↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
113/367

第百十二話 こちらから行く



風導院の使者は、地面へ膝をついたままゼラスを睨んでいた。


ひび割れた銀の紋章を押さえ、何度も口を動かしている。


やがて塞がれていた魔力が僅かに戻り、掠れた声が漏れた。


男はアスタリア語で何かを怒鳴る。


「何て言ってる」


ゼラスが尋ねると、リズナは呆れたように訳した。


「拘束を解け。風導院への敵対行為として処罰する、ですって」


「先に仕掛けたのはそっちだろ」


「そう伝える?」


「一言も変えるな」


リズナはそのままアスタリア語へ訳した。


使者の顔がさらに険しくなる。


彼はリズナを指し、次にゼラスへ向けて何かを言った。


「今度は?」


「あなたは風の器へ不正に干渉した。埋め込まれた術式は、風導院の所有物だって」


「まだ言うか」


ゼラスの目が冷たく細められる。


「リズナの身体はリズナのものだ。お前たちの所有物じゃない」


リズナは一瞬、ゼラスの横顔を見た。


それから使者へ向き直り、強い口調で訳す。


使者が何かを言い返そうとしたが、リズナが先に言葉を重ねた。


今度はゼラスの言葉を訳しているのではない。


自分自身の言葉だった。


しばらくして、使者は苦々しい顔で口を閉じた。


「何と言った」


「次にあたしの身体を勝手に動かそうとしたら、風導院には行かないって」


「行くつもりなのにか?」


「交渉よ」


リズナは小さく笑った。


「向こうは、あたしが来ないと困るみたいだから」


「使い方を覚えたな」


「誰かさんを見てたからね」


ゼラスは何も言わず、僅かに口元を上げた。




リズナの父が使者たちへ声をかけた。


彼らの間で、しばらくアスタリア語のやり取りが続く。


父は屋敷を指し、次に暗くなり始めた空を示した。


「親父さんは何と?」


「出発は明朝にしろって。夜の風脈は不安定だし、今の状態で移動させるつもりはないって言ってる」


「まともな判断だ」


使者はすぐに拒んだ。


風導院の命令は即時であり、これ以上の遅延は認められない。


リズナがそう訳すと、ゼラスが男の胸元を指した。


「その壊れた魔道具で夜道を走るつもりか?」


リズナが訳す。


使者は胸元へ視線を落とした。


銀の紋章だけではない。


逆流した魔力によって、騎獣の鞍に刻まれていた術式にも亀裂が入っている。


風を集める機能が不安定になり、このままでは高速移動などできない。


男は唇を噛み、仲間たちと短く話し合った。


「明朝まで待つそうよ」


「最初からそう言えばいい」


「壊した本人が言うこと?」


「壊れる使い方をしたのは向こうだ」


使者たちは屋敷から離れ、門の外へ簡易の野営地を作り始めた。


監視の意味もあるのだろう。


だが、もう無理に敷地へ入ろうとはしなかった。




屋敷へ戻ると、リズナの父はすぐに娘を別室へ呼んだ。


ゼラスとミテイ、エルシアも同席する。


父が椅子へ座るよう示し、リズナへ静かな声で話しかけた。


「父さん、あたしが本当に王都へ行くつもりなのかって」


「お前は何と答える」


「あたしは行くわ」


リズナは父へ向き直る。


アスタリア語で、自分の意思をはっきりと伝えた。


風導院へ従うためではない。


自分の身体へ何をされたのか、直接確かめるために行く。


父は黙って娘の言葉を聞いていた。


やがてゼラスへ視線を向け、何かを尋ねる。


「何だ」


「父さんが、あなたはあたしを守れるのかって」


ゼラスは少し考えた。


「必要なら守る」


リズナが訳そうとすると、ゼラスは続けた。


「だが、俺が勝手に全部決めるつもりはない」


「ゼラス?」


「戦うか、退くか、どこへ行くか。決めるのはお前だ」


リズナは静かに彼を見る。


「俺は、お前が決めた後で必要なことをする」


