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第百十五話 先代の器



螺旋階段を下るにつれ、地上の喧騒は遠ざかっていった。


壁に灯りはない。


それでも、一定の間隔で刻まれた緑色の紋様が、リズナの接近に合わせて淡く光っていく。


まるで、彼女が来ることを最初から知っていたかのように。


「ここへ入ったことはないの?」


リズナがセレイナへアスタリア語で尋ねた。


返ってきた答えを、ガリオール語へ訳す。


「院長と一部の管理官しか入れないそうよ。副院長にも立ち入りは認められてないって」


「中を知らない奴が、人を入れようとしてたのか」


ゼラスが呟く。


リズナがそのまま伝えると、セレイナの足が僅かに止まった。


だが、反論はなかった。


『階段の下に、複数の空間がある』


ミテイが石壁へ視線を向ける。


灰色の魔力が足元から広がり、地下構造を読み取っていく。


『人が通る道と、風を通す管が分かれている』


「一番大きい空間は?」


『もっと下』


「そこが中枢だろうな」


ゼラスも周囲の魔力へ意識を広げた。


王都へ集められた風が、壁の奥にある無数の管を通って地下へ流れ込んでいる。


だが、そのまま地上へ送り返されているわけではない。


一度、地下の何かへ集約されていた。


「風脈をここで整えてる」


「じゃあ、風の器がいなければ風脈が崩れるっていう話は……」


「装置が止まれば風が乱れる。それ自体は嘘じゃない」


ゼラスは階段を下りながら続けた。


「だが、風を整える仕組みと、人を閉じ込めることは別だ」


リズナが訳す。


セレイナは何も言わず、階段の奥を見つめた。




長い螺旋階段の先に、巨大な扉が現れた。


継ぎ目のない白い金属。


中央には、人の胸ほどもある渦状の紋章が刻まれている。


セレイナが紋章へ手を触れた。


胸元の銀色の証が光り、扉の表面へ複雑な文字が浮かぶ。


だが、扉は動かなかった。


「権限が拒否されたみたい」


リズナが告げる。


「副院長でも駄目か」


『違う』


ミテイが扉へ近づく。


『セレイナの権限を拒否したのではない』


「なら何だ?」


『必要ないと判断した』


直後。


扉の紋章から、細い緑色の光が伸びた。


光はセレイナを通り過ぎ、リズナの喉元へ触れる。


『風の器を確認』


アスタリア語の声が響いた。


「何と言った?」


「……あたしを確認したって」


リズナが答えると同時に、扉が左右へ開き始めた。


セレイナの顔が強張る。


「院長の認証すら必要ないのね」


「最初から、リズナを入れるための扉なんだろ」


冷たい風が、開いた扉の奥から流れ出した。




扉の先には、円形の広間があった。


壁に沿って、透明な筒状の装置が並んでいる。


人一人が横たわれるほどの大きさ。


どれも中身は空だったが、床下へ無数の管と術式が続いていた。


エルシアの足が止まる。


「これは……」


「見たことがあるのか?」


「私が閉じ込められていた施設にも、似た装置がありました」


エルシアは最も近い筒へ歩み寄った。


表面へ触れず、内部を覗き込む。


「人の身体を調べ、長期間維持するための設備です」


セレイナが驚いた様子で問い返した。


リズナが二人の間を通訳する。


「風導院では、儀式前に器の身体を清める祭壇だと伝えられていたそうよ」


「祭壇に、内部時間を遅らせる機能は必要ない」


ゼラスが筒の側面へ指を添えた。


ミテイも灰色の魔力を流し込む。


『中の時間を遅くできる』


「エルシアのいた施設と同じか?」


『完全には同じではない。でも、考え方は似ている』


「誰かを長く閉じ込めておくための装置か」


リズナは並んだ筒を見回した。


「あたしたちの前にも、ここへ入れられた人がいたの?」


問いかけられたセレイナは、答えられなかった。


彼女自身も、目の前の設備を初めて見ている。




広間の中央には、円形の台座があった。


その上だけ、薄い風が絶えず渦を巻いている。


リズナが近づく。


台座に刻まれた紋様が、一斉に光った。


『後継適合個体の接近を確認』


「後継の適合者……あたしが来たって」


リズナが訳す。


