第十三話 亀裂
黒風の森に浮かぶ門の中央へ、細い亀裂が走った。
白い光の隙間から見えたのは、夜のような黒ではない。
光そのものが届かず、奥行きさえ判別できない暗闇だった。
「映像を拡大して」
リュミエラの指示に、監視室の兵士が魔導板を操作する。
白い門が画面いっぱいに映し出された。
亀裂は髪の毛ほどの細さしかない。
それでも、周囲の景色が僅かに歪んで見えた。
木々の輪郭が引き伸ばされ、地面に落ちた影が亀裂へ向かって揺れている。
『第一席、遺構周辺の魔力が急速に低下しています』
通信越しに、カレナが報告する。
「術式が吸収しているの?」
『その可能性があります。
周囲の魔力だけではありません。空気の流れも、遺構へ引き寄せられ始めました』
先ほどまでは、監視部隊を押し戻すように風が吹いていたはずだ。
今度は逆に、何もかもを門へ引き込もうとしている。
リズナは魔導板へ目を凝らした。
映像の中で、木々の枝が遺構へ向かって大きくしなっている。
落ち葉や小石が地面を滑り、白い門の中央へ吸い寄せられていた。
「近くの兵士を下がらせてください」
リズナはカレナへ向けて言った。
「風の向きが変わっただけじゃありません。
流れが少しずつ細く、速くなっています。このまま強くなったら、立っていられなくなると思います」
『承知しました。
監視部隊をさらに後退させます』
カレナが背後の兵士へ指示を出す。
画面の中で、遺構を監視していた者たちが木々の間を離れていった。
「禁書庫の石板は?」
ゼラスが尋ねる。
別の兵士が監視記録を切り替えた。
魔導板の片側に、黒い箱の映像が映し出される。
箱の蓋に浮かんだ白い門にも、同じような亀裂が生じていた。
ただし、見えているものは黒風の森とは逆だった。
森の門は、亀裂の奥に暗闇がある。
禁書庫の門からは、細い白い光が漏れていた。
「片方が入口で、片方が出口なのか?」
ゼラスが二つの映像を見比べる。
「そう見えるわね。
けれど、本当に二つの門が直接つながっているとは限らないわ」
リュミエラは白い線の流れを確認する。
「森の術式は周囲の魔力を取り込んでいる。
石板の方は、内部に蓄えた魔力を外へ押し出そうとしているわ」
「送り出す側と、受け取る側……?」
リズナが呟いた。
「その可能性はあるわね」
「でも、禁書庫と黒風の森をつなぐだけなら、普通の転移門と同じじゃないんですか?」
リュミエラは首を横に振った。
「門の間に、外側を経由しているとしたら話は別よ」
「わざわざ外側を通るのか?」
「二つの地点を直接つなぐのではなく、一度こちら側の外へ出て、別の穴から戻る。
そういう構造なら、距離や既存の防護結界を無視できるかもしれないわ」
「そんな術式、危険すぎない?」
「だから禁じられたのよ」
リュミエラの声に、僅かな硬さが混じる。
「通り道に何があるのかも分からない。
門を閉じた後、外側から何かがついてこない保証もないもの」
魔導板の中で、森の亀裂が僅かに広がった。
細い隙間の向こうを、何か白いものが横切る。
形を確かめるより早く、それは暗闇へ消えた。
「今、何か……」
リズナが画面へ近づく。
『こちらでも確認しました』
カレナの声が低くなる。
『生物かどうかは判別できません』
「断定しなくていいわ。
記録だけ残して」
リュミエラは兵士へ命じる。
「映像と魔力波形を、欠落なく保存して。
禁書庫側の記録とも同期させなさい」
「承知しました」
監視室の兵士たちが慌ただしく動く。
ゼラスは二つの門を見つめたまま、口を開いた。
「このまま放っておけば、完全に開くな」
「ええ、森の遺構が集めている魔力量も増え続けているわ」
「壊せないのか?」
カレナが通信越しに答える。
『周辺からの遠距離攻撃も検討しました。
しかし、術式へ衝撃を与えた際の影響が予測できません』
「正しい判断よ」
リュミエラは頷いた。
「不完全な状態で壊せば、門が閉じるとは限らない。
境界そのものが裂けたまま残る危険もあるわ」
「なら、現場で流れを止めるしかないな」
ゼラスが言う。
「術式へ供給される魔力を遮断できれば、開門を遅らせられるかもしれないわね」
リュミエラは通信画面へ向き直った。
「カレナ、遺構の周囲へ封魔杭を配置できる?」
『可能ですが、現在の風では接近できません』
「無理に近づける必要はないわ。
私たちが到着してから設置する」
『承知しました。