少し間を置いてから、リズナは父へ訳した。


父は娘とゼラスを交互に見つめる。


そして、ゆっくりと頭を下げた。


「親父さんは?」


「……あたしを頼むって」


「それは少し違うな」


ゼラスは父を見返す。


「リズナが自分で決められるように、邪魔する奴を退ける。それなら引き受ける」


「細かいところにこだわるのね」


「大事な違いだ」


リズナは困ったように笑いながら、その言葉も父へ伝えた。


父は一瞬驚いた後、今度は深く頷いた。




「私も同行します」


それまで静かに座っていたエルシアが口を開いた。


リズナの父へは、彼女自身がアスタリア語で意思を伝える。


「風導院の命令には、私の名も記されていました」


「身体は大丈夫なのか」


ゼラスが尋ねる。


「長く歩くことにはまだ不安があります。ですが、移動用の風車に乗るのであれば問題ありません」


「無理はするな」


「はい」


エルシアは若い手を膝の上で組んだ。


「私も知りたいのです」


「何をだ」


「なぜ私が連れ去られたのか」


彼女の声は静かだった。


だが、長い年月を耐えてきた者の重さがあった。


「風の器ではない私が、なぜあの施設へ送られたのか。なぜ帰還者として記録されていたのか」


リズナの父が、心配そうに何かを告げる。


エルシアはアスタリア語で答えた。


「何と言ったの?」


リズナが尋ねる。


「父は、今すぐ知らなくてもよいのではないかと」


エルシアは小さく微笑んだ。


「けれど、私は長く待ちすぎました」


皺の消えた手を、静かに握る。


「残された時間を、知らないまま怯えるためには使いたくありません」


ゼラスは彼女を見つめ、短く頷いた。


「なら来い」


「ありがとうございます」


「ただし、身体に異常が出たらすぐ言え」


「承知しました」


『私が中を見る』


ミテイが告げる。


『エルシアが無理をしたら分かる』


「頼もしいですね」


エルシアは柔らかく笑った。




夜。


リズナの部屋では、ゼラスとミテイが言語適応術式を詳しく調べていた。


リズナは寝台の端へ座り、髪を下ろしている。


ゼラスは彼女の額へ指先を当て、薄く魔力を巡らせた。


「命令回路は完全に外れてる」


『身体を動かす線はない』


ミテイも確認する。


リズナが安堵したように息を吐く。


「じゃあ、もう勝手に操られることはないのね」


「ああ」


「言葉も話せる?」


「今話してるだろ」


「そうだけど」


リズナは自分の喉へ触れた。


「これまで普通だったことが、急に信用できなくなったのよ」


「翻訳してるのは術式だが、話す内容まで決めてるわけじゃない」


「分かってるわ」


ゼラスは指を離さず、さらに奥を探った。


翻訳術式は、リズナの魔力回路へ深く馴染んでいる。


無理に抜けば、言葉だけでなく記憶や感覚へ影響する可能性もあった。


その外側。


命令回路が隠されていた場所とは別に、極めて細い魔力の線が伸びている。


『まだ、異物がある』


ミテイが告げた。


リズナの表情が固まる。


「命令じゃないの?」


「ああ」


ゼラスは線の先を探る。


細い魔力は、屋敷の外を抜け、遥か東へ向かっていた。


普段はほとんど動かない。


だが、リズナがガリオール語を話すたびに、僅かな情報が流れている。


「報告用だな」


「何を報告してるの?」


「言葉を使った回数。魔力の状態。おそらく現在地もだ」


リズナの顔から血の気が引いた。


「あたしが帰ってきてから、ずっと?」


「可能性は高い」


『風導院は、リズナがどこにいるか知っていた』


ミテイが言う。


『だから、すぐに使者が来た』


リズナは拳を握った。


「外して」


「待て」


「どうして?」


「切れば、向こうに気づかれる」


「もう十分気づかれてるでしょう?」


「今は、この線を逆に使える」


