第百四十六話 未完の報告
ガリオールへ帰還した翌日の午後。
ゼラスたちは、魔皇城の記録室へ集められていた。
部屋の中央に置かれた長机。
その上には、黒い金属で覆われた小型の魔導具が置かれている。
旧第七中継室から回収された自律命令核だった。
八十六年前、エルシアを西方天測所へ固定する命令を出し、その後もリズナの確保を試みたもの。
ゼラスが外部から術式を逆流させたことで停止し、魔皇城で保管されていた。
魔皇は命令核を見下ろす。
「アスタリア側の帰還路は封鎖した。だが、こちら側で何者が命令を用意したのかは、まだ判明していない」
「帰還を優先したから、調査を止めていたのよね」
リズナが言う。
「ああ。エルシアとお前を救出することが先だった」
ゼラスは椅子の背へ身体を預けたまま、命令核へ目を向けている。
魔皇が頷いた。
「当時は時間がなかった。命令核の停止を確認した後、保管を命じるだけで終わっていた」
隣に立つリュミエラが、古い軍務記録を開く。
「命令核に残されていたのは、当時の通信管理官の認証署名です」
「エルシアが転移する前に亡くなっていた人ですよね?」
リズナの問いに、リュミエラが頷く。
「ええ。エルシアが転移したのは八十六年前。署名の持ち主は、その十二年前に死亡しているわ」
「九十八年前か」
ゼラスが呟く。
「旧第七中継室が封鎖されたのは九十年前だったな」
「ええ。通信管理官が死亡してから八年後よ」
リュミエラが机の上へ三つの日付を表示する。
九十八年前。
通信管理官の死亡。
九十年前。
旧第七中継室の封鎖。
八十六年前。
エルシアの転移と、緊急交換方式の実行。
リズナは並んだ日付を見つめる。
「死んだ後に中継室が封鎖されて、さらに四年後に命令が動いた」
「自律命令核なら、術者がいなくても実行はできる」
ゼラスが答える。
「問題は、いつ仕込まれたかだ」
魔皇がミテイへ顔を向けた。
「調査の結果を聞かせてくれ」
『はい、陛下』
ミテイは命令核の隣へ手を置いた。
灰色の魔力が黒い表面へ入り込み、内部の術式を空中へ映し出す。
複雑に折り重なった線の中から、一つの青白い印が浮かび上がった。
『これは通信管理官の認証署名です』
リズナには、以前に見たものと同じ印に見えた。
『署名だけを記録から複製したものではありません。命令核を作った時、本人の魔力が直接流されています』
「では、その通信管理官本人が作ったのか?」
魔皇が尋ねる。
『その可能性が高いです。ただし、命令が実行されたのは本人の死亡後です』
「生きている間に命令を残した、ということね」
リュミエラが言う。
『うん』
ミテイが命令核の術式を一部拡大する。
『命令は最初から、すぐに動くようには作られていない』
「条件があったのか?」
ゼラスが尋ねる。
『風脈を持つ帰還者が、ガリオール側へ現れること』
エルシアが転移したことで条件が満たされ、通常帰還経路が停止した。
代わりに緊急交換方式が選択され、エルシアは施設の固定媒体として残された。
「つまり、エルシア個人を狙ったんじゃない」
リズナは命令核を睨む。
「誰であろうと、風脈を持つ人が来れば閉じ込めるつもりだったのね」
『そう』
「命令を用意した理由までは残っているか?」
ゼラスが尋ねる。
ミテイは小さく首を横へ振った。
『目的に関する部分は消されている。でも、別のものを見つけた』
灰色の魔力が、認証署名の周囲へ広がる。
その外側に、薄い膜のような術式が浮かんだ。
「何だ、それは」
『署名を偽装する術式』
室内の空気が変わった。
リュミエラが身を乗り出す。
「認証署名そのものが偽物なの?」
『違う。署名は本物』
ミテイは薄い膜だけを残し、その内側にある魔力を消した。
『偽装されているのは、署名を持つ者の外見と表層魔力』
「どういうこと?」
リズナが尋ねる。
『命令核へ魔力を流した人物は、別人の姿を使っていた』
人の輪郭を模した灰色の像が浮かぶ。
その上へ、もう一つ異なる輪郭が重なった。
顔。
体格。
声を生み出す喉の構造。
そして、身体の表面を流れる魔力。
それらを薄い術式が覆っている。
「変装魔法か」
