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第百四十五話 選んだ場所



地下施設の奥で、最後の確認が続いていた。


ミテイは消えた帰還路の前に立ち、石床の内側へ灰色の魔力を通している。


『異常はない。外側へ繋がる線も残っていない』


「再び開かれる可能性は?」


リズナが尋ねる。


『この施設からは開かない。アスタリア側へ残っていた命令も、もう届かない』


「そう」


リズナは短く息を吐いた。


長い間、自分や母を縛っていたものが消えた。


目に見える鎖はない。


それでも、身体の奥に残っていた重さが、ようやく抜けていくのを感じた。


魔皇が皇核接続盤の前へ戻る。


「アスタリアへ記録を送る。返答を受け取れるのは一度だけだ」


『準備します、陛下』


ミテイが接続盤の隣へ手を置いた。


魔皇の体内にある皇核が僅かに反応し、白い光が盤面へ流れ込む。


今回は道を開くのではない。


封鎖の内側から、結果だけを届ける。


光が細く伸び、やがて空中へ四角い面を作った。


最初は乱れていた景色が、少しずつ形を持つ。


中央風塔の一室。


そこに、四人の姿が現れた。


「リズナ!」


最初に声を上げたのはネフィラだった。


椅子から立ち上がろうとして、隣にいたエルシアが慌てて身体を支える。


「お母さん、まだ無理しないで」


「これくらい平気よ」


「それを平気とは言いません」


エルシアの変わらず少し硬いガリオール語に、リズナは思わず笑った。


「ただいま、お母さん」


「おかえりなさい。怪我はない?」


「大丈夫。みんな無事よ」


ネフィラは画面の向こうにいるゼラスたちを一人ずつ確かめる。


最後にゼラスを見て、柔らかく笑った。


「娘を守ってくれたのね」


「一人で守ったわけじゃない。リズナも俺を助けた」


「そうでしょうね」


ネフィラは満足そうに頷いた。


その後ろでは、リズナの父が腕を組んで立っている。


「話は終わったのか」


「ああ」


ゼラスは覚えたアスタリア語で直接答えた。


「帰還命令も、外側からの接続も止めた。もうリズナたちが勝手に連れていかれることはない」


父はしばらくゼラスを見つめた。


やがて、ゆっくりと頷く。


「そうか。世話になった」


「俺一人の働きじゃない」


「それでもだ」


父はリズナへ目を向ける。


「お前は、しばらくそちらにいるのか」


「うん」


リズナは迷わなかった。


「あたしはガリオールに戻る。ここでやりたいこともあるし、一緒にいたい人もいるから」


父の視線がゼラスへ移る。


ゼラスは逸らさずに受け止めた。


「そうか」


父はそれだけ言った。


だが、表情は穏やかだった。


「急いで戻ってくる必要はない。ただ、たまには顔を見せろ」


「もちろん」


「ゼラス。お前もだ」


「ああ。今度はもう少し長く世話になる」


「食事の量だけは事前に知らせろ」


「努力する」


リズナが吹き出した。


「あれ、努力でどうにかなるの?」


「少しは減らせる」


「無理しなくていいわよ」


ネフィラまで笑い始める。


その隣で、セレイナが一歩前へ出た。


「こちらの風塔も安定しています。器の登録はすべて停止されました」


「他の地方塔は?」


リズナが尋ねる。


「十二基とも正常です。これからは、一人へ負担を集めることもありません」


セレイナは一度言葉を切り、静かに頭を下げた。


「あなたと、お母様にしたことを消すことはできません。それでも、同じことを繰り返さないようにします」


リズナは真っ直ぐ彼女を見る。


「お願い。あたしが見てなくても、ちゃんと続けて」


「はい」


「それと、全部一人で背負わないで。周りにも任せなさい」


セレイナは僅かに目を見開いた。


やがて、小さく笑う。


「あなたに言われるとは思いませんでした」


「あたしも覚えたばかりだから」


リズナは横にいるゼラスを見た。


ゼラスも彼女を見返す。


何も言わなくても、意味は伝わった。


