第百二十二話 守る者の資格
昇降路の扉が、左右へ開いた。
吹き出した風が、制御室の床を這う。
その中央に、一人の男が立っていた。
深緑の長衣。
胸元には、セレイナが持つ銀の証よりも大きな、金色の紋章。
右手には、風の結晶を埋め込んだ細い杖が握られている。
男は制御室を見回し、最後にリズナへ視線を止めた。
「そこを離れなさい、リズナ=ルフェリア。
これ以上、中枢へ干渉することは許しません」
リズナが剣を構えたまま、ゼラスたちへ訳す。
「中枢から離れろって。
これ以上は許さないそうよ」
「許しを求めた覚えはない」
ゼラスの返答を、リズナがアスタリア語へ伝えた。
院長は表情を変えない。
「異大陸の者には理解できないでしょう。
風脈が一日乱れるだけで、どれほどの街が水を失い、どれほどの空路が閉ざされるのか」
「だから、一人を騙して閉じ込めてもいいの?」
リズナが問い返す。
「必要な犠牲です」
「母さん本人にも、そう説明したの?」
院長は答えなかった。
リズナの風が、足元から静かに立ち上る。
「帰れるって騙しておいて、接続した後で外せないと知らせた。
その記録を、自分から望んだことに書き換えた」
剣先が、院長へ向けられる。
「それを必要な犠牲とは呼ばないわ。
ただの裏切りよ」
院長の目が僅かに細くなった。
「一人へ真実を告げ、大陸全土を危険にさらすべきだったと?」
「違う」
セレイナが前へ出た。
院長の視線が、彼女へ移る。
「他の方法を探すべきだったのです。
初めから犠牲を正しいものとして、考えることをやめるのではなく」
「セレイナ。
あなたは地下の記録を見て、冷静さを失っています」
「いいえ」
セレイナは首から外した、ひび割れた銀の証を握る。
「今までの私は、知らないことを理由に考えませんでした。
けれど、あなたは知っていた。それでも考えることをやめた」
リズナが二人の言葉を、ゼラスたちへ訳した。
ゼラスは院長の持つ杖を見ている。
「ミテイ。あれは何だ」
『中央の直接操作鍵』
ミテイが灰色の魔力を薄く広げた。
『遠くから使う院長権限は壊れた。でも、あれがあれば、この部屋へ直接命令できる』
「壊せば止まるか?」
『一部は止まる。
でも、壊し方を間違えると風脈へ命令が流れる』
「面倒だな」
院長は二人の会話を理解できない。
それでも、ミテイの魔力が杖を調べていることには気づいた。
「記録機能を中枢へ戻しなさい。
そして、風の器を接続台へ」
金色の紋章が輝く。
『塔主直接権限を確認』
アスタリア語の機械音声が響いた。
床に刻まれた無数の線が光り、リズナの周囲へ風の壁が立ち上がる。
「また勝手に……!」
リズナの身体へ、幾本もの風が絡みついた。
ゼラスが片手を伸ばす。
黒紫色の魔力が風の壁へ食い込み、まとめて押し潰した。
「それが守る者のすることか?」
リズナがその言葉を訳す。
院長は杖を構えた。
「彼女一人が接続されれば、先代の器も役目を終えられる。
二人を救うことはできなくとも、一人は救える」
「母さんを殺して、あたしを代わりに入れることを救うって言うの?」
「肉体の死だけが、救いではありません」
院長が杖を床へ突く。
金色の風が制御室を走り、ネフィラのいる空洞へ伸びた。
『先代個体の生命維持を縮小』
『継承準備を再開』
「母さんに何をしたの!」
「出力を抑えただけです。
あなたが接続台へ入れば、生命維持は安定します」
