第百十六話 母の声
台座に映るネフィラ=ルフェリアが、ゆっくりと目を開いた。
光で形作られた輪郭は、風に揺られるように何度も歪んでいる。
それでも、その瞳だけは確かにリズナを捉えていた。
「……リズナ……」
掠れたアスタリア語。
リズナは台座へ駆け寄った。
「母さん!」
百年以上の時を隔てても、その声を聞き間違えるはずがなかった。
ネフィラは目を細める。
「大きく……なったのね」
「当たり前でしょう。どれだけ経ったと思ってるのよ」
明るく返そうとした声が、途中で震えた。
「髪も、長くなって……」
「今は結んでるの」
リズナは高く結んだ赤い髪へ触れた。
「この方が好きだって言う人がいるから」
そう答えながら、ちらりとゼラスを見る。
言葉を理解できないゼラスも、その視線には気づいた。
「何を話してる」
「……髪の話よ」
「なぜ俺を見る」
「別に」
頬を赤くしたリズナを見て、ネフィラが微かに笑った。
その表情は、あらかじめ残された記録とは思えないほど自然だった。
「母さんは、生きてるの?」
リズナが尋ねる。
ネフィラの笑みが消えた。
「身体は……まだ、中核の中にあるわ」
「でも、私がどこまで私なのかは……もう分からない」
途切れる声に合わせ、広間を流れる風も弱くなっていく。
「眠っている間は、風脈を流れる情報しか見えないの」
「目を覚ませる時間も……少なくなったわ」
「どうして、こんなところにいるの?」
ネフィラはすぐには答えなかった。
やがて、苦しげに目を伏せる。
「私は……風脈を安定させる儀式だと聞かされていた」
「少しの間だけ接続すれば、家へ帰れると」
「……帰れなかったのね」
「接続された後で知らされたの」
ネフィラの輪郭が大きく揺らいだ。
「一度、中核になった器は……もう外せないと」
リズナは唇を噛んだ。
後ろでは、セレイナも青ざめた顔で母娘の会話を聞いている。
だが、ゼラスとミテイには内容が分からない。
リズナは一度母から目を離し、今の話をガリオール語で伝えた。
「母さんは、自分からここに残ったんじゃない」
声は静かだった。
その奥には、抑えきれない怒りがある。
「少しだけ風脈につながる儀式だって騙されたの。接続された後で、もう二度と外せないって知らされた」
ゼラスの視線がセレイナへ向く。
「風導院の記録には、どう残ってる」
リズナがアスタリア語で問い直す。
セレイナは唇を強く結んだ後、答えた。
「先代の器は、自ら望んで風脈と一つになったと記されています」
リズナがその内容をゼラスたちへ訳す。
「自ら望んだことになってるって」
「都合よく書き換えたか」
ゼラスの目が冷たく細められる。
リズナがその言葉を伝えても、セレイナは反論しなかった。
リズナは再び母へ向き直った。
「母さん。あたしが生まれた時から、ここはあたしを見てたの?」
「ええ」
ネフィラは苦しそうに頷く。
「あなたの中核風紋を見つけた時……次の器として登録した」
「母さんも知ってたの?」
「中核へつながれた後に……知ったわ」
「なら、どうして父さんに――」
言いかけて、リズナは口を閉じた。
責めたいわけではない。
それでも、胸に残っていた問いがこぼれてしまった。
ネフィラの光の指が、リズナの頬へ伸びる。
触れることはできない。
指先はその輪郭を通り抜けた。
「何度も、伝えようとしたの」
「けれど、私が外へ送れるのは……風の揺らぎだけだった」
「あなたのお父さんは、それでも気づいてくれたわ」
リズナの目が見開かれる。
「理由までは分からなくても……あなたを風導院から遠ざけた」
「冒険者になることを許したのも、同じ場所に留めないためよ」
「父さんが……」
リズナは俯いた。
父が娘を風導院から遠ざけていた理由。
事情を話さなかったのは、信じていなかったからではない。
知っていると悟られれば、娘まで奪われるかもしれなかったからだ。
リズナは母から聞いた内容を、ゼラスたちへ伝えた。
「母さんは何度も父さんへ知らせようとした。でも、風を僅かに揺らすことしかできなかったみたい」
「あの人は詳しい理由を知らないまま、それでも何かに気づいて、あたしを風導院から遠ざけたんだって」
「親父さんは、全部知っていたわけじゃないんだな」
「ああ」
リズナは目元を拭い、頷いた。
「それでも、あたしを守ろうとしてくれてた」
ネフィラの映像が一度、大きく揺らいだ。
「リズナ……あなたをガリオールへ送ったのは、中央管理層よ」
「やっぱり、事故じゃなかったのね」
「ルフェリアの中核風紋に……異なる大陸の情報を蓄積させるため」