エルシアが机の上に積まれた記録へ触れる。


「外側に関する記録は、こちらで保管します。分からない部分も多いですが、今すぐ調べる必要のある危険はなくなりました」


『記録の写しは私も持っている』


ミテイが答えた。


『必要になったら照合できる』


「ありがとうございます、ミテイさん」


『うん』


エルシアは一瞬だけ瞬きをしたが、すぐに微笑んだ。


「またお会いできる日を楽しみにしています」


『私も』


ネフィラがリズナへ手を伸ばす。


触れることはできない。


それでもリズナは、画面へ自分の手を重ねた。


「お母さん」


「何?」


「あたし、ちゃんと自分で決めたから」


「ええ」


ネフィラは優しく頷く。


「だから安心して行きなさい。アスタリアに戻りたくなったら戻ればいいし、ガリオールにいたいならいればいい」


「うん」


「どちらを選んでも、あなたが私の娘であることは変わらないわ」


リズナの目元が僅かに熱くなる。


泣くほどではない。


けれど、声を出すまでに少しだけ時間が必要だった。


「ありがとう」


白い画面が揺らぎ始める。


ミテイが魔皇へ顔を向けた。


『陛下、接続が閉じます』


「分かった」


魔皇はアスタリアの四人へ告げる。


「記録は受け取った。今後、本人の意思を無視した移動が行われることはない」


リズナの父が深く頭を下げる。


ネフィラたちもそれに続いた。


最後にネフィラが笑う。


「またね、リズナ」


「うん。またね」


光が静かに消えた。




地上へ戻る頃には、空が明るくなり始めていた。


長い夜だった。


宮殿の高い窓から、朝の光が差し込んでいる。


魔皇はすぐに休むようリュミエラに連れていかれた。


「陛下、今日はもう執務をなさらないでください」


「報告だけは――」


「なさらないでください」


「分かった」


二人の姿が廊下の奥へ消える。


ミテイも記録の整理をするため、別室へ向かった。


残されたリズナとゼラスは、宮殿の外へ出る。


朝の風が、リズナの赤い髪を揺らした。


見慣れた魔都の景色。


遠くに並ぶ黒い屋根。


空を飛ぶ魔族たち。


アスタリアとは何もかも違う。


それでも、不思議と落ち着いた。


「戻ってきた気がする」


リズナが呟く。


「実際、戻ってきただろ」


「そういう意味じゃないの」


「分かってる」


ゼラスは隣へ立ったまま、魔都を眺める。


「アスタリアを選んだ祖先も、お前がガリオールへ来ることまでは決めてない」


「ええ」


「塔も、外側も、もう関係ない。お前がここにいるのは、お前が決めたからだ」


リズナは横目で彼を見る。


「ゼラスは?」


「何がだ?」


「あたしがここにいること、どう思ってるの?」


ゼラスは少しだけ考えた。


以前なら、言葉を選ぶふりをして誤魔化していたかもしれない。


だが、今はその必要がなかった。


「嬉しい」


短く、はっきりと答える。


リズナの頬が僅かに赤くなった。


「本当に素直になったわね」


「嫌か?」


「まさか」


リズナはゼラスの手を取った。


少年の姿では、自分の手より少し小さい。


それでも握り返す力は強かった。


「あたしも、ここにいたい」


「そうか」


「ゼラスと一緒に」


「ああ」


「それだけ?」


ゼラスは彼女の手を引き、少しだけ距離を縮めた。


「これから長いんだ。急いで全部言う必要はないだろ」


「逃げたわね」


「逃げてない。お前が隣にいるなら、続きを話す時間はいくらでもある」


リズナはしばらく彼を見つめた。


やがて、仕方なさそうに笑う。


「なら、ゆっくり聞かせてもらうわ」


「そうしてくれ」


二人は手を繋いだまま歩き始めた。


強制された道ではない。


誰かに決められた帰還でもない。


リズナが自分で選び、ゼラスと共に進む道だった。


朝の光が、二人の前へ長く伸びていた。



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