第百十七話 風の心臓
最深部へ続く通路へ踏み込んだ瞬間、風の向きが変わった。
奥から吹きつけていたはずの風が、リズナの胸元へ集まり始める。
緑色の風紋が強く輝いた。
「……っ!」
身体が前へ引かれる。
ゼラスが掴んだ手首を、そのまま強く引き戻した。
「勝手に持っていくな」
黒紫色の魔力が、二人の周囲へ広がる。
リズナへ絡みついていた風が押し返され、通路の壁へ叩きつけられた。
『後継適合個体の移送を妨害』
機械的なアスタリア語が響く。
『外部干渉個体を排除対象へ設定』
「ゼラスを排除対象にしたって」
「今さらだな」
ゼラスはリズナの手を離さないまま、通路の奥を見据えた。
『床の下も動いている』
ミテイが告げる。
足元の石が細かく震え、エルシアの体勢が崩れかけた。
ミテイが床へ灰色の魔力を流す。
石が僅かに盛り上がり、エルシアの足を支えた。
『ここに立って』
「ありがとうございます」
セレイナもエルシアの反対側へ回り、風で身体を支える。
リズナが礼を伝えると、セレイナは短く頷いた。
五人は互いの距離を詰めたまま、通路を進んだ。
やがて、視界が大きく開けた。
地下に作られた巨大な空洞。
その中央を、太い風の柱が上下へ貫いている。
空洞の壁には無数の管が張り巡らされ、それぞれが異なる方向へ風を送り出していた。
王都だけではない。
大陸全土へ伸びる風脈が、ここへ集まっている。
そして、風の柱の中心には、一つの透明な器が浮かんでいた。
人の身体を包み込む、細長い結晶。
その中で、赤い髪の女性が目を閉じている。
身体から伸びた無数の光の糸が、周囲の管へつながっていた。
リズナの足が止まる。
「……母さん」
台座に映っていた姿ではない。
ネフィラ=ルフェリアの、本当の身体だった。
『生体反応がある』
ミテイが風の柱を見上げる。
『弱い。でも、死んでいない』
「時間は?」
ゼラスが尋ねる。
『身体の周囲だけ、ほとんど進んでいない』
エルシアが結晶を見つめる。
「私が入れられていた設備よりも、さらに強い時間制御です」
リズナは二人の説明をセレイナへ伝えた。
セレイナは何かを否定するように首を横へ振った。
「風導院には、先代の器の肉体は儀式の際に消えたと伝えられていたそうよ」
「消えたことにした方が、都合がよかったんだろ」
ゼラスの言葉を聞き、リズナが静かに訳す。
セレイナは返事をしなかった。
ただ、結晶の中のネフィラから目を逸らせずにいた。
『後継適合個体を確認』
空洞全体へ声が響く。
『先代個体の出力、基準値以下』
『継承手順を開始します』
結晶の下にある円形の床が開いた。
内部から、細い金属の台がせり上がる。
人一人を横たえるための形。
その表面には、リズナの胸元と同じ風紋が刻まれていた。
「……あれに、あたしを寝かせるつもりね」
「そう言ってるのか?」
「母さんの出力が足りないから、継承を始めるって」
ゼラスは台を一瞥した。
「壊すか」
「待って」
リズナは結晶の中の母を見る。
「母さんにつながってるものまで止まるかもしれない」
『その可能性は高い』
ミテイが床の内部を読み取る。
『あの台と、ネフィラを維持する装置は同じ場所につながっている』
「先に仕組みを分ける必要があるか」
ゼラスは周囲を見回した。
無数の風脈。
ネフィラの身体。
そして、それらを一つに束ねている中央の制御層。
「中枢へ触れる場所はどこだ」
『見える範囲にはない』
ミテイの灰色の魔力が壁へ広がる。
『この空間のさらに内側に、別の部屋がある』
「入り口は?」
『閉じられている』
空洞の一角で、銀色の光が灯った。
セレイナの胸元にある証が、勝手に反応している。
『管理補助官セレイナ』
機械音声が彼女へ呼びかけた。
『後継個体の接続を補助してください』
セレイナの表情が強張る。
リズナが内容をゼラスたちへ訳した。
「セレイナに、あたしの接続を手伝えって命令してる」
「どうするつもりだ?」
リズナが問いを伝える。
セレイナは、結晶の中のネフィラを見上げた。
次に、継承台へ視線を落とす。
「風導院では、器の接続は大陸を守るための尊い使命だと教えられてきました」
リズナはその言葉を訳した。
セレイナは銀色の証を握り締める。
「私は、それを疑わなかった」
「疑わないまま、あなたをここへ連れてこようとした」
リズナは黙って聞いている。
「でも、これは使命ではありません」
セレイナは機械の声へ向き直った。
「人を騙し、逃げられないようにつないでいるだけです」
『命令を実行してください』
「拒否します」
短い言葉だった。
リズナが訳す。
「……断るって」
ゼラスは僅かに目を細めた。
『管理規範からの逸脱を確認』
