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第百三十話 風の前で



翌朝。


中央広場には、早くから大勢の人が集まっていた。


中央風塔の光が消えたこと。

それでも、王都の風が止まらなかったこと。

そして、十二の地方風塔へ送られた地下記録。


一晩のうちに、噂は王都中へ広がっていた。


広場の正面には、風導院が用意した壇がある。


その上に立つセレイナの胸元には、もう副院長を示す銀の証はなかった。


リズナは壇の脇から、集まった人々を見渡す。


怒りを浮かべる者。

不安そうに空を見上げる者。

何を信じればいいのか分からず、周囲の反応を窺う者。


「緊張してるのか?」


隣に立つゼラスが尋ねた。


彼はすでに少年姿へ戻っている。


「少しだけ」


「剣を持った連中に囲まれた時より?」


「種類が違うのよ」


「全員倒して終わり、とはいかないからな」


「最初から倒すつもりはないわよ」


リズナが呆れて見ると、ゼラスは僅かに笑った。


『始まる』


ミテイがアスタリア語で告げる。


エルシアは、まだ身体を動かせないネフィラのそばに残っていた。


壇上で、セレイナが一歩前へ出る。




「昨日、中央風塔の地下において、風導院が長く隠してきた記録が発見されました」


広場が静まる。


セレイナの声は、風の術式によって隅々まで届いていた。


「先代の風の器、ネフィラ=ルフェリアは、自ら望んで風脈と一つになったのではありません。

短時間の儀式だと欺かれ、接続された後に、二度と外せないと知らされました」


人々の間にざわめきが広がった。


誰かが、そんな話は嘘だと叫ぶ。


別の誰かが、地方風塔へ届いた記録にも同じ内容が残っていたと返した。


セレイナは騒ぎが収まるのを待たずに続ける。


「私は、その事実を知りませんでした。

ですが、知らなかったことは免罪にはなりません。

私は風導院の教えを疑わず、次の器としてリズナ=ルフェリアを中央風塔へ接続しようとしました」


自分の過ちを隠そうとはしなかった。


広場の視線が、壇の脇に立つリズナへ集まる。


「地下では、さらに古い記録も確認されました。

中央風塔は本来、十二の地方風塔を補助するための施設です。

一人の意識を恒久的に接続する必要はありませんでした」


セレイナは、広場の後方に並ぶ風導院の職員たちへ目を向けた。


「その仕組みを変えたのは、初代風導院長です。

そして歴代院長は、器となった者たちの拒絶と苦痛を隠し続けました」


中央広場を、穏やかな風が通り抜ける。


中央風塔の光は消えている。


それでも、風は止まっていなかった。




「リズナ=ルフェリア」


名を呼ばれ、リズナは壇へ上がった。


広場に並ぶ無数の顔が、急に近く感じられる。


セレイナが場所を譲った。


リズナは一度だけ、壇の脇にいるゼラスを見る。


彼は何も言わず、軽く頷いた。


「あたしは、風の器として生まれたつもりはありません」


声を風へ乗せる。


「剣を学んで、風の使い方を覚えて、冒険者になりました。

失敗もしたし、何度も危ない目に遭いました。

それでも、それは全部あたしが選んだことです」


広場のどこかで、子供が母親へ何かを尋ねている。


リズナは続けた。


「でも、中央風塔は違いました。

あたしが生まれた時から次の器として記録して、許可もなく別の大陸へ送りました。

帰ってきた後は、母さんの代わりに接続しようとした」


握った手に力が入る。


「大陸を守るためだと言われました。

一人が犠牲になれば、大勢を救えると」


人々の中には、目を伏せる者もいた。


その理屈を、正しいものとして教えられてきた者たちだ。


「あたしは、それを選びません。

母さんを助けて、あたしも器にはならない。

無理だと言われても、別の方法を探します」


西から吹いた風が、赤い髪を揺らした。


「今、風は流れています。

完璧じゃないかもしれない。

これから問題も起きるでしょう。

でも、そのたびに誰か一人を閉じ込める仕組みへ戻るつもりはありません」


広場は静かだった。


すぐに賛同の声が上がることもない。


長く信じてきたものを、一度の説明だけで捨てられる者ばかりではなかった。


それでも。


誰も、リズナの言葉を遮らなかった。




群衆の中から、年配の男が声を上げた。


「お前が器ではないと言うのなら、何者なんだ!」


敵意よりも、困惑の強い声だった。


ミテイが、その問いをガリオール語でゼラスへ伝える。


ゼラスは男の姿を見た後、壇上のリズナへ目を向けた。


「俺も答えていいか?」


「……何を言うつもり?」


「変なことは言わない」


「昨日も同じようなことを言ってなかった?」


ゼラスは答えず、ミテイを見る。


「訳せ」


『分かった』


彼は群衆へ向き直った。


「リズナは器じゃない」


ミテイがアスタリア語へ訳す。


「リズナ=ルフェリアだ」


その名が、広場へ響いた。


「風が使える。

剣も振れる。

無茶をして、勝手に突っ込むこともある」


「ちょっと」


壇上からリズナが睨む。


ゼラスは気にせず続けた。


「だが、誰かの部品じゃない。

それで十分だろ」


ミテイが最後まで正確に訳す。


一瞬の静寂。


やがて、広場のどこかから小さな笑いが漏れた。


張り詰めていた空気が、僅かに緩む。


リズナは壇の上からゼラスを見下ろした。


「最後の一言だけでよかったんじゃない?」


「全部事実だ」


「人前で言わなくてもいいでしょう」


「お前が何者かの説明には必要だろ」


「絶対にいらないわよ」


ミテイが二人のやり取りを訳そうと口を開く。


「そこは訳さなくていいからね」


『分かった』


今度は間に合った。




壇の前へ、一人の少女が出てきた。


母親に手を引かれた、まだ幼い子供だった。


「風は、なくならないの?」


少女がリズナを見上げる。


リズナは壇を下り、その前に膝をついた。


「ええ。なくならないわ」


「また、誰かが塔に入るの?」


「入らない」


今度は迷わず答える。


「風は、みんなで守るものになったの」


少女は少し考えた後、小さく頷いた。


その母親も、深く頭を下げる。


どこかから、控えめな拍手が聞こえた。


一人。


二人。


やがて、その音は広場のあちこちへ広がっていく。


全員ではない。


腕を組んだままの者もいた。

何も言わず立ち去る者もいた。


それでも、風の器を求める声は上がらなかった。


中央風塔を囲む空へ、十二の土地から届いた風が重なる。


一つの命令に従うためではない。


異なる流れのまま、互いを支えるように。


リズナはその風を感じながら、壇の脇にいるゼラスへ手を伸ばした。


「終わったわ」


ゼラスがその手を取る。


「まだ始まったばかりだろ」


「こういう時くらい、終わったって言わせてよ」


「なら、今日の分は終わりだ」


「それでいいわ」


リズナは笑った。




その時。


中央風塔の方角から、低い鐘の音が一度だけ響いた。


広場の拍手が止まる。


ミテイが塔を振り返った。


『地方風塔から、新しい記録が届いた』


「今度は何だ?」


ゼラスが尋ねる。


ミテイの掌に、淡い光が文字を描く。


それは、古いガリオール語だった。


『西部の塔が、長期保管されていた通信を発見した』


リズナがミテイの横から文字を覗き込む。


「何て書いてあるの?」


ミテイは記録を読み上げた。


『皇核保持者への伝言を保管』


ゼラスの表情から、僅かに笑みが消える。


その下に、新たな文字が浮かび上がった。


『封印期限――まもなく終了』

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