第百三十五話 森で覚える言葉
三日目の朝。
ゼラスは食堂の端で、ミテイが作った記録板を読んでいた。
書かれているのは、アスタリア語の日常表現だ。
挨拶。
食事。
家族。
出発と帰宅。
よく使う言葉から順に並べられている。
『次』
ミテイがアスタリア語で促す。
ゼラスも同じ言葉で返した。
「もう読める」
発音に僅かな硬さは残っているが、意味は正しく伝わった。
向かいに座っていたリズナが、記録板を覗き込む。
「本当に早いわね。昨日まで、文字を一つずつ確認してたのに」
ゼラスは今の言葉も理解した。
少し考えてから、アスタリア語で答える。
「お前が何度も話すから、覚えやすい」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「なら、もう少し嬉しそうに言ってよ」
「難しいな」
自然に返された言葉に、リズナが目を瞬く。
「今のはちゃんと自然だったわ」
「そうか」
「そこは喜ばないの?」
ゼラスは僅かに笑った。
「嬉しい」
発音は正しい。
だが、妙に素直だった。
リズナは一瞬だけ黙り、視線を逸らした。
『学習を続ける?』
ミテイが尋ねる。
リズナは記録板を閉じた。
「今日は休みにしましょう」
「昨日も少し休んだ」
「昨日は庭を歩いただけでしょう。今日は森へ行くの」
ゼラスの目が記録板から離れた。
「魔獣狩りか?」
「ええ。近くの森に岩背猪が出たって聞いたの。肉は滋養があるから、母さんにも食べさせたいし」
「最初からそう言え。行くぞ」
返事が早かった。
リズナは呆れたように笑う。
「勉強より乗り気じゃない?」
「身体を動かしながらでも覚えられる」
「じゃあ、森ではアスタリア語だけね」
ゼラスは立ち上がった。
「分かった」
今度の発音も、ほとんど乱れなかった。
屋敷から西へ進むと、穏やかな草原が深い森へ変わった。
風脈が安定したことで、木々を抜ける風も以前より柔らかい。
リズナは腰の剣へ手を添え、獣道の前で足を止める。
「跡があるわ」
アスタリア語だった。
ゼラスは地面へ目を向ける。
土が抉れ、太い蹄の跡が北へ続いている。
「一頭?」
「三頭。大きいのが一頭と、少し小さいのが二頭ね」
「分かるのか?」
「足跡の深さが違うでしょう?」
リズナはしゃがみ、折れた枝を示した。
「まだ新しいわ。近くにいる」
ゼラスは周囲へ魔力を広げた。
「北西。三百歩くらいだな」
「それはずるくない?」
「使えるものを使っただけだ」
「今日は狩りのやり方も教えるつもりだったのに」
「なら、知らないふりをするか?」
「それはもっと嫌」
リズナは苦笑しながら立ち上がった。
「先に行くわ。ゼラスは逃げ道を塞いで」
「任せろ」
短い返事には、もう迷いがなかった。
二人が木々の間を進むと、低い唸り声が聞こえた。
苔の生えた岩陰に、三頭の岩背猪がいる。
背中を覆う灰色の甲殻は、並の刃では傷つかない。
中央の一頭だけは、リズナの肩ほどの高さがあった。
リズナは剣を抜く。
「大きいのはあたしがやるわ」
「三頭とも任せてもいいぞ」
「息抜きにならないでしょう?」
「それもそうだな」
ゼラスは後ろへ下がった。
岩背猪が二人の気配に気づき、一斉に顔を上げる。
大きな一頭が地面を蹴った。
リズナは正面から動かない。
突進が届く直前、身体を僅かに横へ滑らせた。
同時に風を足元へ巻きつける。
加速した身体が猪の脇へ回り込み、剣先が甲殻の継ぎ目へ入った。
浅い。
だが十分だった。
猪が怒りに任せて向きを変える。
リズナは追わず、再び正面へ立った。
「同じところを狙う」
口にしたのは、ゼラスへ聞かせるためのアスタリア語だった。
「分かってる」
二度目の突進。
今度は避ける瞬間に風を逆向きへ流した。
猪の巨体が僅かに傾く。
剣が先ほどの傷へ吸い込まれた。
甲殻の下まで刃が届き、岩背猪が地面へ倒れ込む。
残る二頭が左右へ逃げようとした。
ゼラスは片手を上げた。
土が盛り上がり、進路を塞ぐ壁となる。
片方が壁へぶつかり、もう一頭は慌てて向きを変えた。
「一頭だけでいいわよ」
「肉は多い方がいいだろ」
「持って帰るのは誰だと思ってるの?」
ゼラスは少し笑った。
「俺だな」
次の瞬間。
逃げようとした二頭の足元が沈み、身体が土へ固定された。
リズナが振り返る。
「それ、狩りって言う?」
「逃げ道を塞いだだけだ」
「完全に捕まえてるでしょう」
「仕留めるのは任せる」
「そういうところだけ譲るのね」
呆れながらも、リズナは剣を構え直した。
狩りを終える頃には、昼を過ぎていた。
三頭の岩背猪は、解体しやすいようにゼラスの収納へ入れられている。
森を抜ける途中、リズナは木陰で足を止めた。
「どうだった?」
「狩りか? 言葉か?」
「両方」
ゼラスは少し考えた。
「お前が戦ってるのを見るのは、やっぱり悪くない」
「言葉の方は?」
「それも覚えた」
「今の言い方、少し変よ」
「どこがだ?」
リズナは歩きながら、自然な語順を教える。
ゼラスは一度聞いただけで、そのまま言い直した。
「これならどうだ?」
「ええ。今度は自然」
「なら覚えた」
「本当に悔しいくらい早いわね」
「教え方がいいんだろ」
リズナが足を止めた。
「……そういうこと、今は普通に言うのね」
「褒めた方がいいと思った」
「思ったから言ったの?」
「ああ」
ゼラスは不思議そうに彼女を見る。
「嫌だったか?」
「嫌じゃないわ」
リズナは少しだけ頬を緩めた。
「むしろ、もっと言ってもいいくらい」
「それは調子に乗るだろ」
「もう乗ってるでしょう?」
「そうかもしれないな」
二人は笑いながら、屋敷へ続く道を歩いた。
夕方。
屋敷へ戻ると、玄関にはリズナの父が立っていた。
「遅かったな」
リズナが答えるより先に、ゼラスが一歩前へ出る。
「ただいま」
アスタリア語だった。
父の目が僅かに見開かれる。
発音にはまだガリオールの響きが残っている。
それでも、意味ははっきりと伝わった。
「もう話せるのか?」
ゼラスは問いを聞き取り、少し笑った。
「少しだけ。今日は岩背猪を三頭狩った」
「三頭も?」
「一頭はリズナが倒した。見事だった」
リズナが隣で目を瞬く。
父は娘を見た後、ゼラスへ頷いた。
「それは楽しみだ。夕食に出してもらおう」
「俺も楽しみだ」
二人の会話に、ミテイの通訳は入らなかった。
奥から声を聞きつけたネフィラが、エルシアに支えられて姿を見せる。
「おかえりなさい」
ゼラスは彼女へ向き直った。
「ただいま。肉を取ってきた。身体にいいらしい」
ネフィラは驚いた後、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、ゼラスさん」
今度は意味を尋ねる必要がない。
ゼラスも、そのまま答えた。
「どういたしまして」
リズナは隣から彼を見つめる。
「三日目で、もう普通に話してるじゃない」
「まだ足りない」
「何が?」
ゼラスはネフィラと父、それからリズナを順に見た。
「五日後には、もっと話せる」
その言葉も、アスタリア語だった。