『管理補助官権限を停止します』
銀色の証から火花が散った。
セレイナは顔をしかめながら、それを首から引き千切る。
だが、投げ捨てなかった。
証を両手で持ち、床に浮かんだ紋様へ押し当てる。
「何をしてるの?」
リズナが尋ねる。
「権限を失う前に、緊急点検路を開くそうよ」
「そんなものがあるのか」
リズナが問い返すと、セレイナは早口で説明した。
その内容を聞き、リズナがゼラスたちへ伝える。
「中央風塔で異常が起きた時、管理官が内部へ入るための通路があるみたい。ただし、一度開けば風導院の記録に反逆者として残るって」
「もう十分残ってるだろ」
ゼラスの返事を訳す。
セレイナは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく息を吐いた。
「その通りです、って」
銀色の証へ、セレイナの風が流れ込む。
床に刻まれた紋様が一つずつ消えていく。
最後の紋様が消えた瞬間、空洞の壁に細い亀裂が走った。
重い音を立てて、隠されていた扉が開く。
『内部構造が見えるようになった』
ミテイの魔力が、開いた通路へ入り込む。
『中央だけではない』
「何がだ?」
『風を調整する場所が、各地にある』
灰色の魔力が空中へ地図を描く。
アスタリア大陸の輪郭。
その各地に、十二の光点が浮かんだ。
中央風塔から伸びた線が、それぞれの光点へつながっている。
『全部に、小さい制御装置がある』
「やっぱり、分散できるな」
ゼラスは地図を見上げた。
『今は、判断する機能が止められている』
「中央へ従わせるために、わざと潰したか」
『そう見える』
リズナは説明をセレイナへ伝えた。
彼女は呆然と十二の光点を見つめる。
「各地の風塔は、中央から風を受け取るだけの施設だと教えられていたそうよ」
「元は自分で調整できたんだろ」
ゼラスは開いた扉へ歩き出す。
「それを戻せば、一人の意識に全部押しつける必要はなくなる」
リズナが訳すと、セレイナは強く頷いた。
だが、その直後。
リズナの胸元に残っていた細い術式が、強く脈打った。
「うっ……!」
緑色の光が一本の糸となり、結晶の中のネフィラへ伸びる。
『後継個体の位置固定を完了』
『遠隔接続を開始』
リズナの膝が崩れる。
ゼラスが身体を支えた。
「まだ残ってたか」
転移後も消さずに残していた、中央風塔への報告線。
塔の位置と目的を探るため、あえて切らなかった最後の糸。
その糸が今、強制接続の足場として使われている。
「ゼラス……これ……」
「ああ。もう役目は終わりだ」
ゼラスはリズナの喉元へ指を触れた。
黒紫色の魔力が、緑色の糸へ絡みつく。
『観測線への干渉を検出』
『切断を禁止します』
「知るか」
ゼラスが指先を引く。
糸が激しく抵抗し、空洞中の風が彼へ襲いかかった。
ゼラスは片腕でリズナを抱き寄せたまま、一歩も動かない。
押し寄せる風が黒紫色の魔力へ触れ、左右へ割れていく。
「俺は鍵じゃない」
緑色の糸へ、亀裂が走る。
「こいつも、お前らの部品じゃない」
最後の抵抗を押し潰し、ゼラスは報告線を引き千切った。
乾いた音が響く。
リズナの胸元から、緑色の光が消えた。
『後継個体を喪失』
『観測不能』
機械音声が初めて乱れた。
リズナはゼラスの腕の中で息を整える。
「……これで、全部?」
「ああ。お前の中に残ってた塔の術式は、これで最後だ」
リズナは胸元へ手を当てた。
そこにあるのは、自分自身の風だけだった。
「ありがとう」
「礼は母親を外してからにしろ」
「それもそうね」
リズナは自分の足で立ち、開いた通路へ顔を向けた。
その時。
結晶の中で、ネフィラの瞼が動いた。
映像ではない。
本物の身体が、ゆっくりと目を開く。
「母さん!」
唇が僅かに動く。
声は出ない。
代わりに、周囲の風がネフィラの言葉を運んだ。
「……リズナ……」
弱いアスタリア語が、娘の耳へ届く。
リズナは結晶へ近づいた。
「今、助けるから」
ネフィラは小さく首を横へ振る。
「気をつけて……」
「何に?」
「この塔を動かしているものは……ここにはいない」
リズナの表情が変わった。
「どういうこと?」
ネフィラの目が、開かれた中枢通路へ向けられる。
「中央管理層は……命令を受け取っているだけ」
「どこから?」
答えようとした瞬間、結晶を覆う風が激しく乱れた。
『先代個体の発話を遮断』
ネフィラの目が再び閉じていく。
消える直前。
最後の風が、リズナの耳元で囁いた。
「……外側の門から……」
空洞の奥。
開かれた中枢通路の先で、見覚えのある紋様が淡く光った。
グランラビリスで見た、この世界の外へ続く門。
それとよく似た紋様が。




