↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
125/376

第百二十四話 帰ってきた人



「おかえり、母さん」


リズナの腕の中で、ネフィラが何度か瞬きをした。


焦点の合わなかった瞳が、少しずつ娘の顔を捉えていく。


「……ただいま」


掠れた声。


それだけで、リズナの目から新しい涙がこぼれた。


「遅すぎるわよ」


「ごめん、なさい……」


「謝らないでって言ったでしょう」


リズナは母親を抱く腕へ力を込めた。


しかし、ネフィラの身体はあまりにも軽い。


長い間動かしていなかった手足には、ほとんど力が入っていなかった。


エルシアが二人のそばへ膝をつく。


「急に動かさない方がいいでしょう。

身体の時間が止まっていても、筋肉や魔力の流れはすぐには戻りません」


リズナがその説明を母へ伝える。


ネフィラは自分の指を動かそうとした。


僅かに震えただけで、持ち上がらない。


「身体が……自分のものではないみたい」


「大丈夫よ」


リズナは母親の手を取り、自分の頬へ触れさせた。


「ゆっくり戻せばいいわ。

今度は、時間ならあるんだから」


ネフィラの指先が、娘の頬をほんの僅かになぞった。


「本当に……大きくなったのね」


「さっきも聞いたわ」


「母親は、何度でも言うものよ」


「そういうものなの?」


弱々しくはあっても、昔と変わらない返事だった。


リズナは泣きながら、小さく笑った。




ミテイがネフィラの胸元へ灰色の魔力を近づけた。


『身体に、塔の術式が残っている』


リズナの表情が引き締まる。


「まだ母さんをつなごうとしてるの?」


『違う。切れた術式の残骸』


「外して平気か?」


ゼラスが尋ねる。


『今すぐ全部外すと、身体の魔力が乱れる』


ミテイはネフィラの内部を慎重に調べる。


『少しずつ消した方がいい』


「なら、そうしろ」


『ここではできない』


「必要なものは?」


『休める場所。時間。身体を調べる道具』


エルシアが静かに頷いた。


「私も同じように、長く身体を使っていませんでした。

完全に同じ状態ではありませんが、ネフィラさんが身体へ慣れる助けはできると思います」


リズナが母へ説明すると、ネフィラはエルシアへ顔を向けた。


「あなたも……閉じ込められていたの?」


エルシアにはアスタリア語が分かる。


彼女は少しだけ間を置いてから、同じ言葉で答えた。


「はい。

場所は違いますが、とても長い間」


ネフィラの目に、深い痛みが浮かぶ。


「そう……」


「ですが、今はここにいます」


エルシアは穏やかに続けた。


「あなたも、もう一人ではありません」


ネフィラは僅かに目を細めた。


「ありがとう」




少し離れた場所では、セレイナが院長の両腕を拘束していた。


院長は床へ膝をついたまま、十二の地方風塔を示す地図を見つめている。


すべての光は安定していた。


中央風塔から命令を送らなくても、それぞれの土地の風が流れ続けている。


「こんなものは、一時的な安定にすぎない」


院長が低く言った。


「地方の判断が食い違えば、また災害が起きる」


セレイナは拘束を緩めない。


「だからこそ、これから調整方法を作るのです」


「間に合わなければ、誰が責任を取る」


「私たちです」


セレイナの返答に、院長が顔を上げる。


「器ではありません。

風導院と、各地の管理者と、風を利用して暮らすすべての者です」


「責任を分ければ、決断も鈍る」


「一人へ犠牲を押しつけるよりはいい」


セレイナの声は静かだった。


「少なくとも、私はもう、それを正しいとは呼びません」


リズナは二人の会話をゼラスたちへ訳した。


ゼラスは院長を一度だけ見る。


「放っておけ。

正しさの話は、地上で自分の言葉でさせればいい」


「処罰しないの?」


「俺が決めることじゃない」


ゼラスは十二の光へ目を向けた。


「こいつはアスタリアの人間だ。

