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第百十四話 素手で十分



「お前が誰のものでもないってことをだ」


ゼラスの言葉を、リズナがアスタリア語へ訳した。


周囲を囲む兵士たちの表情が、一斉に険しくなる。


剣。


槍。


短杖。


それぞれの武器へ緑色の魔力が集まり、王都を巡る風が広場へ流れ込んだ。


エルシアが息を呑む。


その前へ、ミテイが一歩進み出た。


『エルシアは、まだ若い身体に慣れていない』


灰色の魔力が、足元から石畳へ染み込む。


『だから、私が守る』


「頼んだ」


『任された』


ミテイはエルシアを背後へ庇い、広場の地下構造へ意識を広げた。


ゼラスは武器を出さない。


両手を下ろしたまま、迫る兵士たちを見ている。


それに気づいた一人が、嘲るような声を上げた。


「何て言った?」


「武器も持たずに、風都の守備兵と戦うつもりかって」


「そうだと伝えろ」


「殺さないでよ」


「殺す必要は感じてない」


「ならいいわ」


リズナも剣を抜く。


刃を傾け、左右から迫る兵士の足運びを見た。


「左はあたしがやる」


「右は任せろ」


「背中、預けるわよ」


「好きにしろ」


二人が背中合わせに立つ。


セレイナが片手を上げた。


「拘束しなさい。ただし、風の器を傷つけてはなりません」


号令と同時に、兵士たちが動いた。




最初にゼラスへ斬りかかった男は、足元で風を爆発させた。


石畳を蹴った瞬間、身体が一気に加速する。


風をまとった刃が、ゼラスの首へ迫った。


ゼラスは退かない。


刃が届く直前、半歩だけ踏み込んだ。


剣の内側へ入り、相手の手首を下から打ち上げる。


刃先が空を向いた。


「――っ!?」


肘を押さえ、腰を捻る。


兵士の勢いをそのまま利用し、身体を前へ投げた。


頭から落ちる寸前で襟を掴み、肩だけを石畳へ叩きつける。


男の手から剣が転がった。


「風で速くなっても、動きまで上手くなるわけじゃない」


言葉は通じない。


だが、侮られていることだけは伝わったらしい。


男は歯を食いしばった。


ゼラスはすでに次の相手へ向いていた。


右から槍が突き出される。


穂先を避け、柄へ掌を添える。


力で止めず、僅かに軌道を変えた。


槍はゼラスの脇を抜け、横から迫っていた剣へ衝突する。


二人の体勢が同時に崩れた。


ゼラスは槍の柄を掴み、持ち主へ押し返す。


石突きが胸当てへ当たり、兵士の呼吸が止まった。


その膝が落ちる。


もう一人の足首を払い、襟を掴んで槍兵の隣へ転がした。


「二人」


『後ろから来る』


ミテイの声が飛ぶ。


ゼラスは振り返らなかった。


背後の兵士が踏み込んだ瞬間、足元の石畳が僅かに沈む。


剣の軌道がずれた。


刃が肩を外れたところへ、ゼラスの肘が胸当てへ突き刺さる。


息を失った男の手首を取り、地面へ伏せさせる。


「助かった」


『私は役に立った?』


「ああ」


『記録する』


「後にしろ」


『分かった』




リズナへは、三人の兵士が同時に迫っていた。


左右から剣。


正面から風刃。


リズナは足元へ風を集め、身体を横へ滑らせる。


二本の刃の間を抜けた。


背後の石畳が風刃に削られる。


振り返りざま、剣の腹で一人の手首を打つ。


剣が宙へ跳ねた。


二人目の斬撃を受け流し、その腕へ自分の風を絡ませる。


勢いを増幅された兵士が、正面の術師へ突っ込んだ。


二人が重なって倒れる。


残った男が剣を正眼に構えた。


刃の周囲で、細い風が螺旋を描く。


リズナの目が僅かに細くなる。


見覚えのある型だった。


アスタリアで冒険者をしていた頃。


護衛依頼で風導院の術師と同行したこともあれば、合同訓練で彼らの剣を見たこともある。


魔物相手には有効だった。


だが、人を相手にするには動きが素直すぎる。


「その型なら、何度も見たわ」


リズナが踏み込む。


兵士の剣が振り下ろされた。


風が弾ける。


しかし、刃同士はぶつからなかった。


リズナは斬撃を紙一重で外し、相手の懐へ入り込んでいる。


柄頭を腹部へ押し当てる。


風が一点で爆ぜた。


兵士の身体が数歩後ろへ吹き飛び、石畳を転がる。


「冒険者を甘く見ないで」


倒れた男へ剣を向けることなく、リズナは次の気配へ振り返った。




背後に立っていたのはセレイナだった。


兵士たちの指揮だけを執っていた副院長が、いつの間にかリズナとの距離を詰めている。


武器は持っていない。


だが、両腕には薄い風がまとわりつき、袖口から指先まで鋭く流れていた。


セレイナがアスタリア語で告げる。


「記録にある以上の腕ですね」


「記録?」


「あなたのことは、風導院に残された資料で知っています」


「どうして、あたしの記録があるの?」