ゼラスが目を細めた。
『うん。見た目だけじゃない。表面の魔力も変えている』
「それでも認証署名は本物なの?」
リズナが尋ねる。
『認証署名は、魔力のもっと深い場所にある。そこまで変えると、本人も元へ戻れなくなる』
ミテイは二重になった人影の胸元を指した。
『外側を別人に見せながら、内側の署名だけを認証へ通している』
ゼラスが命令核を見つめる。
「なら、記録に残っている通信管理官の姿も、本当の姿とは限らないな」
『そう思う』
魔皇がリュミエラへ視線を向けた。
「当時の通信管理官の記録は残っているか?」
「はい。すでに用意しています」
リュミエラは机の端に置かれていた記録板を開いた。
一人の男性魔族の姿が映し出される。
年齢は五十代ほどに見える。
短く整えられた灰色の髪。
細い目。
目立った特徴のない、落ち着いた顔立ちだった。
その下には、軍務記録が並んでいる。
魔皇軍通信部所属。
旧中継網の整備と管理を担当。
第一席権限へ触れることを許された、二人の通信管理官のうちの一人。
「この人物が、署名の持ち主よ」
「経歴に不自然なところは?」
ゼラスが尋ねる。
「当時の調査では見つからなかったわ。出身地も家族構成も、軍へ入る以前の経歴も記録されている」
『記録はある。でも、本人がいた証拠は少ない』
ミテイの言葉に、リュミエラが振り返る。
「どういうこと?」
『出身地の記録と、軍へ提出された身分記録を比べた』
別の記録が空中へ並ぶ。
出生記録。
家族の記録。
居住記録。
軍への入隊証明。
『文字も違う。印も違う。でも、使われている記録術式の古さが全部同じ』
リズナが眉を寄せる。
「同じ時期にまとめて作られたってこと?」
『うん。生まれた時から順番に残された記録じゃない。軍へ入る直前に、過去の記録までまとめて作られている』
魔皇の表情が険しくなる。
「経歴そのものが偽造されていたか」
『その可能性が高いです、陛下』
「軍では身体検査も受けるのでしょう?」
リズナがリュミエラへ尋ねる。
「ええ。特に通信管理官は、他人の魔力へ触れる立場だから、定期的な検査を受けていたはずよ」
リュミエラが検査記録を呼び出す。
魔力の総量。
属性。
身体の状態。
認証署名。
どの項目にも異常は記されていない。
ミテイが、その中の一つへ灰色の魔力を重ねた。
『ここにも同じ膜がある』
「変装魔法の痕跡?」
『うん。検査する側には、身体を守るための薄い防護魔法に見えるよう偽装してある』
ゼラスが椅子から立ち上がった。
記録板へ近づき、浮かんでいる術式を覗き込む。
「随分と手が込んでるな」
『何十年も同じ姿でいるための術式。普通の変装より深い』
「解除できるか?」
『今は記録しかない。元の姿までは戻せない』
リズナは記録に映る男を見る。
この顔で軍へ入り、通信管理官となった。
第一席権限へ触れられる立場を得て、旧第七中継室へ命令核を残した。
そして九十八年前に死亡した。
「この人の死因は?」
「任務から戻る途中の事故よ」
リュミエラが記録を開く。
「乗っていた小型魔導艇が海へ墜落した。艇の残骸と本人の認証具は回収されたけれど、遺体は見つからなかった」
「魔力反応は?」
ゼラスが尋ねる。
「残骸から本人のものが検出されているわ。それで死亡と判断された」
ミテイが事故記録を調べる。
しばらくして、命令核の隣へ新たな術式を表示した。
『同じ方法』
「何が?」
『認証具に残った魔力も、身体から自然に漏れたものじゃない。先に切り離して、残したもの』
「生きたまま、自分の魔力だけを事故現場に置いた」
ゼラスが言う。
『うん』
リズナは息を吐いた。
「事故で死んだように見せかけて、別の姿に変わったのね」
「その可能性が高いわ」
リュミエラはそう答えながらも、事故記録を見つめ続けていた。
その横顔が、次第に硬くなっていく。
「リュミエラさん?」
リズナが呼ぶ。
「この術式……」
リュミエラが、変装魔法の一部を拡大する。
何本もの細い線が折り返し、一か所で複雑に結ばれていた。
「見覚えがあるのか?」
ゼラスが尋ねる。
「あるわ」
リュミエラの声は低かった。