何をしたのか全部出したうえで、アスタリアの連中が決めろ」


リズナが伝えると、セレイナは深く頷いた。


院長は何も言わなかった。




ネフィラが、リズナの腕の中からゼラスを見た。


「その方が……ゼラスさん?」


「ええ」


リズナはゼラスへ顔を向ける。


「母さんが、あんたにお礼を言いたいって」


「まだ終わってない」


「そう言うと思った」


リズナは母へ訳した。


ネフィラは少し考え、改めて言葉を選ぶ。


「では、終わった時に伝えます。

娘を助けてくださったことも、私を風から連れ戻してくださったことも」


リズナがそのまま伝えると、ゼラスは僅かに眉を寄せた。


「俺だけじゃない」


「ミテイとエルシアと、セレイナも一緒だったって」


リズナが付け加える。


ネフィラは一人ずつ顔を見た。


最後に、再び娘へ視線を戻す。


「あなたが選んだ人たちなのね」


「ええ」


リズナは迷わず答えた。


「大事な仲間よ」


一拍置いてから、ネフィラがゼラスを見る。


「仲間……だけ?」


「母さん」


「長く眠っていたから、少し聞きたくなっただけよ」


リズナの頬が赤くなる。


ゼラスには内容が分からない。


だが、母娘が揃って自分を見たことで、おおよその見当はついたらしい。


「何を言われた」


「今は訳さなくていい話よ」


「そうか」


追及しないゼラスを見て、ネフィラが小さく笑った。




その時。


地下を満たしていた風が、突然止まった。


地図上の十二の光も、同時に弱くなる。


「何が起きたの?」


リズナが母親を抱いたまま立ち上がろうとする。


『待って』


ミテイが床へ手を触れた。


『止まったのではない』


一拍。


二拍。


静寂の後。


十二の地方風塔から、順番に風が動き始めた。


西部。


南部。


東部。


北部。


それぞれ異なる流れが大陸を巡り、最後に中央で穏やかに重なる。


これまでのように、一つの強い意思へ従う風ではない。


十二の土地が、それぞれの呼吸を取り戻したような風だった。


『再編完了』


塔の音声が響く。


『生体判断核――不要』


『風の器登録を解除します』


リズナの胸元に浮かんでいた中核風紋から、淡い光が離れた。


紋そのものは消えない。


塔に登録されていた印だけが、静かにほどけていく。


ネフィラの胸元でも、同じ光が消えた。


「母さん」


「ええ」


ネフィラは弱い力で、娘の手を握った。


「もう、風の声が入ってこないわ」


その顔に浮かんだのは、戸惑いだった。


百年以上、休むことなく聞き続けた無数の風。


それが消えた後に残った静けさを、まだ受け止めきれないのだろう。


リズナは母親の手を握り返す。


「静かでしょう?」


「……少し、怖いわ」


「慣れるまで、一緒にいるから」


ネフィラはゆっくりと頷いた。




遠く地上から、鐘の音が響いた。


一つではない。


王都の各所から、警戒を告げる鐘が次々と鳴り始めている。


セレイナが天井を見上げた。


「中央風塔の光が消えたのだと思います」


リズナが訳す。


「地上は騒ぎになるわね」


「記録も地方へ届いた」


ゼラスが言う。


「もう、地下だけで片づく話じゃない」


セレイナは拘束した院長を立たせる。


その顔には疲労が滲んでいた。


それでも、目を逸らさなかった。


「私が説明します」


リズナがその言葉を訳す。


「風導院が何をしてきたのか。

なぜ中央風塔の光が消え、それでも風が流れているのか。

全部、地上で話すって」


「そうしてもらわないと困るわ」


リズナは母親を抱き直した。


「でも、その前に」


「何だ?」


ゼラスが尋ねる。


リズナは腕の中のネフィラを見る。


「母さんを、父さんのところへ連れて帰る」


百年以上。


帰ることのできなかった家へ。


今度こそ、本当に。


ネフィラの瞳から、静かに涙がこぼれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。