「出生時に確認された中核風紋。その形状も、強度も、すべて保存されています」


リズナの表情が変わった。


「生まれた時から、風導院はあたしを知ってたの?」


「あなたは、先代の風の器の娘として記録されました」


「先代の……?」


問い返すより先に、セレイナが踏み込む。


掌がリズナの喉元へ伸びた。


言語術式へ直接触れるつもりだ。


リズナは剣の柄で手首を弾いた。


セレイナのもう一方の掌が脇腹へ迫る。


身体を捻って避け、足元へ風を放つ。


互いの身体が反対方向へ滑った。


「話を途中で切らないで!」


「まずは命令層を修復します。その後で説明しましょう」


「勝手に触るなって言ったでしょう!」


リズナは剣先を下げたまま間合いを詰める。


セレイナの手刀が顔を狙った。


首を傾けてかわし、懐へ入る。


だが、セレイナも退かない。


膝がリズナの腹部へ上がる。


リズナは腿で受け止め、空いた手でセレイナの肩を掴んだ。


二人の風が近距離でぶつかる。


激しい音が鳴り、周囲の砂埃が円を描いて飛び散った。


「風の器が中央風塔へ入らなければ、大陸の風脈が崩れます」


「だから、あたし一人を閉じ込めるの?」


「一人の犠牲で、多くの命が救われるのです」


「その一人を勝手に選ぶな!」


リズナがセレイナの腕を巻き取り、身体を反転させる。


冒険者時代、武器を失った時のために身につけた投げだった。


セレイナの身体が宙を浮く。


しかし、地面へ落ちる直前に風を放ち、着地する。


すぐさま間合いを詰めようとした。


その喉元へ、リズナの剣先が突きつけられる。


「動かないで」


セレイナの足が止まった。


剣先は皮膚へ触れていない。


それでも、次に動けば届く距離だった。


「あなたを傷つけるつもりはありません」


「身体を奪うのは、傷つけることにならないの?」


セレイナは答えなかった。


その沈黙が、リズナには何より腹立たしかった。




エルシアへ近づこうとした兵士が、ミテイの前で槍を構えた。


『ここから先へは行かせない』


兵士が石壁を飛び越える。


ミテイは動かない。


着地点だけが拳一つ分ほど隆起した。


足を取られた兵士が、空中で体勢を崩す。


落とした槍をミテイが片手で掴んだ。


『その持ち方では、右肘へ力が集中する』


柄を僅かに捻る。


兵士の腕から力が抜け、膝をついた。


ミテイは胸当ての継ぎ目へ掌を当てる。


灰色の魔力が一瞬だけ流れ、留め具がすべて外れた。


鎧が石畳へ落ちる。


『戦いにくくなった』


兵士は呆然と、自分の胸元を見下ろした。


「ミテイさん、左から来ます」


エルシアが声をかける。


『見えている』


回り込んだ兵士の前で、石畳が斜めにせり上がった。


足を取られた男は、勢いのまま先ほどの兵士へ衝突する。


二人が重なって倒れた。


『守れている』


「はい。とても頼もしいです」


『嬉しい』


ミテイは僅かに目を細め、すぐに周囲へ意識を戻した。




広場に立っている兵士は、もう僅かだった。


誰一人として命を失っていない。


だが、戦える状態の者もほとんど残っていなかった。


ゼラスは倒れた兵士の腕を離し、リズナへ目を向ける。


セレイナの喉元には、まだ剣先が向けられている。


「何を話してた」


「風導院は、あたしが生まれた時から記録してたみたい」


リズナはガリオール語で答える。


「あたしを、先代の風の器の娘として」


ゼラスの目が僅かに細くなった。


「先代が誰かは聞いたのか?」


「まだ。途中で襲ってきたから」


「なるほどな」


セレイナには二人の会話が分からない。


それでも自分について話していることは察したらしく、警戒した目を向けていた。


その時。


中央風塔が、低く鳴った。


王都の空を巡っていた風の環が、一斉に高度を下げ始める。


広場の周囲へ透明な壁が生まれた。


外から内へ。


幾重にも重なり、逃げ道を塞いでいく。


セレイナが塔を見上げた。


その顔に、初めて明確な動揺が浮かぶ。


「待ちなさい」


彼女がアスタリア語で叫ぶ。


「中核接続は、まだ命じていません!」


「何て言った?」


ゼラスが尋ねる。


リズナは塔を見上げたまま訳す。


「これはセレイナの命令じゃないって」


「止められるのか?」


リズナが問いかける。


セレイナは胸元の紋章へ魔力を流し、中央風塔へ停止命令を送った。


だが、反応はない。


代わりに、塔の光が強くなる。


リズナの喉元に残された報告線が、強く引かれた。


「っ……!」


身体が塔の方角へ引き寄せられる。


リズナは足元へ風を叩きつけ、踏みとどまった。


それでも、石畳の上を靴が滑る。


セレイナが目を見開く。


「中央管理層が、風導院の制御を拒んでいる……?」


「今さら驚いてる場合?」


リズナは剣を石畳へ突き立てる。


「こうなることを知らなかったの?」