台座の上へ、緑色の光が集まり始めた。


光は人の輪郭を作り、やがて一人の女性の姿へ変わっていく。


長い赤い髪。


眠るように閉じられた目。


リズナとよく似た顔立ち。


胸元には、同じ渦状の風紋が浮かんでいた。


その隣へ、古い文字列が表示される。


『先代風器個体――ネフィラ=ルフェリア』


リズナが息を止めた。


「……母さん」


ゼラスが光の女性を見る。


「母親なのか?」


「ええ」


リズナは目を離せないまま、小さく頷いた。


「ネフィラ=ルフェリア。亡くなったって聞かされてた、あたしの母さんよ」


台座の声が続く。


『中央中核への接続を継続中』


『肉体維持機能、稼働』


『意識反応、断続的に検出』


「亡くなってない……?」


リズナの声が震えた。


「少なくとも、身体は中に残ってる」


ゼラスは台座から地下の奥へ伸びる魔力を追った。


「生きていると言える状態かどうかは、まだ分からん」


リズナの手が、光で形作られた母親へ伸びる。


だが、触れる直前で止まった。


指先は、何の感触もない映像を通り抜けるだけだった。




ミテイが台座の周囲へ視線を巡らせる。


灰色の魔力が、風紋を囲む複雑な線へ触れた。


『この識別形式を、前にも見た』


「どこでだ?」


『グランラビリス』


ゼラスの目が細くなる。


『外側へ続く門が、リズナを調べた時と似ている』


「この世界の外へ続いていた、あの門か」


『そう』


ミテイは胸元の風紋を囲む線を指した。


『完全に同じではない。でも、個体を分類する形が似ている』


リズナはその言葉をセレイナへ伝えた。


セレイナは戸惑いながら答える。


「風の器という呼称は、風導院が作ったものではないそうよ」


「なら、どこから出てきた」


「中央風塔に残されていた古い記録を、そのまま引き継いだだけだって」


ゼラスは台座の術式を見つめる。


「外側の門も、こいつも、同じ古い分類を使ってる可能性があるな」


『同じ装置?』


「そこまでは分からん」


ゼラスは即座に否定した。


「形式が似てるからといって、同じ奴が作ったとは限らない。どちらかが模倣した可能性もある」


『でも、無関係ではない?』


「ああ。無関係と考える方が難しい」


リズナは母親の胸元に浮かぶ風紋へ目を向けた。


グランラビリスの門は、彼女を見た瞬間に風の器として認識した。


あの時は、中央風塔や風導院の存在すら知らなかった。


だが今なら分かる。


あの門は風導院の呼び名を知っていたのではない。


もっと古い何かを、リズナの中に見つけたのだ。




台座へ、新たな文字が浮かび上がる。


『後継適合個体――リズナ=ルフェリア』


『出生時より観測を継続』


『先代個体との系統照合――一致』


リズナの拳が握られる。


「あたしが生まれた時から、ずっと見てたのね」


「親父さんは知ってたのか?」


「分からない」


リズナは表示を見つめたまま答えた。


「母さんが風の器だったことは知ってたかもしれない。でも、こんなふうに身体を残されてるなんて……」


「全部知っていたなら、お前を風導院から遠ざける必要はない」


ゼラスが言う。


「少なくとも、ここの実態まで知ってたとは思えん」


リズナはすぐには答えなかった。


それでも、父が自分を守ろうとしていたことまで疑うつもりはなかった。




さらに古い記録が開く。


文字の多くは欠け、意味を失っている。


だが、いくつかの地名だけは残っていた。


『……ガリオール系統……』


『……アスタリア移住……』


『……風脈環境への適応……』


リズナが眉を寄せる。


「あたしたちの一族は、ガリオールから来たの?」


「そう読めるな」


ゼラスが記録を追う。


「ただし、いつの時代かまでは分からん」


『その前にも、記録がある』


ミテイが欠損した箇所へ触れる。


そこには文字の形だけが残り、内容はほとんど消えていた。


『ガリオールより前の情報が欠けている』


リズナがゼラスを見る。


「外側からガリオールへ来た可能性もある?」


「可能性はある」


ゼラスは慎重に答えた。


「だが、まだ決めつけるな。お前の祖先が外側から来たのか、外側の技術で変えられたのか、それとも別の理由で同じ規格を持ってるのか。記録が足りん」