必要な資材を準備します』
白い門の亀裂が、再び揺れた。
その直後、遺構へ吸い込まれていた落ち葉が空中で止まる。
風が完全に消えた。
「止まった?」
リズナが画面を見つめる。
次の瞬間、門の中央から強い風が噴き出した。
木々が一斉に外側へ倒れ込み、土と枯れ葉が舞い上がる。
監視映像が激しく乱れた。
『魔力障壁を展開!』
カレナの声と、兵士たちの叫びが重なる。
画面が白く染まり、何も見えなくなった。
「カレナ!」
リズナが声を上げる。
数秒後、映像が戻った。
遺構の周辺では、何本もの木が折れている。
だが、監視部隊は十分な距離を取っていたため、巻き込まれてはいないようだった。
『こちらは無事です』
カレナが呼吸を整えながら報告する。
『負傷者も確認されていません』
リズナは詰めていた息を吐いた。
「門は?」
ゼラスが尋ねる。
監視映像が遺構を捉え直す。
白い門は、まだ残っていた。
しかし、中央に走っていた亀裂は閉じている。
術式の光も先ほどより弱い。
「開門に失敗したのかしら」
リュミエラが魔力波形を確認する。
「違う」
ゼラスが言った。
「試したんだ」
「何を?」
「向こう側から、どれだけ力を通せるか」
監視室が静まり返った。
リュミエラは否定しなかった。
画面の中では、白い門がゆっくりと明滅している。
まるで、次に開く時を待っているように。
「出発の準備を」
リュミエラが兵士たちへ告げる。
「最速の飛空艇を第三発着場へ。
封魔杭と観測装置も積み込んで」
「承知しました」
「城内の禁書庫は、第二席権限以上の者を除いて立入禁止。
第三区画の監視員も全員交代させなさい」
兵士の一人が顔を上げる。
「監視を無人化するのですか?」
「ええ、石板の声が精神へ直接届いた以上、近くに人を置くべきではないわ」
「直ちに手配します」
リュミエラは通信画面のカレナへ向き直った。
「到着まで、遺構の変化を監視して。
何が起きても接近しては駄目よ」
『承知しました』
通信が切れる。
ゼラスは監視室の出口へ歩き出した。
リズナもその後を追おうとする。
「リズナちゃん」
呼び止められ、足を止めた。
リュミエラの表情は厳しいままだった。
「現場へ着いた後、あなたが危険だと判断したら、調査から外れてもらうわ」
「でも――」
「あなたにしか分からないことがあるのは承知している」
リュミエラは言葉を重ねた。
「それでも、あなたを危険へ投げ込むために連れていくわけではないの」
リズナは一瞬だけ黙った。
黒風の森の遺構は、自分が故郷へ帰るための手がかりかもしれない。
だが、今起きていることが単なる転移ではないことも分かっている。
「分かりました。
危険だと言われたら、勝手には動きません」
「約束よ」
「はい」
リュミエラは表情を僅かに緩めた。
先に扉を出たゼラスが、廊下から顔をのぞかせる。
「急ぐんじゃなかったのか?」
「誰のせいで話が長くなったと思っているの?」
「俺は何もしてない」
「あなたは、もう少し人を待つことを覚えなさい」
リュミエラは小さく息を吐き、歩き出した。
第三発着場では、既に飛空艇の準備が進められていた。
黒森監視砦から乗ってきたものよりも船体が細く、左右の翼には大型の魔導推進器が取り付けられている。
兵士たちが封魔杭や観測装置を、次々と船内へ運び込んでいた。
「離陸まで、あと五分です」
操縦士の報告に、リュミエラが頷く。
「準備が整い次第、すぐに出して」
三人が乗り込むと、扉が閉じられた。
魔導推進器が低い音を立てて起動する。
船体が浮かび上がり、魔皇城の発着場を勢いよく離れた。
窓の外で、黒銀の城が急速に遠ざかっていく。
リズナは座席へ身体を固定しながら、進行方向へ意識を向けた。
まだ黒風の森は見えない。
それでも、微かな違和感があった。
「どうした?」
向かいに座るゼラスが尋ねる。
「風が、同じ方向へ流れてる」
「船が進んでいるからじゃないの?」
リュミエラが尋ねる。
リズナは首を横に振った。
「飛空艇が起こしてる風じゃありません。
もっと広い範囲の流れです」
窓の外には、幾つもの雲が浮かんでいる。
その形が、少しずつ細長く崩れていた。
全てが、飛空艇の向かう先へ引き伸ばされている。
「黒風の森に向かってる……」
大地を渡る風も。
空を流れる雲も。
見えない巨大な穴へ吸い込まれるように、南西へ向かっていた。