「あなたの祖先が渡ってきた道を、もう一度使おうとしたの」
「ガリオールからアスタリアへ?」
「その前のことは……私にも分からない」
ネフィラは首を横へ振った。
「古い記録は、中央管理層に隠されているわ」
「ただ……ガリオールよりも遠い場所を示す印があった」
リズナは母の説明を、ガリオール語へ訳した。
「中央管理層が、あたしをガリオールへ送った」
「ルフェリアの祖先が渡った道を利用して、あたしの中核風紋へ向こうの魔力と座標を蓄積させるために」
「母さんにも、それより前のことは分からないみたい。でも、ガリオールより遠い場所を示す印が記録にあったって」
ゼラスは台座を巡る古い術式へ目を向けた。
「外側の門と同じ識別形式につながるかもしれんな」
『ネフィラは、外側について知っている?』
ミテイが尋ねた。
リズナがその問いをアスタリア語へ直して母へ伝える。
ネフィラは僅かに首を横へ振った。
「名前も、詳しいことも知らないわ」
「ただ、この塔は……ルフェリアを、こちら側で生まれた系統として扱っていない」
その答えを聞き、リズナはガリオール語へ訳した。
『ルフェリアは、外から来たと判定されている?』
「そういうことだろう」
ゼラスが答える。
「外側からガリオールへ渡り、そこからアスタリアへ来た可能性がある」
「まだ可能性ね」
リズナが念を押す。
「ああ。記録が欠けてる以上、断定はできん」
リズナは母親の姿を見つめた。
「でも、あたしの中にあるものを風導院が作ったわけじゃない。それは確かね」
「ああ。元からあったものを、奴らが利用しただけだ」
「言葉が分かるようにされたのも、中央管理層の仕業なの?」
リズナが尋ねる。
「ええ」
ネフィラの声がさらに弱くなる。
「けれど……命令層のすべては、起動できなかった」
「どうして?」
「私が……止めていたから」
リズナの目が見開かれた。
「中核から完全に拒むことはできなかったわ」
「でも、あなたの意思を奪う命令だけは……何度も流れを乱した」
「それが、私にできた唯一のことだった」
リズナは言葉を失った。
ガリオールで、誰かの命令に従うだけの存在にならずに済んだこと。
命令回路が完全には定着していなかったこと。
ゼラスが翻訳機能を残したまま、命令層だけを切り離せたこと。
その陰には、母の抵抗があった。
「……母さんが、守ってくれてたのね」
「守れたとは言えないわ」
ネフィラは悲しげに目を伏せる。
「あなたを遠い場所へ送らせてしまった」
「長い間、一人に――」
「謝らないで」
リズナが強く遮った。
ネフィラの言葉が止まる。
「あたしを送ったのは母さんじゃない」
「勝手に身体へ術式を入れたのも、母さんじゃないでしょう」
リズナは台座のすぐ前へ立つ。
「母さんが謝ることじゃないわ」
ネフィラの瞳が僅かに揺れた。
「……強くなったのね」
「あたしだけじゃないわ」
リズナは後ろを見る。
エルシア。
ミテイ。
そして、ゼラス。
「一人じゃなかったから」
母へそう告げてから、リズナは今の話をゼラスたちにも伝えた。
「母さんが、あたしの中へ入れられた命令をずっと邪魔してくれてた」
「完全には止められなくても、あたしの意思を奪う部分だけは、何度も乱してくれてたんだって」
ゼラスは台座の奥へ視線を向けた。
「だから命令層だけが不安定だったのか」
『ネフィラの抵抗が、切れ目を作った』
ミテイが言う。
『ゼラスは、そこから命令だけを外した』
「そういうことだろうな」
リズナがその説明を母へ伝える。
ネフィラは、初めて安堵したように目を閉じた。
「命令層を……取り除けたの?」
「ええ。この人が外してくれたわ」
リズナがゼラスを示す。
ネフィラの視線が彼へ向けられた。
「その人は……?」
「母さんが、あんたは誰かって」
リズナがガリオール語で尋ねる。
「ゼラスだ」
「それだけ?」
「他に何を言う」
リズナは少し考えてから、母へ向き直った。
「ゼラス=ヴェルゼイア」
「大陸を越えて、あたしに会いに来てくれた人よ」
ネフィラが静かに微笑む。
リズナはその表情を見て、僅かに頬を染めた。
「何を言われた」
「まだ何も言われてないわ」
「なら、なぜ赤くなる」
「気のせいよ」
ゼラスは台座から地下へ流れる魔力を追った。
「ネフィラを中核から外したら、風脈はどうなる」
リズナがその問いをアスタリア語に直し、母へ伝える。
ネフィラは目を伏せた。
「今すぐ切り離せば……各地の風は乱れるわ」
「水を送る風車も、空の航路も、多くが止まる」
「大陸が滅びるわけではない」
「でも、たくさんの人が苦しむことになる」
