第百四十三話 優先排除対象
『優先排除対象を更新』
人の形をした黒い影が、ゼラスへ顔を向けた。
次の瞬間、その姿が消える。
「ゼラス!」
リズナの声と同時に、ゼラスは魔剣を正面へ立てた。
甲高い音が響く。
影の腕から伸びた黒い刃が、魔剣レイスウィザードと激突していた。
細い身体からは想像できないほど重い。
ゼラスの足元に亀裂が走る。
「さっきの奴より速いな」
黒い刃を押し返し、影の腹部へ蹴りを入れる。
影は後方へ飛ばされたが、空中で身体を崩し、黒い霧となって着地した。
傷は残っていない。
『切断直前に送り込まれた実行命令』
ミテイが影の構造を追う。
『外側から本体が来たわけではない。施設内の魔力で、一時的な身体を作っている』
「さっきの回収機能と同じか?」
『似ている。でも、これは回収ではなく排除だけを目的にしている』
影の顔に赤い文字が流れた。
『主境界門封鎖実行者。
排除を継続』
「俺を覚えてたらしいな」
「嬉しそうに言うこと?」
リズナがゼラスの隣へ並び、剣を構える。
「八百年も覚えてもらってたんだ。少しくらい喜んでもいいだろ」
「相手を選びなさいよ」
影の両腕が刃へ変わる。
床を蹴った瞬間、身体が三つに分かれた。
一体がゼラスへ。
残る二体が左右からリズナへ迫る。
リズナは一体の刃を受け流し、その勢いを利用して背後へ回った。
剣が首を斬り抜ける。
だが手応えがない。
斬られた影は黒い霧へ変わり、すぐに別の位置で形を取り戻した。
「どれが本物?」
『すべて同じ命令から作られている。ただし、施設との接続を持つ身体は一つだけ』
「見分けられる?」
『動かせば』
ミテイが両手を床へ向ける。
灰色の線が広間全体へ走り、三体の足元から石柱が突き上がった。
影たちは同時に回避する。
そのうち一体だけが、石柱へ触れる直前に僅かに動きを止めた。
『ゼラスの正面。本体』
「分かった」
ゼラスが踏み込む。
魔剣が黒い胴体を斜めに斬り裂いた。
影は霧へ変わろうとしたが、刃から流れ込んだ炎が形を繋ぎ止める。
赤い文字が乱れた。
『封鎖実行者の魔力を確認。
対抗処理を開始』
黒い身体の表面へ、白い線が走る。
次の一撃を受けた瞬間、魔剣を覆っていた炎が消えた。
ゼラスが僅かに目を細める。
「俺の魔力を散らしたか」
『グランラビリスで記録した魔力特性を使っている』
「そこまで残してたのね」
リズナが影の背後へ回り込む。
風を纏った刃が腰を捉える直前、影の身体が大きく歪んだ。
剣を避けながら、黒い腕がリズナの喉へ伸びる。
ゼラスがその手首を掴んだ。
「狙いが変わってるぞ」
影の顔に、新しい文字が浮かぶ。
『指定回収個体を確保。
封鎖実行者を排除』
「欲張りね」
リズナは掴まれた腕の関節へ剣を入れた。
黒い腕が切断される。
だが、床へ落ちる前に無数の細い糸へ変わり、今度はゼラスの腕へ絡みついた。
「ゼラス!」
「離れてろ」
糸は皮膚ではなく、ゼラスの魔力へ食い込んでいた。
腕を覆う赤い魔力が不規則に揺れる。
『封鎖権限の痕跡を破壊している』
ミテイが影を見据える。
『身体を壊しても命令が再構成される。施設の供給経路から完全に切り離す必要がある』
魔皇は、広間中央に設置された皇核接続盤へ手を添えたまま尋ねる。
「切り離せるか?」
ミテイは魔皇へ顔を向けた。
『はい、陛下。ただし、命令の中心が常に移動しています。固定させる必要があります』
「どうすれば止まる?」
リュミエラが二体の分身を冷気で牽制しながら尋ねる。
『対象へ直接接続した時だけ、中心が一か所に集まる』
リズナの表情が険しくなる。
「つまり、誰かが捕まらないと駄目なの?」
『そうなる』
「なら、もう捕まってる」
ゼラスが自分の腕へ絡む黒い糸を見た。
影は彼の魔力を辿り、少しずつ距離を詰めている。
「このまま来させろ」
「駄目よ」
リズナが即座に否定した。
「腕だけじゃなくて、身体へ入り込むつもりでしょう?」
「ああ。だから中心が出る」
「簡単に言わないで」
「切ってくれるんだろ?」
リズナは言葉を止めた。
ゼラスは彼女を見て、僅かに笑う。
「任せる」
以前なら、自分だけで終わらせようとしていた。
だが今は、迷いなくリズナへ託している。
リズナは剣を握り直した。
「……絶対に動かないでよ」
「ああ」
「痛くても我慢して」
「それは切る場所によるな」
「ちゃんと命令だけ斬るわよ!」
ゼラスが影へ向き直る。
「来い」
黒い糸を掴み、自分から引き寄せた。
