」
「ゼラスの傷は?」
「浅かった」
「だから、自分で決めないでって言ったでしょう」
「治療師も同じことを言ってた。なら問題ない」
「そういう意味じゃないわよ」
ミテイが扉へ近づく。
『中の魔力、乱れてない』
「分かるのか?」
『リュミエラの魔力は安定してる。毒の反応もない』
ゼラスの肩から、僅かに力が抜けた。
「なら、どうして吐き気が出たんだ」
『診察が終われば分かる』
「それが待てないんだ」
リズナはゼラスの隣へ腰を下ろした。
「気持ちは分かるけど、少し落ち着きなさい」
「落ち着いてる」
「廊下の床に、さっきから何度も亀裂が入ってるわよ」
ゼラスが足元を見る。
靴の下で、石床に細い亀裂が走っていた。
「……古い床だな」
「ゼラスのせいでしょう?」
『ゼラスのせい』
ミテイにも言われ、ゼラスは黙った。
やがて、医務室の扉が開く。
中から治療師が姿を現した。
その表情は深刻ではない。
むしろ、どう伝えるべきか迷っているように見えた。
ゼラスが立ち上がる。
「リュミエラは?」
「体調は安定しています。毒や魔法による異常もありません」
「なら、あの吐き気は何だ?」
治療師はゼラスとリズナを見比べた後、静かに答えた。
「新しい命の魔力反応が確認されました」
廊下が静まり返る。
リズナは、すぐには言葉の意味を理解できなかった。
ミテイだけが僅かに首を傾ける。
『新しい命?』
「はい。まだごく初期ですが、間違いありません」
治療師は医務室の中へ視線を向けた。
「リュミエラ様は、御懐妊されています」
ゼラスは立ったまま動かなかった。
その顔から、怒りも警戒も完全に消えている。
開いた扉の向こうでは、寝台に腰かけたリュミエラが、困ったようにこちらを見ていた。