「中核への接続は、院長の認証なしには開始されないはずです」


「実際に始まってるでしょう!」


風圧がさらに強まった。


ゼラスがリズナの腰へ腕を回す。


「離して! あんたまで引かれるわ!」


「この程度でか」


「王都全部の風よ!」


「だから何だ」


ゼラスは石畳へ足を沈める。


靴底の下で石が砕けた。


それでも二人の身体は動かない。


セレイナが、信じられないものを見るようにゼラスを見た。


「何て言ってる」


「あり得ない、って」


「そうか」


ゼラスは塔から目を離さない。


「俺にはよく言われる」


「今は訳さないわよ!」


「後でいい」




広場へ倒れていた兵士たちまで、塔へ引きずられ始めた。


ミテイが石畳を隆起させ、彼らの身体を受け止める。


『もう戦えない。だから、今は守る』


エルシアも風に耐えながら、地面へ手を触れた。


「この流れ……」


「何か分かるのか?」


ゼラスが尋ねる。


「私が閉じ込められていた施設と似ています」


エルシアは地下から伝わる振動を感じ取っていた。


「帰還設備の中枢にあった魔力の動きと、よく似ています」


「同じ系列か」


「完全に同じではありません。ですが、人を登録し、役割へ接続する構造は同じです」


ゼラスの目が細くなる。


「ミテイ。地下を見ろ」


『分かった』


灰色の魔力が、王都の地下へ広がる。


水路。


風を送る管。


幾重にも重なった建物の基礎。


さらにその下。


地上の塔よりも遥かに巨大な空洞で、膨大な魔力が脈打っていた。


『塔は、上から動いていない』


「どういう意味だ」


『上の塔は入口』


ミテイが地面の奥を見つめる。


『本体は、王都の下にある』


セレイナがその言葉の意味をリズナへ尋ねた。


リズナが訳すと、彼女の顔から血の気が引く。


「副院長なのに知らなかったの?」


「地下中枢への立ち入りは、院長と選ばれた管理官にしか許されていません」


「風の器を閉じ込める場所なのに?」


「私は……儀式のすべてを見たことはありません」


リズナの剣先が僅かに近づく。


「あたしを塔へ入れようとしておいて?」


「大陸を守るために必要だと教えられてきました」


「中で何が起きるかも知らずに?」


セレイナは答えられなかった。


ゼラスが二人を見る。


「話は中でしろ」


「ゼラス?」


「地下の本体を止める」


「入口は?」


『見つけた』


ミテイが広場の中央を指す。


厚い石畳の下に、螺旋状の空洞が続いていた。


しかし、表面には扉も階段もない。


リズナはセレイナへ剣を向けたまま尋ねる。


「開け方を知ってる?」


セレイナは首を横へ振った。


「中央管理層に選ばれた者へしか、入口は開かれません」


「ちょうど選ばれてる奴がいる」


ゼラスがリズナを見る。


「塔へ言え」


「何て?」


「風の器を迎えたいなら――」


ゼラスの黒紫色の魔力が、石畳へ静かに染み込む。


「自分で扉を開けろ、と」


リズナはアスタリア語で塔へ告げた。


一瞬の沈黙。


やがて、広場全体へ巨大な円形の線が浮かび上がった。


地面が低く震える。


中央部分が左右へ割れ、地下から冷たい風が吹き上がった。


暗闇の奥へ続く、巨大な螺旋階段が姿を現す。


『招いている』


ミテイが告げる。


「好都合だ」


ゼラスが入口へ足を向ける。


リズナはセレイナの背後へ回り、剣を下ろさずに言った。


「あんたも来なさい」


「私も?」


「風導院が何をしてきたのか、知ってることを全部話してもらうわ」


「地下中枢は危険です」


「だったら、なおさら置いていけないでしょう?」


セレイナは開いた入口を見下ろした。


自分の命令を無視して動いた中央風塔。


知らされていなかった地下の巨大構造。


そして、百年以上前から保存されていたリズナの記録。


それでもまだ、迷いを捨てきれない顔をしている。


リズナは剣を鞘へ戻した。


「逃げるなら止めるわ」


「剣を収めて言うことですか?」


「あんたが逃げる前に追いつけるもの」


アスタリアで冒険者として積んできた経験に裏打ちされた声だった。


セレイナは短く息を吐く。


「分かりました。同行します」


リズナがゼラスへ訳す。


「セレイナも来るって」


「案内できるのか?」


「地下のことはほとんど知らないみたい」


「なら、証人にはなる」


ゼラスは螺旋階段を見下ろした。


「行くぞ」


ミテイはエルシアの隣へ立つ。


セレイナも兵士たちへ待機を命じ、リズナの後ろへ続いた。


地下から吹き上がる風が、五人の髪を揺らす。


リズナを部品として求めるもの。


そして、風導院すら知らないまま利用してきたもの。


その正体を確かめるため。


ゼラスたちは、風都の地下へ足を踏み入れた。

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