第百二十三話 風から帰る
ネフィラを包む結晶へ、大きな亀裂が走った。
「母さん!」
リズナの風が乱れる。
十二の地方風塔を結んでいた緑の光が、一斉に揺らいだ。
「集中しろ」
ゼラスの声が飛ぶ。
「割れたのは外側だけだ」
『生命反応に変化はない』
ミテイも結晶を読み取り、続ける。
『壊れたのではない。接続を外す準備が始まっている』
リズナは短く息を吐いた。
「……先に言ってよ」
『今、分かった』
「なら仕方ないわね」
胸元の中核風紋へ意識を戻す。
自分の風が、中央から十二の地方へ伸びている。
それぞれの土地で流れ方は違った。
山を越える風。
海から吹き込む風。
乾いた平原を抜ける風。
これまで、そのすべてをネフィラ一人が感じ、選び続けていた。
「あたしでも、これはきついわね」
「全部見るな」
ゼラスが黒紫色の魔力を流し込みながら言った。
「近い風だけを十二の塔へ渡せ。
大きな流れは俺が押さえる」
「そんな雑なやり方でいいの?」
「ああ、余裕だ」
流れ込んできた膨大な魔力が、暴れていた風脈を力ずくで安定させる。
繊細とは言い難い。
それでも、十二の地方風塔を起こすには十分だった。
『第一地方端末、再起動』
地図上の光が一つ、強く輝く。
ネフィラの身体から伸びていた糸が一本消えた。
『第二地方端末、再起動』
さらに一本。
『第三地方端末、再起動』
地方へ判断が戻るたび、ネフィラを縛る光が減っていく。
リズナはその様子を見つめながら、風をつなぎ続けた。
『中央集約機能の低下を確認』
塔の機械音声が響く。
『生体判断核の接続を維持します』
ネフィラの周囲へ、新たな光の糸が伸びようとした。
「させないわ」
リズナが風をぶつけ、糸を押し返す。
『局地適合核による命令拒否』
『後継個体との恒久接続を――』
「断るって、何度言わせるのよ!」
緑の風が弾けた。
それでも機械音声は止まらない。
『風脈安定のため、器を要求します』
『私は要求しない』
ミテイが操作台の奥へ灰色の魔力を差し込んだ。
『独立管理核として拒否する』
古い管理手順が、現在の命令へ上書きされていく。
『局地適合核の拒否を確認』
『独立管理核の拒否を確認』
『恒久接続条件、不成立』
リズナの身体へ伸びようとしていた光が消えた。
「やっと聞いたわね」
『残り四基』
ミテイが告げる。
ゼラスの魔力は、なおも十二の経路へ流れ続けていた。
規格外の出力に操作台が何度も警告を発しているが、本人は気にも留めていない。
「ゼラス、平気?」
「誰に聞いてる」
「一応よ」
「なら、前を見てろ」
リズナは小さく笑い、再び風へ集中した。
『第九地方端末、再起動』
『第十地方端末、再起動』
結晶を覆う亀裂が広がる。
透明な破片が光となり、空中へ溶けていった。
中にいるネフィラの身体が、僅かに傾く。
『支えが必要』
ミテイが床へ手を触れた。
石の台座がせり上がり、結晶の真下へ伸びる。
『第十一地方端末、再起動』
最後に残ったのは、西部の風塔。
ルフェリア一族が長く暮らしてきた土地に最も近い塔だった。
だが、その光だけが不安定に明滅している。
「起きないの?」
『内部の自律機能が、ほとんど消されている』
「戻せるか」
ゼラスが尋ねる。
『時間がかかる』
「なら、俺の魔力を直接入れろ」
『風の魔力ではない』
「動けばいい」
『壊れる可能性がある』
「壊さない程度に流せ」
『難しい』
「お前ならできる」
ミテイは一度だけゼラスを見た。
『分かった』
灰色の魔力が、黒紫色の流れを細く分ける。
リズナの風がその周囲を包み、西部地方風塔へ導いた。
三つの魔力が重なり、消えかけていた光点へ流れ込む。
一度。
二度。
西部の塔が脈打った。
『第十二地方端末――再起動』
地図上のすべての光がつながった。
アスタリア全土の風が、中央から解き放たれる。
十二の地方風塔が、それぞれの土地の流れを受け取った。
ネフィラの身体から伸びていた最後の糸が消える。
『中央生体判断核を切断』
『先代個体の役割を終了します』
結晶が完全に砕けた。
支えを失ったネフィラの身体が落ちる。
ミテイの作った台座へ届く前に、リズナが操作台から手を離した。
「母さん!」
「リズナ!」
セレイナが叫ぶ。
地方風塔との接続が一瞬揺れた。
だが、ゼラスの魔力がその穴を埋める。
「行け」
その一言を聞き、リズナは風をまとって飛び出した。
落ちてくる母親の身体を、両腕で受け止める。
想像していたよりも軽かった。
長い赤い髪が、娘の腕から静かに垂れる。
「母さん」
返事はない。
リズナは床へ膝をつき、震える手で母親の頬へ触れた。
冷たい。
それでも、僅かな呼吸がある。
『生命反応、維持』
ミテイの言葉に、リズナの肩から力が抜けた。
背後で、ゼラスが操作台から手を離した。
十二の光は消えない。
彼の魔力がなくなっても、それぞれの地方風塔が自ら風を調整している。
『緊急分散管理、完了』
『中央風塔を監視機能へ移行』
機械音声から、初めて器を求める言葉が消えた。
ゼラスはリズナの隣へ歩み寄る。
「外れたぞ」
「……ええ」
リズナは母親を抱いたまま、何度も頷いた。
「ちゃんと、帰ってきた」
ネフィラの瞼が僅かに動く。
リズナが息を止めた。
ゆっくりと開いた目が、すぐ近くにある娘の顔を映す。
「……リズナ……?」
今度は風を通した声ではない。
小さく、掠れていても。
母親自身の唇から出た声だった。
リズナは泣きながら笑った。
「おかえり、母さん」