「やっぱり、母さんを犠牲にしないと駄目なの?」
「次の器が接続されれば、安定は続くわ」
「それは答えになってない」
リズナの声が鋭くなる。
「母さんの代わりに、あたしが入るだけでしょう?」
ネフィラは答えられなかった。
リズナは母の説明を、ゼラスたちへ伝えた。
「今すぐ母さんを外せば、アスタリア中の風が乱れる。大陸が滅びるほどじゃないけど、生活や移動に大きな被害が出るって」
「塔が用意してる解決方法は、あたしを次の器としてつなぐことだけ」
ゼラスが台座へ手を置く。
黒紫色の魔力を薄く流し、風脈の制御構造を探った。
「装置自体に調整機能はある」
ミテイも隣へ立ち、灰色の魔力を流す。
『でも、足りない』
『複数の風が同時に変化した時、自分で選べない』
「だから、生きた意識に判断を押しつけてる」
ゼラスの指先が、台座に刻まれた線をなぞった。
「風の器は動力じゃない。変化へ対応するための補正装置だ」
その説明をリズナがアスタリア語へ訳す。
セレイナが息を呑み、ゼラスへ問い返した。
リズナがその問いをガリオール語へ伝える。
「人を使わずに、風脈を安定させる方法はあるのかって」
「ある」
ゼラスは即答した。
リズナが答えを伝えると、セレイナの目が見開かれる。
ゼラスは台座の奥へ続く術式を見ながら説明を続けた。
「今の仕組みをそのまま使うなら難しい」
「だが、一人に全部判断させる必要はない。各地の風塔へ調整機能を分散させればいい」
『小さい判断を、たくさん作る』
ミテイが補足する。
「ああ。中央は全体の流れを見るだけにする」
リズナが二人の説明をセレイナへ訳した。
「本当に、そんなことができるのですか?」
セレイナの問いを聞き、リズナがゼラスへ伝える。
「できるのかって」
「この装置の根に触れられればな」
ゼラスは地下のさらに奥へ目を向けた。
「管理権限そのものを書き換える必要がある」
リズナがその答えを訳す。
セレイナは中央風塔の紋様を見つめた。
風導院が守ってきた仕組みそのものを、作り替える。
しばらく沈黙した後、彼女は低く答えた。
「……それで器が必要なくなるのなら、私は止めません」
リズナがその言葉を伝える。
「止めないって」
「最初から止められるとは思ってないだろ」
その返事を訳すと、セレイナは僅かに唇を引き結んだ。
突然。
台座の光が激しく乱れた。
『先代個体の意識偏差を確認』
アスタリア語の機械音声が広間へ響く。
『中核制御への抵抗行為を検出』
ネフィラの身体を、緑色の拘束線が貫いた。
「……っ!」
映像が大きく歪む。
「母さん!」
リズナが台座へ手を伸ばす。
『後継適合個体との接触を優先』
『先代個体の意識活動を停止します』
「母さんの意識を止めるつもりよ!」
リズナはゼラスたちへ叫び、すぐに台座へ向き直った。
「止めなさい!」
だが、管理装置は応じない。
ネフィラの姿が薄れていく。
「リズナ……」
「ここにいるわ!」
「中核へ……来ては駄目」
ネフィラは苦しげに声を絞り出す。
「私を助けるために……あなたが代わりになる必要はない」
リズナの瞳から涙がこぼれた。
「でも、母さんを置いていけない!」
ゼラスには母娘の言葉は分からない。
それでも、ネフィラが消されかけ、リズナが何を訴えているのかは見れば分かった。
「リズナ」
ゼラスが呼ぶ。
「俺の言葉を訳せ」
リズナが振り返る。
「両方助ける、と伝えろ」
「……うん」
リズナは涙を拭い、母へ向き直った。
「ゼラスが、両方助けるって」
「母さんも助ける。あたしも器にはさせない」
「勝手に、どちらか一つだけを選ばせるなって」
ネフィラの目が僅かに見開かれる。
その直後。
広間の奥で、重い音が響いた。
壁の一部が左右へ開き、地下中枢へ続く通路が姿を現す。
「私が……扉を開いたわ」
ネフィラの声は、もうほとんど風に紛れていた。
「長くは……保てない」
「中核へ行って」
「母さん!」
「大丈夫」
消えかけたネフィラが、娘へ微笑む。
「今度は……あなたの声が、ちゃんと聞こえたから」
映像が途切れた。
台座から、ネフィラの姿が消える。
同時に、地下全体が大きく揺れた。
『後継適合個体の強制接続を開始』
リズナの胸元へ、緑色の風紋が浮かび上がる。
「強制接続を始めるって!」
奥の通路から吹きつける風が、リズナの身体を引き寄せた。
ゼラスが即座にその手首を掴む。
「行くぞ」
「ええ」
リズナは涙の残る目で、通路の奥を見据えた。
母親を救う。
自分も器にはならない。
どちらかではなく、その両方を選ぶために。
五人は、中央風塔の最深部へ踏み込んだ。