リズナがその内容をガリオール語へ訳す前に、エルシアが告げた。
「ネフィラさんを人質にし、リズナさんへ接続を迫っています」
ゼラスの表情から、僅かに残っていた温度が消えた。
「守ると言いながら、人質にするのか」
「ゼラス」
リズナが彼を見る。
「俺があの杖を壊す」
「待って」
リズナは剣を握り直した。
「あの人には、あたしが言わなきゃいけないことがある」
「戦えるか」
「誰に聞いてるの?」
リズナの口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
「冒険者を甘く見ないで」
ゼラスは一度だけ院長を見る。
「ああ。任せる」
「危なくなったら?」
「その前に俺が止める」
「そこは信じてるわ」
リズナが床を蹴った。
緑の風をまとい、一気に院長との距離を詰める。
剣が金色の杖へ振り下ろされた。
院長は杖を回し、その刃を受け流す。
「風導院の剣術ではない」
「当然でしょう」
リズナは流された勢いを殺さない。
身体を沈め、そのまま横薙ぎへつなげる。
院長が風を足元へ集め、後方へ滑った。
「型通りに戦って生き残れるほど、冒険者は楽じゃないのよ!」
踏み込み。
斬り上げ。
風で加速した剣先が、院長の長衣を浅く裂く。
院長の表情が初めて動いた。
杖の先がリズナへ向く。
圧縮された風が放たれる直前、セレイナが間へ入った。
掌底で杖の向きを逸らす。
暴風が天井へ突き刺さった。
「セレイナ!」
「副院長として命じられるのは、ここまでです」
セレイナは院長の腕を取り、肘を外側へ捻る。
「ここからは、一人の人間として止めます」
院長が風を爆発させた。
セレイナの身体が押し戻される。
その横を、リズナが駆け抜けた。
院長は杖を振り上げる。
中央風塔の風が集まり、巨大な刃となってリズナへ落ちた。
「リズナ!」
セレイナの声。
だが、リズナは止まらない。
剣へまとわせた風を消す。
直後、身体を引こうとしていた塔の流れが均衡を失った。
リズナだけが、風の刃の内側へ潜り込む。
「風を使う相手が、いつも風に従うと思わないで!」
柄頭が院長の手首を打った。
指が緩む。
金色の杖が宙へ浮いた。
院長が手を伸ばす。
それより早く、セレイナの蹴りが杖を横から弾いた。
杖は制御室の中央へ飛ぶ。
床へ落ちる直前。
ゼラスが片手で掴んだ。
『直接操作鍵への異物接触を確認』
杖から金色の風が噴き出す。
ゼラスの腕へ絡みつき、内部へ侵入しようとする。
「触れた者を操る仕組みか」
『手を離して』
ミテイが告げる。
『無理に壊すと、最後の命令を実行する』
「命令は?」
ミテイの灰色の魔力が杖を包む。
『ネフィラの維持停止。
リズナの強制接続。
地下記録の消去』
「最後まで同じか」
ゼラスは杖を握ったまま、院長を見る。
院長はリズナとセレイナから距離を取り、荒い息を整えていた。
「それを返しなさい」
リズナが要求を訳す。
ゼラスは杖へ視線を落とす。
「断る」
『内部に、命令を分ける場所がある』
ミテイが杖の中央を指す。
『壊すのではなく、操作する部分だけ外せる』
「位置は?」
『そこ』
ゼラスの指先へ、灰色の光が重なる。
「細いな」
『できる?』
「ああ、余裕だ」
黒紫色の魔力が、髪の毛よりも細く絞られる。
杖の内部へ侵入し、三つの命令を避けながら、院長権限を伝える核だけを包んだ。
院長の顔色が変わる。
「やめろ!
