第百二十七話 ルフェリアの記録
翌朝。
ネフィラはまだ自力で起き上がれなかったが、昨夜より顔色はよくなっていた。
寝台の傍らには、リズナの父が座っている。
一晩中、ほとんど離れなかったらしい。
「地下蔵へ行くの?」
ネフィラが娘へ尋ねた。
「ええ。でも、すぐ戻るわ」
「急がなくても大丈夫よ。
百年以上待ったもの。一刻くらいなら待てるわ」
「そういう言い方、ずるいわね」
リズナは母の手を握り返した。
「ちゃんと休んでて。
戻ったら、今までのことを話すから」
「ゼラスさんのことも?」
「……必要なところだけね」
ネフィラが小さく笑う。
言葉の分からないゼラスも、母娘が揃って自分を見たことには気づいた。
「また俺の話か?」
「どうして分かるのよ」
「お前がこっちを見た」
「気にしなくていい話よ」
「そうか」
追及しないゼラスを見て、ネフィラの笑みが少し深くなった。
地下蔵への入口は、屋敷の裏手にあった。
石造りの階段を下りると、古い木箱や記録棚が並ぶ部屋へ出る。
リズナの父が、最も奥にある石壁へ手を触れた。
壁の一部が動き、さらに小さな隠し部屋が現れる。
中央に置かれていたのは、黒ずんだ金属製の箱だった。
「これは、代々ルフェリア家の当主が守ってきたものだ」
父の説明を、リズナがゼラスへ訳す。
「でも、父さんにも開けられなかったみたい。
中核風紋を持つ者の風が必要だとだけ伝わってるって」
リズナが箱へ近づく。
表面には、中央風塔で見たものと似た渦状の紋様が刻まれていた。
だが、塔のような冷たい圧迫感はない。
『命令する術式ではない』
ミテイが箱を調べる。
『中にあるものを守るための鍵』
リズナの父が、驚いたようにミテイを見た。
「今の言葉が分かるのか?」
ミテイは父へ顔を向けた。
今度は、はっきりとアスタリア語で答える。
『分かる。
話し方と記録の規則を覚えた』
リズナも目を瞬いた。
「いつの間に?」
『王都へ来てから、ずっと聞いていた。
地下の記録で足りない部分も埋まった』
「もう話せるの?」
『話せる』
ミテイの発音に不自然さはなかった。
言葉を覚えるというより、記録を整理し、規則を見つけることに長く慣れてきた存在だ。
アスタリア語も、十分な情報さえ集まれば例外ではなかったらしい。
「便利ねえ」
『通訳を全部リズナへ任せなくていい』
「それは助かるわ」
ゼラスだけが会話の内容を理解できず、リズナを見る。
「何の話だ」
「ミテイがアスタリア語を覚えたのよ」
「早いな」
『必要だった』
ミテイが今度はガリオール語で答えた。
ゼラスは短く頷く。
「なら、親父さんとの話は任せられるな」
『任せて』
リズナは箱へ手を置いた。
自分の風を、ゆっくりと紋様へ流し込む。
小さな音が鳴り、蓋が開いた。
中に入っていたのは、一枚の金属板だった。
刻まれているのは古いガリオール語。
現在使われている形とは僅かに異なり、施設内だけで使われていたらしい略記も混ざっている。
エルシアが金属板を受け取った。
「読みます」
全員の視線が集まる。
「『第七移住群、アスタリアへの定着を完了』」
「『現地風脈との適応を確認』」
「『帰還命令を拒否』」
リズナの表情が変わった。
「拒否したの?」
「続きがあります」
エルシアは慎重に文字を追う。
「『移住者の意思により、アスタリアを永住地として選択』」
「『境界門網からの登録解除を申請』」
「『統合管理核保持者、これを承認』」
ミテイが最後の行へ灰色の魔力を近づけた。
『統合管理核保持者』
「中央風塔で見た、魔皇の古い呼び方か」
ゼラスが言う。
『そう』
ミテイはアスタリア語へ切り替え、リズナの父へ記録の意味を説明した。
父は長く守ってきた箱を見つめる。
「ルフェリアの祖先は、帰れなかったのではなかったのか」
「違うみたい」
リズナが答えた。
「帰らないことを、自分たちで選んだのよ」
エルシアが金属板を裏返す。
そこには施設の記録とは異なる筆跡で、短い文章が刻まれていた。
「こちらは、移住者本人が残した言葉のようです」
「何て書いてあるの?」
エルシアが読み上げる。
「『我らの血が始まった場所は、ここではない』」
「『それでも、我らの子が生まれ、育ち、帰りたいと願う場所を、故郷と呼ぶ』」
静かな言葉が、地下蔵に響いた。
リズナはしばらく何も言わなかった。
ガリオールからアスタリアへ渡った祖先。
さらに遠い、外側から続く血。
それでも彼らは、アスタリアを故郷として選んだ。
「お前が塔に言ったことと同じだな」
ゼラスが口を開く。
「あたしが?」
「帰還させる荷物じゃない。
故郷はここだと言っただろ」
リズナは金属板を見つめたまま、僅かに笑う。
「血筋かしら」
「自分で考えた結果だろ」
ゼラスの返事は早かった。
「祖先と同じ答えでも、お前が選んだことに変わりはない」
「……ええ。そうね」
『まだ文字が隠れている』
ミテイが金属板の縁へ触れた。
灰色の魔力が細い溝へ入り込み、表面に新たな文字を浮かび上がらせる。
エルシアがそれを読む。
「『皇核保持者の権限により、第七移住群への強制帰還を永久停止』」
ゼラスの目が細くなった。
「皇核を持つ者が、ルフェリアを境界門網から外したのか」
『命令したのではない』
ミテイが記録を追う。
『移住者の選択を認めている』
「今の魔皇国ができるより、遥かに前の記録です」
エルシアが付け加えた。
「この時代には既に、皇核を持つ者が存在しています」
ミテイがその内容を、リズナの父へ直接伝えた。
父は驚きながら、金属板へ目を落とす。
ゼラスも古い文字を見据えた。
魔皇とは、王座に座る者を意味する言葉ではなかった。
異なる土地から来た者たちと、ガリオールの地脈をまとめる存在。
少なくとも、この記録に残る皇核保持者は、ルフェリアを管理物として扱わなかった。
「今の陛下は、これを知ってるのかしら」
リズナが尋ねる。
「分からん」
ゼラスは首を横へ振った。
「知っているなら、俺が仕えていた頃に何か聞かされていてもおかしくない」
『歴代魔皇だけに伝わる記録かもしれない』
ミテイが言う。
「あるいは、陛下にも伝わってないかだ」
ゼラスは金属板から目を離した。
「アスタリアのことが片づいたら、陛下に直接確かめる」
リズナが口元を緩める。
「また大陸を渡る理由ができたわね」
「元々、帰る必要はある」
「その時は、あたしも一緒に行くわ」
ゼラスが彼女を見る。
リズナの表情に迷いはなかった。
「今度は飛ばされるんじゃない」
金属板へ刻まれた祖先の言葉を、指先でなぞる。
「あたしが選んで、ガリオールへ行くの」
「ああ」
ゼラスは短く頷いた。
「一緒に帰るぞ」