「そうね」


リズナは台座に映る母親へ視線を戻した。


「でも、ルフェリアの一族がガリオールからアスタリアへ渡ったことは、かなり確かそうね」


「ああ」


「だから、あたしはガリオールへ送られたのかしら」


その問いに答えるように、新たな記録が表示された。


『後継適合個体を外部施設へ派遣』


『異大陸魔力情報の収集を開始』


『中核風紋への座標蓄積を確認』


リズナの顔から血の気が引く。


「あたしがガリオールへ飛ばされたのは……事故じゃなかった?」


エルシアが記録へ近づく。


「現地の魔力と座標を、あなたの中へ蓄積させるためだったようです」


「じゃあ、言葉が分かるようにされたのも」


「現地で生存し、行動させるためでしょう」


ゼラスが表示へ視線を走らせる。


「大陸間転移施設も、中央風塔の指示で動いてた可能性が高いな」


『ガリオール側の施設も?』


「少なくとも、接続先として利用された」


リズナの呼吸が浅くなる。


「帰りたいと思ったことまで、最初から仕組まれてたの?」


「それは違う」


ゼラスの返事は早かった。


リズナが彼を見る。


「お前を送ったのは塔かもしれん。帰る道を利用したのも塔だろう」


ゼラスはまっすぐに彼女を見返す。


「だが、父親に会いたいと思ったのはお前だ。エルシアと一緒に帰ると決めたのも、お前自身だ」


「でも――」


「他人が用意した道を歩いたからといって、その途中で選んだものまで他人のものになるわけじゃない」


リズナの唇が閉じる。


「勝手に奪われたことと、自分で選んだことを混ぜるな」


しばらく、リズナは何も言わなかった。


やがて強く握っていた拳を、少しずつ緩める。


「……うん」


『帰りたいことも、父親に会いたいことも、リズナが選んだ』


ミテイが静かに告げる。


『ゼラスにまた会いたいと思ったことも』


リズナの頬が僅かに赤くなる。


「今、それも言うの?」


『大事なこと』


「……そうね」


リズナは小さく笑った。


「それも、あたしが選んだわ」




セレイナは台座に表示された記録を、青ざめた顔で見つめていた。


リズナが母親の状態について問いただす。


返ってきた言葉を聞き、ゼラスたちへ訳した。


「風導院の記録では、先代の器は聖風儀式を終え、肉体を離れて風脈と一つになったことになってるそうよ」


「肉体を離れた?」


ゼラスが透明な筒へ目を向ける。


「実際には、身体を装置へ入れて、百年以上も中核へつないでいたわけか」


リズナはセレイナへ向き直った。


「あんたは、本当に何も知らなかったの?」


セレイナは台座から目を離せないまま、静かに首を横へ振った。


その返答を、リズナが訳す。


「……知らなかったって」


「知らなかったで済むのか?」


ゼラスが尋ねる。


リズナがそのまま伝えると、セレイナはしばらく黙り込んだ。


やがて、低い声で答える。


「済むとは思っていない、ですって」


リズナの怒りは消えなかった。


知らされていなかったこと。


知らないまま、自分を犠牲にしようとしたこと。


どちらも事実だった。


それでも今は、怒りをぶつけるより先に確かめるべきものがある。




その時。


広間の奥から、弱い風が流れてきた。


地下を満たしている冷たい風とは違う。


途切れそうで。


それでも、確かな意思を持つ風だった。


台座に映るネフィラの指先が、僅かに動く。


『記録映像ではない』


ミテイが即座に告げた。


『地下の奥から、信号が来ている』


ゼラスも中枢へ意識を向ける。


巨大な管理装置の魔力に埋もれながら、ごく小さな反応が残っている。


消えかけてはいる。


だが、まだ完全には失われていない。


機械的な音声が乱れた。


雑音のような風が広間を巡る。


その奥から、掠れた女の声が聞こえた。


『……リズナ……』


リズナの瞳が大きく揺れた。


幼い頃に何度も呼ばれた声。


百年以上が過ぎても、忘れることのなかった声だった。


「母さん……?」


台座に映るネフィラ=ルフェリアが、ゆっくりと目を開いた。

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