「魔力を隠す時、普通は外へ漏れないように線を閉じる。でも、この術式は一度だけ外側へ流してから、内側へ折り返している」
『変装を安定させるため』
ミテイが言う。
「ええ。その方法を好んで使っていた者を、私は知っている」
魔皇が静かに尋ねる。
「誰だ」
リュミエラはすぐには答えなかった。
記録室の奥。
古い軍務資料よりも、さらに古い記録が収められた棚へ視線を向ける。
「確認させてください」
リュミエラは席を立ち、奥の保管庫へ向かった。
幾つもの封印を解除し、一つの記録箱を取り出す。
箱の表面には、千年近く前の日付が刻まれていた。
机へ戻り、中から古びた記録板を一枚取り出す。
そこに映っていたのは、先ほどの通信管理官とは全く異なる男だった。
長い黒髪。
鋭い目。
痩せた長身。
口元には、感情の読めない薄い笑みが浮かんでいる。
「ヴェルグ=アルディオン」
リュミエラが、その名を口にした。
「千年ほど前、私の直属補佐官だった高位魔族よ」
ゼラスが記録の男を見る。
「俺が生まれる前か」
「ええ。魔導具の研究にも詳しくて、私の装備開発を手伝っていた」
ミテイが二つの術式を並べる。
通信管理官の変装魔法。
ヴェルグが過去の研究で使用した魔力制御術式。
見た目は異なる。
だが、余分な線を一つずつ消していくと、同じ折り返しが残った。
『一致してる』
魔皇が尋ねる。
「同じ術者か?」
『術式を作る癖だけなら、真似できる可能性はあります』
ミテイは一度言葉を切った。
命令核の奥から、さらに細い魔力の線を引き出す。
『でも、認証署名の内側に残っていた魔力と、ヴェルグの古い記録に残っている魔力が同じ』
リュミエラの指が、僅かに震えた。
「ヴェルグは死んだはずよ」
「どうやって?」
ゼラスが尋ねる。
「研究中の事故だったわ。空間術式が崩壊して、区画の一部ごと消えた」
「遺体は?」
「残らなかった」
リズナは、先ほどの通信管理官の死亡記録を見る。
海へ墜落した魔導艇。
残された認証具。
見つからなかった遺体。
そして千年前。
崩壊した研究区画。
残らなかったヴェルグの遺体。
「二回とも、身体は確認されていないのね」
リュミエラは小さく頷いた。
「当時は、疑わなかった。事故の規模を見れば、生きているとは思えなかったから」
ゼラスはヴェルグの記録へ目を向けたまま言う。
「死んだように見せかけて姿を変えた。その後、別の経歴を作り、通信管理官として軍へ入った」
『そして、また死んだように見せて姿を消した』
ミテイが続ける。
魔皇は腕を組み、二つの記録を見比べた。
「千年前に死亡したとされた男が、九十八年前まで私の軍にいたということか」
「可能性ではなく、ほぼ間違いありません」
リュミエラは魔皇へ答えた。
「ヴェルグは生きていた。そして第一席権限へ触れ、旧第七中継室に命令を残した」
「現在も生きていると思うか?」
「高位魔族です。寿命だけなら、今も生きていて不思議ではありません」
ゼラスが尋ねる。
「ヴェルグは、何のためにそんなことをした?」
リュミエラは古い記録箱へ視線を落とす。
その中には、ヴェルグが関わった研究資料が残されていた。
すぐに答えようとして、彼女の手が止まる。
「待って」
「どうした?」
リュミエラは記録箱の中身を確かめる。
何枚かの研究記録を取り出し、日付を順番に並べていく。
ヴェルグが事故で死亡したとされた日。
その三日後。
宮殿の研究区画で起きた、別の事件。
リュミエラの表情から、最後の迷いが消えた。
「ヴェルグが死んだ三日後、私の研究区画から一つの魔導具が盗まれた」
リズナが尋ねる。
「何を盗まれたんですか?」
リュミエラはゼラスを見る。
その視線が、彼の腰に刻まれた収納術式へ落ちる。
「レイスウィザードよ」
ゼラスの眉が動いた。
「俺が持ってる魔剣か?」
「違うわ」
リュミエラは首を横へ振る。
「あなたが使っているのは試作品」
古い記録板へ、一本の黒い魔剣が映し出される。
ゼラスの持つものとよく似ている。
だが、刃の形も、刻まれた術式も僅かに異なっていた。
「盗まれたのは、その後に作られた完成品よ」




