第百五十一話 静かな怒り
ゼラスの声は低かった。
怒鳴ってはいない。
それでも、石室を満たす空気が一変した。
ヴェルグは杖を構え直す。
「戦場で隙を見せた者を狙っただけでございます。リュミエラ様であろうと、例外にはなりません」
ゼラスの表情から、最後に残っていた柔らかさが消えた。
「そうか」
黒い魔力が、その身体を包む。
少年の輪郭が伸びていく。
細かった手足へ筋肉がつき、肩幅が広がった。
視線の高さが一気に上がる。
成人姿。
リズナは息を呑んだ。
その姿を見るのは初めてではない。
だが、成人姿のゼラスが戦うところを見るのは初めてだった。
ゼラスは、レイスウィザードを片手で構える。
「フルドライブ」
低い声が落ちた。
次の瞬間、石室の床が砕けた。
ヴェルグの前に、ゼラスが現れる。
ヴェルグが杖を振り上げ、三重の障壁を展開した。
一枚目。
レイスウィザードの一撃で砕け散る。
二枚目。
ゼラスの左拳が突き刺さり、大きく歪んだ。
三枚目が完成するより早く、ゼラスの蹴りがヴェルグの脇腹を捉える。
「ぐっ……!」
ヴェルグの身体が石室の壁へ叩きつけられた。
壁が陥没し、外套が裂ける。
それでもヴェルグは杖を振るった。
ゼラスを囲むように、複数の魔法陣が浮かび上がる。
「ファイアボール」
ゼラスの周囲へ炎が広がった。
放たれる前の術式が火球に呑まれ、次々と爆発する。
爆炎の中から、ゼラスが踏み込んだ。
ヴェルグが短距離転移を起動する。
だが、身体が消える直前にレイスウィザードが振り上げられた。
杖が根元から弾かれ、宙を舞う。
転移を中断したヴェルグが後方へ跳ぶ。
ゼラスは、その着地点へ先回りしていた。
「遅い」
左手がヴェルグの手首を掴む。
握る力だけで、腕を覆っていた防護術式へ亀裂が走った。
ヴェルグの顔から、初めて笑みが消える。
ゼラスはその身体を持ち上げ、石床へ叩きつけた。
轟音とともに、床が大きく陥没する。
ヴェルグは咳き込みながら、辛うじて身を起こした。
口元から血が流れている。
それでも、声だけは丁寧なままだった。
「なるほど……」
ヴェルグは血を拭い、歪んだ笑みを浮かべる。
「評価を改める必要がありそうです。少年の姿に、随分と騙されておりました」
「今さら気づいたか」
ゼラスが一歩近づく。
ヴェルグは転移術式を起動しようとした。
だが、床へ流れた灰色の魔力が光を押さえ込む。
『ここの術式は使わせない』
ミテイが告げた。
リズナも剣を構え、階段へ続く道を風で塞ぐ。
「観念しなさい」
ヴェルグは三人を見回した。
最後に、壁へ身体を預けているリュミエラへ視線を向ける。
「残念です」
ゼラスの目が鋭くなった。
「まだ何かする気か」
「必要な確認は終わりましたので」
ヴェルグが指を鳴らす。
石室の壁に隠されていた術式が、一斉に赤く光った。
ミテイが顔を上げる。
『天井が落ちる!』
頭上の岩盤へ亀裂が走った。
巨大な瓦礫が、リュミエラたちのいる場所へ落下する。
ゼラスの視線がヴェルグから外れた。
舌打ちと同時に身を翻し、落下する岩盤の下へ飛び込む。
両腕で巨大な岩を受け止めた。
衝撃で石床がさらに沈む。
リズナはリュミエラを抱えるように引き寄せ、風の障壁を広げた。
ミテイも灰色の壁を展開し、降り注ぐ細かな瓦礫を遮る。
その一瞬。
ヴェルグの足元に、小さな転移術式が浮かんだ。
ミテイが目を見開く。
『別に仕込んでた術式……止められない』
ヴェルグの身体が、転移の光へ包まれていく。
「お見事です、ゼラス殿」
口元から血を流しながら、それでもヴェルグは薄く笑っていた。
「これほどの力をお持ちとは、認識を改める必要がありそうです」
「逃げながら言う台詞か?」
ゼラスは岩盤を支えたまま睨みつける。
「逃走ではございません。目的を終えたため、退くまでのこと」
ヴェルグは外套の奥で笑みを深めた。
「もっとも、私一人を捕らえるためにリュミエラ様を見捨てられるのでしたら、結果は違ったかもしれませんが」
ゼラスの目に、鋭い殺気が浮かぶ。
「次は逃がさない」
「ええ。次がございましたら、ぜひお試しください」
光が閉じる直前。
ヴェルグはリュミエラへ向けて、深々と頭を下げた。
「それでは失礼いたします、リュミエラ様」
転移の光が消える。
ヴェルグの姿は、石室から完全に消えていた。
ゼラスは支えていた岩盤を横へ投げ捨てた。
轟音とともに、巨大な岩が壁へ突き刺さる。
フルドライブの魔力が収まっても、ゼラスは成人姿のままリュミエラの前へ歩いた。
片膝をつき、その顔を覗き込む。
「リュミエラ」
「もう大丈夫よ……少し気持ち悪くなっただけ」
「大丈夫な顔じゃない」
「ゼラスの傷の方が――」
「俺は後でいい」
「どちらも後回しにしないの」
リズナが二人の間へ入った。
「リュミエラさんは休んでください。ゼラスは傷を見せて」
「浅い」
「自分で決めないで」
リズナが睨むと、ゼラスは僅かに目を逸らす。
ゼラスはレイスウィザードを収納魔法へ戻した。
リズナも剣を鞘へ収め、リュミエラの身体を支える。
「昨日は目眩で、今日は吐き気ですよ。帰ったら、きちんと診てもらいましょう」
「そうね。さすがに少し気になるわ」
「少しじゃない」
ゼラスが即座に言った。
リュミエラは困ったように笑う。
「分かったわ。ちゃんと診てもらうから」
その間に、ミテイはヴェルグが消えた場所へ膝をついていた。
灰色の魔力を転移術式へ流し込み、残された光を集めていく。
『全部は消えてない』
「行き先が分かるの?」
リズナが尋ねた。
『正確な場所は無理。でも、使った経路の一部が残ってる』
灰色の光の中へ、不完全な座標線が浮かび上がる。
風の魔力。
アスタリア側の地脈に近い特徴。
そして、遠方へ伸びていく転移の痕跡。
『追える』
ゼラスが立ち上がった。
その視線には、まだ静かな怒りが残っている。
「今度は準備をさせない」
リュミエラは壁へ身体を預けながら、ヴェルグが消えた場所を見つめた。
千年前に死んだはずの、かつての部下。
今度こそ、その残響を見失うつもりはなかった。