ゼラスの口元が僅かに上がる。


「向こうが覗いてるなら、こっちからも辿れる」


リズナは彼の顔を見た。


「また逆流させる気?」


「今回は壊さない」


「今回は、ね」


「風導院のどこへつながってるか調べるだけだ」


ゼラスは魔力の線へ、自分の力をほんの僅かに重ねた。


相手へ悟られないように。


リズナから流れる情報の一部へ紛れ込み、その先を探る。


遠い。


だが、確かにつながっている。


王都の方向。


巨大な術式。


そして、その中心にある一つの魔力反応。


「見つけた」


『誰?』


「人じゃない」


ゼラスは目を開いた。


「王都そのものに、でかい管理装置がある」


「管理装置……」


「ああ。お前の言語術式は、そいつとつながってる」


リズナは自分の胸元を押さえた。


ゼラスが手を離す。


「今夜はここまでだ」


「線は残すの?」


「ああ。向こうへ着くまではな」


「また命令されたりしない?」


「命令回路はもうない」


ゼラスはリズナを真っすぐに見る。


「何か来ても、俺が止める」


リズナはしばらく黙っていた。


やがて肩の力を抜き、小さく笑う。


「じゃあ、任せるわ」


「ああ」




翌朝。


風導院が用意した大型の風車が、屋敷の前へ止まった。


長い車体には複数の白い帆が立ち、王都へ続く高速街道を走るための術式が刻まれている。


使者の声も、胸元の紋章も、すでに元へ戻っていた。


ただし、ゼラスを見る目には強い警戒が残っている。


リズナの父は娘を抱き締め、アスタリア語で何度も言葉をかけた。


「何て言ってる」


ゼラスが尋ねる。


「あたしらしくいろって」


リズナは父を抱き返す。


「言われなくても、そのつもりよ」


エルシアも父や使用人たちへ挨拶を済ませた。


ミテイは風車の構造を見上げている。


『大きい』


「王都までは数日かかるからな」


ゼラスが答える。


『中に部屋がある』


「長距離用なんでしょうね」


リズナが先に乗り込む。


続いてエルシアとミテイ。


最後にゼラスが足をかけたところで、リズナの父が彼を呼び止めた。


意味は分からない。


ゼラスはリズナを見る。


「父さんが、もう一度あたしを頼むって」


「同じ答えでいいか?」


「ええ」


ゼラスは父へ向き直った。


「親父さん」


言葉は通じない。


それでも、ゼラスは自分の言葉で告げる。


「リズナは、俺たちと一緒に帰す」


リズナがアスタリア語へ訳した。


父は静かに頷いた。


風車の扉が閉じる。


帆へ風が集まり、巨大な車体がゆっくりと動き始めた。




屋敷を離れ、東へ進む。


乾いた草原は次第に緑を増し、遠くには高い塔がいくつも見え始めた。


王都へ近づくほど、空を巡る風脈も太くなる。


昼を過ぎた頃。


リズナが突然、喉元を押さえた。


「……何?」


「どうした」


「今、何か聞こえた」


「声か?」


「声というより……頭の中に直接」


ミテイがすぐにリズナを見る。


『東から、術式が触れている』


ゼラスも細い報告線へ意識を向けた。


昨夜までは一方的に情報を送るだけだった線へ、王都側から魔力が流れ込んでいる。


命令ではない。


リズナの存在を確かめるための照合だった。


「向こうが、お前を見つけた」


「今さら?」


「いや」


ゼラスは風車の前方を見る。


遥か遠く。


雲を突き抜けるほど巨大な白い塔が、淡い緑の光を放っている。


その周囲では、幾重もの風の環がゆっくりと回転していた。


「最初から待ってたんだ」


リズナの喉元へ、緑色の文字が浮かび上がる。


今度は身体を動かそうとはしない。


ただ、一つの情報だけを刻んだ。


『風の器の帰還を確認』


王都の巨大な塔が、二度目の光を放った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。