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第百二十六話 百年越しのただいま



「……ネフィラ?」


リズナの父は、長椅子の前で立ち尽くしていた。


呼ばれたネフィラも、すぐには言葉を返せない。


百年以上。


互いに、もう二度と会えないと思っていた。


やがて、ネフィラの唇が僅かに動く。


「ただいま」


その一言を聞いた瞬間。


リズナの父は、その場へ膝をついた。


「本当に……ネフィラなのか?」


「ええ」


彼が伸ばした手は、頬へ触れる直前で止まる。


目の前の妻が、触れれば消えてしまう幻に見えたのだろう。


ネフィラはまだ自由に動かない腕を持ち上げようとした。


だが、途中で力が抜ける。


リズナの父が、その手を両手で受け止めた。


温度を確かめるように、強く握る。


「生きていたのか……」


「生きていた、とは言いづらいけれど」


ネフィラは弱く笑った。


「帰ってきたわ」


彼は何かを言おうとした。


だが、声にはならなかった。


俯いたまま、妻の手を額へ押し当てる。


その肩が震えていた。


リズナは二人を見つめ、静かに息を吐いた。


「中へ入りましょう。

母さんを休ませないと」


父は何度も頷いた。


それでも、ネフィラの手を離そうとはしなかった。




屋敷の一室へ、長椅子ごとネフィラを運び込む。


寝台には柔らかな布が重ねられ、身体へ負担がかからないよう整えられた。


ミテイがネフィラの状態を調べる。


『呼吸は安定している』


「残ってる術式は?」


『変化なし。今は触らない方がいい』


エルシアも、寝台の高さと身体の向きを確認した。


「最初は、起きているだけでも疲れると思います。

会話も短くした方がよいでしょう」


リズナがその説明を両親へ伝える。


父は名残惜しそうに妻を見た。


「休んだ方がいいみたい」


「分かっている」


そう答えても、彼は寝台の傍らから動かない。


ネフィラが小さく笑った。


「昔から、心配性なのは変わらないのね」


「お前が帰ってこなかったからだ」


「それは……そうね」


父の声には、僅かに責める響きがあった。


だが、それ以上に安堵が滲んでいる。


ネフィラは目を伏せた。


「ごめんなさい」


「謝るな」


今度は父が、すぐに遮った。


「お前が望んで残ったのではないことは、リズナから聞いた」


帰路の間に、リズナは地下で起きたことを必要な範囲だけ説明していた。


風導院に騙されたこと。


中央風塔へつながれていたこと。


そして、リズナが次の器として狙われていたこと。


父は妻の手を握り直す。


「何も知らずに、お前を待ち続けた。

リズナまで同じ場所へ送られるところだった」


「あなたは、あの子を守ってくれたわ」


ネフィラが答える。


「私の風に気づいて、風導院から遠ざけてくれた」


「確信があったわけではない」


「それでもよ」


ネフィラは娘へ目を向けた。


「この子が自分の道を選べたのは、あなたのおかげ」


父もリズナを見る。


「あまり安全な道ではなかったがな」


「冒険者なんだから仕方ないでしょう?」


「仕方なくはない」


「でも、そのおかげで強くなったわ」


「危険に慣れただけだ」


「それを強くなったって言うのよ」


久しぶりに交わされる家族の言葉。


リズナは少しだけ笑い、二人のそばへ腰を下ろした。




部屋の隅では、ゼラスが壁へ背を預けていた。


会話の意味は分からない。


だが、今は通訳を求める場面ではないと理解している。


ミテイも黙ってネフィラの状態を見守り、エルシアは必要な器具を整えていた。


やがて、リズナの父がゼラスへ顔を向けた。


「彼にも、礼を言わなければならないな」


リズナがガリオール語へ訳す。


「父さんが、あんたにお礼を言いたいって」


ゼラスはネフィラと、その手を握ったままの父を見る。


「礼なら、ネフィラが元気になってからでいい。

今は、そばにいてやれ」


リズナがその言葉を父へ伝える。


父は一度、妻を見た。


それから、改めてゼラスへ深く頭を下げる。


さらに何かを告げると、リズナの表情が僅かに変わった。


「何だ?」


「母さんを助けたことだけじゃないって」


「他に何がある」


リズナは少しだけ頬を赤くしながら、父の言葉を訳した。


「あたしを連れて帰ってくれたこと。

それから、大陸を越えて会いに来てくれたことにも礼を言う、だって」


ゼラスは父を見た。


二人の間に、直接伝わる言葉はない。


それでも、父が頭を下げる意味は十分に伝わっていた。


「俺がリズナに会いたくて来ただけだ」


リズナの目が僅かに見開かれる。


ゼラスはそのまま続けた。


「だが、そう言ってもらえるなら受け取っておく」


リズナは一拍遅れて、父へ訳した。


その頬には、まだ薄く赤みが残っている。


父はゼラスを見た後、娘へ視線を移した。


何かを察したように、僅かに目を細める。


「……何よ」


父は何も答えなかった。


代わりに、ネフィラが寝台の上で小さく笑った。




しばらくして、ネフィラが細く息を吐いた。


疲労が出始めたのか、瞼が重そうに落ちている。


「今日は、もう休んだ方がいいわね」


リズナが布を掛け直す。


ネフィラは娘の手を握った。


「目を閉じても……ここにいてくれる?」


「いるわよ」


「目を覚ました時も?」


「いるってば」


リズナは笑いながら答えた。


「父さんもいる。

もう、どこにも行かないわ」


ネフィラは安心したように目を閉じる。


父は寝台の横へ椅子を運び、妻の手を握ったまま座った。


やがて、静かな寝息が聞こえ始める。


リズナはしばらく母の顔を見つめていた。


本当に帰ってきた。


風の中に残された声ではない。


触れることのできる身体で。


家族のいる場所へ。




部屋を出ると、父も少し遅れて廊下へ出てきた。


「寝てなくていいの?」


「確認しておきたいことがある」


父は声を落とした。


「地下で、ルフェリアの祖先に関する記録を見たと言ったな」


「ええ。

外側からガリオールへ渡って、そこからアスタリアへ来たみたい」


父は僅かに目を伏せる。


「家に残る古い記録にも、ガリオールという名がある」


リズナの表情が変わった。


「知ってたの?」


「地名だとは思っていなかった。

古い祈りか、祖先の名だと考えていた」


父は廊下の奥へ視線を向ける。


「ルフェリア家の地下蔵に、母から受け継いだ記録が残っている。

風導院へ見つからないよう、封じていたものだ」


リズナがゼラスたちへ内容を伝える。


『外側につながる記録があるかもしれない』


ミテイが告げた。


「ああ」


ゼラスも短く頷く。


リズナは廊下の奥を見た。


「今から確認する?」


「いや」


ゼラスはネフィラの眠る部屋へ目を向けた。


「今日は母親のそばにいろ。

記録は明日でも逃げん」


リズナは少し驚いた後、柔らかく笑った。


「そうね」


今日は、失われた過去を探す日ではない。


百年以上止まっていた家族の時間を、もう一度動かす日だった。

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