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第百三十六話 五日目の会話



出発前日の朝。


食堂へ入ったリズナは、足を止めた。


ゼラスが父と向かい合い、アスタリア語で話している。


「昨夜はよく眠れたか?」


「ああ。少し遅くまで文字を読んでたが、問題ない」


「随分熱心だな」


「覚えると決めたからな」


発音には僅かにガリオールの響きが残っている。


それでも会話は途切れず、ミテイも通訳していなかった。


リズナが隣の席へ座る。


「もう普通に話してるじゃない」


ゼラスが振り返った。


「おはよう、リズナ」


「おはよう。……発音も昨日よりよくなってるわね」


「朝からミテイに直された」


『同じ誤りを三度繰り返した』


「三度で直ったなら十分だろ」


『私は一度で直せる』


「お前と比べるな」


ミテイは少し考えた後、静かに頷いた。


『確かに比較条件が違う』


ネフィラが二人のやり取りを聞き、楽しそうに笑う。


「ミテイさんとも、もうアスタリア語で話せるのね」


「日常会話なら困らない。古い施設の言葉は、まだ任せた方がいい」


「五日でそこまで覚える方が普通ではありませんよ」


エルシアが温かい飲み物をネフィラの前へ置いた。


「古い記録には、現在使われていない表現もあります。そちらは私とミテイが確認します」


「頼む。分からないものを分かったふりする気はない」


リズナは椅子へ深く座り、ゼラスの横顔を眺めた。


「本当に覚えちゃったのね」


「覚えると言っただろ」


「疑ってたわけじゃないけど、もう少し苦労すると思ってたの」


「苦労はしたぞ。お前が同じ言葉を何度も言わせるからな」


「発音が違ったからでしょう?」


「今は合ってる」


「ええ。悔しいくらいにね」


ゼラスが少し笑った。


「教え方がよかったんだろ」


今度は、リズナも素直に受け取った。


「ありがとう」


「どういたしまして」


その返事まで自然で、リズナは思わず笑った。




朝食が終わると、父は一枚の紙をゼラスへ差し出した。


屋敷から中央風塔までの道順と、出発時刻が記されている。


ゼラスは上から順に読み、最後の一文で僅かに目を細めた。


「転移室は、明日の朝に起動するのか」


「読めるのだな」


「基本的な文字ならな」


父は椅子へ座ったまま、ゼラスを見つめた。


「ガリオールへの道は危険か?」


リズナが口を開こうとしたが、ゼラスが先に答えた。


「危険はある」


曖昧に安心させようとはしなかった。


「向こうで何が起きるか、まだ分からない。陛下が皇核権限を持っているとも限らない」


父の表情が僅かに硬くなる。


ゼラスはその目を真っ直ぐに見た。


「だから、何も起きないとは言えない。

だが、リズナを一人にはしない。帰る時も一緒だ」


父はしばらく黙っていた。


やがて、静かに頷く。


「その答えの方が信用できる」


「俺も、できない約束をするよりはいいと思ってる」


「似た者同士なのかもしれんな」


父が娘を見る。


リズナは眉を上げた。


「どこが?」


「無理に安心させようとしないところだ」


「それは褒めてるの?」


「半分はな」


「残り半分は何よ」


「二人とも、もう少し周囲を安心させなさいという意味だ」


リズナが隣を見ると、ゼラスも彼女を見ていた。


「気をつけるか」


「そうね」


二人が同時に頷く。


父はそれを見て、小さく息を吐いた。


「本当に似ているな」


今度は、ネフィラも笑った。




「ゼラスさん」


ネフィラが寝台代わりの長椅子から呼びかけた。


「何だ?」


「ガリオールから戻ったら、また来てくださる?」


ゼラスはすぐに頷いた。


「ああ。今度は期限を気にせず、もう少しゆっくり来る」


「それなら、その時までに私も歩けるようになっておかないとね」


「無理はするな。エルシアの言うことを聞いた方がいい」


「まあ。もう私の心配までしてくださるの?」


「リズナの母親だからな。それに、世話になった」


ネフィラの目元が柔らかくなる。


「では、次に来た時は、リズナの子供の頃のお話をしてあげます」


「母さん?」


リズナがすぐに反応した。


ゼラスは少し興味を引かれたようにネフィラを見る。


「それは聞きたいな」


「聞かなくていいわよ」


「どうしてだ?」


「どうしてもよ」


ネフィラは口元へ手を添えた。


「小さい頃のリズナは、風を使えるようになる前から高い木に登って――」


「母さん!」


「まだ何も話していないわ」


「もう始まってるでしょう!」


ゼラスは楽しそうに笑った。


「戻ってくる理由が増えたな」


「そんな理由で戻ってこないでよ」


「お前に会うついでだ」


リズナの言葉が止まる。


ゼラスは何でもないことのように続けた。


「それならいいだろ」


「……先にそっちを言いなさいよ」


「今言った」


ネフィラと父は、もう通訳を待つ必要もなく二人の会話を聞いている。


そのことに気づいたリズナは、僅かに頬を赤くした。




午後には、出発の準備が整った。


ミテイが複製した記録板。


エルシアがまとめた古い施設用語の一覧。


セレイナから預かった、十二の地方風塔に関する報告書。


必要な荷物は、すべてゼラスの収納へ収められた。


『転移室の起動確認が完了した』


中央風塔から戻ったミテイが告げる。


『明朝、ガリオール側の座標へ接続する』


「分かった」


ゼラスは窓の外を見る。


日が沈みかけ、屋敷の庭を赤く染めていた。


明日には、この場所を離れる。


リズナは母のそばへ座り、しばらく何も言わずに手を握っていた。


「ちゃんと帰ってくるわ」


「ええ。待っているわ」


父も娘の肩へ手を置く。


「気をつけて行きなさい」


「うん」


ゼラスはそのやり取りを見た後、父へ尋ねた。


「出発する時に使う言葉があったな」


「行ってきます、か?」


「ああ」


ゼラスは一度、発音を確かめるように繰り返した。


「行ってきます」


父が僅かに笑う。


「それは明日の朝に言いなさい」


「分かった」


「そうしたら、我々はこう返す」


父はゼラスとリズナを順に見た。


「行ってらっしゃい。必ず帰ってきなさい」


ゼラスは、その言葉を静かに聞いた。


そして、今度は迷わず頷いた。


「ああ。一緒に帰ってくる」

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