その鍵がなければ、中央風塔を制御できない!」
リズナが訳す。
ゼラスは一切手を止めない。
「自分にしか使えないようにした物を、制御とは呼ばない」
指先が僅かに動く。
硬い音と共に、杖の中央から金色の結晶だけが抜け落ちた。
『塔主直接権限を喪失』
杖を覆っていた光が消える。
ネフィラへ伸びていた金色の命令も、同時に途切れた。
ミテイがすぐに生命反応を確認する。
『維持出力が戻った』
「母さんは?」
『変化はない。
まだ間に合う』
リズナが安堵の息を漏らした。
院長は床へ落ちた金色の結晶を見つめていた。
「それがなければ、誰が風を管理する」
その声には、怒りよりも恐怖が滲んでいる。
「地方へ判断を戻せばいい」
セレイナが答えた。
「十二の風塔が、それぞれの土地の風を調整する。
中央は、必要な時だけ全体をつなぐ」
「失敗すればどうする」
「失敗しない方法を探します」
「それでは遅い!」
院長の声が制御室へ響く。
「風は待たない。
水を失う村も、空から落ちる船も、方法を探す間は待ってくれない!」
リズナは院長の言葉を、ゼラスたちへ訳した。
ゼラスは壊れた杖を床へ落とす。
「だから、確実に一人を犠牲にする方法を選んだのか」
リズナが伝える。
院長は拳を握った。
「不確かな希望より、確実な維持を選んだ」
「その確実さの代金を、自分では払わなかったくせに」
リズナの言葉に、院長の顔が強張る。
「母さんにも、あたしにも選ばせなかった。
安全な場所から、必要な犠牲だって決めただけ」
リズナは剣先を下げた。
「それは覚悟じゃないわ。
他人に押しつけただけよ」
院長は反論しようと口を開く。
だが、言葉は出なかった。
セレイナが彼の前へ立つ。
「院長。
あなたを拘束します」
「お前に、その権限はない」
「今の私にはありません」
セレイナは構えを取った。
「ですから、抵抗するなら力ずくです」
院長が風を集めようとする。
しかし、直接操作鍵はもうない。
周囲の風は、先ほどまでのように彼へ従わなかった。
セレイナが一歩で懐へ入り、腕を取る。
身体を回し、院長を床へ投げた。
続けて関節を固定する。
「……終わりです」
リズナが剣を鞘へ戻した。
「終わりじゃないわ」
彼女の視線は、ネフィラのいる空洞へ向けられている。
「これから母さんを助けるの」
『十二の地方端末へ接続可能』
ミテイが黒い操作台へ戻った。
『でも、ネフィラの出力がさらに下がっている』
エルシアが古い手順を開く。
「緊急分散管理を開始すれば、地方風塔の再起動には時間がかかります」
「どれくらい?」
「記録通りなら、中央風塔の時間で十分ほどです」
「その間、母さんは保つの?」
ミテイが沈黙する。
灰色の魔力が、ネフィラの生命反応と風脈の流れを何度も確かめた。
『今のままでは、足りない可能性がある』
リズナの表情が強張る。
「なら、どうする」
ゼラスが尋ねた。
『再起動が終わるまで、誰かが中央の判断を補う必要がある』
「また、器をつなぐの?」
『恒久接続ではない』
ミテイは古い手順を示す。
『十分間だけ。
途中で外すこともできる』
「それでも、塔はリズナを狙うだろ」
『そう』
リズナは自分の胸元へ手を当てた。
中核風紋。
ルフェリア一族が、アスタリアの風と共に生きる中で得たもの。
塔に与えられたものではない。
誰かに所有されるものでもない。
「あたしがやる」
「リズナ」
「母さんの代わりになるんじゃない」
彼女はゼラスを見る。
「母さんを外すために、あたしの風を十分だけ貸す」
「塔が約束を守ると思うか?」
「思わないわ」
リズナは少しだけ笑った。
「だから、あんたに頼むの」
ゼラスの目を、まっすぐに見つめる。
「十分経ったら、何があってもあたしを引き剥がして」
ゼラスはすぐには答えなかった。
黒い操作台。
リズナの中核風紋。
ネフィラへ続く無数の管。
そのすべてを見比べる。
やがて、リズナの前へ立った。
「十分もいらん」
「え?」
「五分で終わらせる」
ゼラスが操作台へ手を置く。
「ミテイ。十二の塔を同時に起こせ」
『負荷が大きい』
「俺が支える」
『ゼラスの魔力を、風脈へ流す?』
「ああ」
リズナが目を見開く。
「そんなことをしたら、アスタリア中へあんたの魔力が流れるわよ」
「だから何だ」
ゼラスは当然のように答える。
「お前を十分もつないでおくよりましだ」
黒紫色の魔力が、操作台の奥へ流れ込む。
十二の地方風塔を示す光が、一斉に揺れた。
『外部魔力による起動補助を確認』
『規格外出力』
『風脈への接続を推奨しません』
「推奨されるつもりはない」
ミテイがゼラスの隣へ立つ。
『十二の塔を起こす』
リズナも操作台へ手を置いた。
「あたしが風をつなぐ」
エルシアが古い手順を開き、セレイナは拘束した院長を壁際へ移す。
三つの魔力が、黒い操作台へ集まった。
緑。
灰色。
黒紫。
『緊急分散管理を開始』
『地方風塔、同時再起動』
アスタリアの地図に、十二の光が灯る。
同時に。
ネフィラを包む結晶へ、大きな亀裂が走った。