影の身体が一気に崩れ、黒い濁流となってゼラスへ流れ込む。
腕。
肩。
胸。
少年の身体を覆うように、黒い膜が広がっていく。
魔力が激しく乱れた。
赤い文字がゼラスの胸元へ集まる。
『封鎖実行者。
存在情報の破棄を開始』
ゼラスの膝が僅かに沈んだ。
リュミエラが振り返る。
「ゼラス!」
「こっちはいい。分身を止めてくれ」
「……分かった」
リュミエラは奥歯を噛み、二体の影へ両手を向けた。
青白い冷気が広間を走る。
分身の足元から頭部まで、一瞬で凍りついた。
「ミテイ、まだ?」
『中心を探している』
ミテイの瞳が強く光る。
黒い膜の内部を、灰色の線が透かし出していく。
胸。
肩。
首。
赤い文字は移動を繰り返していた。
『まだ動いている』
ゼラスの身体を覆う黒い膜が、顔へ迫る。
リズナは剣を構えたまま動かない。
焦って斬れば、ゼラスの魔力経路まで傷つける。
「ゼラス、もう少しだけ耐えて」
「急がなくていい。外すなよ」
「分かってるわ」
黒い膜が首まで達した。
その瞬間、すべての赤い文字が一か所へ集まる。
鎖骨の下。
『そこ』
ミテイの声と同時に、リズナが踏み込んだ。
剣へ纏わせた風を、刃より細く絞る。
ゼラスの身体へ触れる寸前で軌道を変え、黒い膜だけを斬り抜いた。
赤い文字が真っ二つに割れる。
影が悲鳴にも似た音を上げた。
「ゼラス!」
「ああ」
ゼラスは自由になった右手を、裂けた黒い膜へ突き込んだ。
「天魔剛炎」
白に近い炎が、影の内部だけで爆ぜる。
黒い膜がゼラスの身体から剥がれ、燃えながら広間へ散った。
『陛下、今です』
「分かった」
魔皇が体内の皇核を起動する。
胸の奥から広がった重い魔力が、掌を通して皇核接続盤へ流れ込んだ。
施設から影へ伸びていた供給線が、一斉に閉じられる。
逃げ場を失った黒い欠片を、リュミエラの冷気が包んだ。
一片も散らさず、その場へ凍結させる。
ミテイが両手を閉じた。
灰色の石壁が四方から迫り、凍った欠片を中心へ押し固める。
『ゼラス』
「任せろ」
魔剣レイスウィザードが、黒い塊の中心を貫いた。
刃から炎が広がる。
今度は再構成されない。
黒い塊は、灰すら残さず消滅した。
同時に、リュミエラが止めていた二体の分身も崩れ落ちる。
広間に静けさが戻った。
リズナはすぐにゼラスへ駆け寄った。
「大丈夫?」
「ああ。少し魔力を削られただけだ」
「少し?」
「俺にとってはな」
リズナは胸元に残った黒い痕を確かめる。
すでに薄くなり始めていた。
「無茶したわね」
「任せた方が早かった」
「そういう問題じゃないでしょう?」
「ちゃんと斬っただろ」
「当たり前よ」
ゼラスが軽く笑う。
「なら問題ない」
リズナはまだ何か言いたそうにしていたが、最後には息を吐いた。
「次は、先に相談して」
「今も相談したぞ」
「あれは決定を伝えただけ」
「難しいな」
「覚えて」
「ああ。努力する」
素直に返され、リズナはそれ以上怒れなくなった。
リュミエラが二人のそばへ来る。
「本当に変わったわね、ゼラス」
「今のどこを見てそう思った?」
「誰かに任せたところ」
ゼラスはリズナを見る。
「任せられるからな」
リズナは一瞬目を見開き、照れたように視線を逸らした。
ミテイは消滅した影の跡を調べていた。
『排除命令は消えた。仮設回収口も再構成されていない』
魔皇が皇核接続盤から手を離す。
「これで、外側から伸びていた線はすべて切れたか?」
ミテイは魔皇へ向き直り、静かに頭を下げた。
『はい、陛下。現在の皇核を追跡できる接続は残っていません』
「なら、封鎖を更新できる」
魔皇が再び皇核接続盤へ手を伸ばす。
その直前。
空中に、細い赤い文字が浮かび上がった。
外側から届いたものではない。
切断前に残された、最後の記録だった。
『優先排除処理――失敗』
続いて、もう一行が現れる。
『第七移住群帰還管理者へ、失敗記録を送信――不能』
ミテイが文字を見上げる。
『完全に切れている。これは送れなかった記録』
「なら、向こうには結果が分からないのね」
リズナが尋ねる。
『少なくとも、今は分からない』
魔皇は皇核接続盤へ掌を置いた。
体内の皇核が呼応する。
胸の奥から解き放たれた魔力が、接続盤を通して地下施設全体へ広がっていく。
地の底から重い振動が返った。
「始めるぞ」
幾重もの光が、魔皇の周囲へ収束する。
「アスタリアの祖先帰還路を、今代の皇核権限で再封鎖する」




