第百二十五話 家へ帰る風
地上へ続く昇降路が、ゆっくりと上がっていく。
リズナは座席に腰を下ろし、ネフィラの身体を抱えていた。
母親の呼吸は弱い。
それでも、胸は確かに上下している。
「苦しくない?」
「ええ。ただ……身体が重いわ」
「ずっと眠ってたんだから当然よ。無理に動こうとしないで」
ネフィラは小さく頷き、娘の肩へ頭を預けた。
その向かいでは、院長が両手を拘束されている。
セレイナは彼の隣に立ち、昇降路の扉を見つめていた。
地上が近づくにつれ、鐘の音と人々の声が大きくなる。
「上には、どれくらいいるの?」
リズナがアスタリア語で尋ねる。
「風導院の職員と守備隊。それに、中央風塔の異変を見た市民も集まっているはずです」
リズナはその内容をゼラスたちへ訳した。
「面倒になりそうね」
「説明するのはセレイナだ」
ゼラスは壁へ背を預けている。
「俺たちは母親を運ぶ」
リズナが伝えると、セレイナは頷いた。
「ここで起きたことは、私が話します。
院長が命じたことも、地下に残されていた記録も」
院長が顔を上げる。
「混乱を広げるつもりか」
「既に十二の地方風塔へ記録は届いています」
セレイナは彼を見なかった。
「隠し続けることはできません。
これ以上の混乱を避けるためにも、中央から事実を公表します」
「民が真実を受け入れると思うのか」
「受け入れるかどうかを、あなたが決めることではありません」
昇降路が止まった。
扉の向こうから、武器と鎧の擦れる音が聞こえる。
扉が開く。
強い日差しが、地下に慣れた目へ差し込んだ。
広間には、風導院の術士と王都守備隊が集まっていた。
その後ろには、何が起きたのか確かめようとする人々の姿もある。
無数の視線が、地下から現れた一行へ向けられる。
特に。
リズナに抱かれた赤髪の女性へ。
ざわめきが広がった。
「先代の器……?」
誰かが口にした。
別の者が、院長の拘束された姿を見て息を呑む。
守備隊の指揮官が前へ出た。
「セレイナ副院長。これは、どういう状況ですか」
セレイナは銀の証を取り出した。
ひび割れ、権限を失った証。
それを全員から見えるように掲げる。
「風導院長を拘束しました」
広間がどよめいた。
院長が何かを言うより早く、セレイナは続ける。
「中央風塔の地下において、先代の風の器が百年以上にわたり拘束されていた事実を確認しました」
声が静まり返る。
「器は自ら望んで風脈と一つになったのではありません。
風導院に欺かれ、意思に反して接続されていました」
守備隊の者たちまで動きを止めた。
「さらに、現在の風脈管理は初代院長によって改変されたものです。
本来は、誰か一人を恒久的に接続する必要などありませんでした」
院長が声を上げる。
「彼女は異大陸の者たちに惑わされている!
中央風塔への不正干渉を止めろ!」
一部の術士が杖へ手をかけた。
その瞬間。
広間を風が通り抜けた。
強くはない。
誰かを押さえつけることもない。
西から流れ込み、王都の建物の間を穏やかに抜けていく。
中央風塔の光は消えている。
それでも、風は止まっていなかった。
セレイナは周囲を見回す。
「十二の地方風塔は、既に自律管理へ移行しています。
中央へ器を接続しなくても、アスタリアの風は流れています」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
セレイナは守備隊の指揮官へ向き直る。
「院長の身柄を預かってください。
地下記録の確認が終わるまで、外部との接触を禁じます」
指揮官は迷いながら院長と、静かに流れる風を見比べた。
やがて、部下へ合図を送る。
院長が守備隊へ引き渡されていく。
すれ違う際、彼はリズナを睨んだ。
「地方風塔だけで、いつまで保つと思っている」
リズナはネフィラを抱いたまま、その視線を受け止める。
「保たせるのよ」
「誰が責任を取る」
「あたしたち全員で考えるわ。
母さん一人に押しつけるんじゃなくてね」
院長は何も返さなかった。
守備隊に連れられる院長の姿が、広間の奥へ消える。
セレイナは疲れた息を吐き、リズナへ向き直った。
「ネフィラさんを休ませる場所を、風導院で用意します」
「必要ないわ」
リズナはすぐに答えた。
「母さんは家へ連れて帰る」
「ですが、身体の状態が――」
「調べるための道具だけ貸して。
ミテイとエルシアが診てくれるわ」
ネフィラの身体に残る術式を、風導院へ任せるつもりはなかった。
セレイナも、その意図を理解したらしい。
少しの間を置き、頷く。
「分かりました。
移動用の風車と、医療器具を用意します」
「ありがとう、セレイナ」
「……私も同行した方がいいでしょうか」
リズナは母親を見る。
ネフィラは目を閉じ、静かな呼吸を繰り返している。
「いいえ。ここに残って」
リズナは王都へ集まった人々へ目を向けた。
「今は、あんたにしかできないことがあるでしょう?」
セレイナも群衆を見る。
疑い。
混乱。
怒り。
長く信じてきたものを失った者たちの目。
「はい」
彼女は静かに答えた。
「必ず、すべて説明します」
「あとで父さんにも話してもらうわよ」
「覚悟しておきます」
リズナは僅かに笑った。
用意された風車には、身体を横たえられる長椅子が備えられていた。
ネフィラを寝かせ、エルシアが隣へ座る。
ミテイは持ち込まれた器具を確認し、不要なものを淡々と脇へ分けていた。
『これと、これは使える』
「残りは?」
『塔の術式を調べるには向いていない』
「風導院の道具なんだけどね」
『だから、塔の術式を正しいものとして測る』
「なるほどね……」
リズナは苦笑した。
ゼラスが風車へ乗り込む。
「親父さんの家まで、どれくらいだ」
「風車なら今日中に着くわ」
「ネフィラは保つか?」
『今の状態なら問題ない』
ミテイが答える。
『でも、途中で何度か休ませた方がいい』
「急がなくていいわ」
リズナは母親の手を握った。
「もう、誰にも追われてないんだから」
風車がゆっくりと浮かび上がる。
眼下では、セレイナが地上へ出てきた職員たちへ指示を出していた。
中央風塔を囲んでいた人々の間にも、少しずつ言葉が広がり始めている。
リズナは窓から手を振った。
セレイナも一度だけ手を上げる。
風車は王都を離れ、西へ向かった。
陽が傾く頃。
見慣れた屋敷が、風車の窓から見えてきた。
リズナの手に力が入る。
「緊張してるのか?」
隣に座るゼラスが尋ねた。
「してないわよ」
「なら、俺の袖を掴むな」
リズナは視線を下げた。
無意識のうちに、ゼラスの服を握っている。
「……少しだけよ」
「そうか」
ゼラスは手を外させようとはしなかった。
風車が屋敷の前へ降りる。
音を聞きつけた使用人たちが外へ出てきた。
その中を押し退けるように、リズナの父が玄関から姿を現す。
「リズナ!」
娘の無事を確かめ、安堵した表情を浮かべる。
だが。
風車からエルシアとミテイが運び出した長椅子を見た瞬間。
彼の足が止まった。
横たわる赤髪の女性。
閉じられていたネフィラの瞼が、ゆっくりと開く。
二人の視線が重なった。
リズナの父は、何度も口を動かした。
それでも、声になったのは一つの名前だけだった。
「……ネフィラ?」




