第百十一話 断る
「断る、と」
リズナは一瞬だけゼラスを見つめた。
その表情に冗談がないことを確かめると、門の外へ向き直る。
そして、アスタリア語で同じ言葉を告げた。
短く。
一語も和らげずに。
使者の眉が動いた。
彼はリズナへ何かを問い返す。
「何と言ってる」
「言葉の意味を理解して訳したのか、ですって」
「理解するのに難しい言葉だったか?」
「いいえ」
リズナは使者から目を逸らさない。
「だから、もう一度伝えるわ」
再びアスタリア語で告げる。
今度は先ほどよりも、はっきりと。
使者の後ろに控えていた者たちがざわめいた。
先頭の男は不快そうに息を吐き、長い外套の胸元へ手を添える。
そこには、渦を巻く風を模した銀色の紋章があった。
男がリズナへ、早口で何かを言う。
「風導院は、風脈に関わるすべての術師を調査する権限を持つ。大陸外から来た二人についても例外ではない、って」
「俺は風術師じゃない」
「それも言ったわ」
男はすぐに言葉を返した。
「風を使うかどうかは関係ないそうよ。許可されていない越境術式でアスタリアへ侵入した時点で、調査対象になるって」
「侵入か」
ゼラスは門の外に並ぶ者たちを見た。
使者を含めて七人。
全員が風の魔道具を身につけている。
騎獣の鞍にも術式が刻まれ、門の左右にはいつの間にか細い風の流れが張られていた。
屋敷を囲むつもりらしい。
「ここは、お前の親父さんの土地か?」
「ええ。屋敷と周辺の土地は父さんが管理してるわ」
「なら、勝手に踏み込んできたのは向こうだな」
リズナの父が前へ出た。
アスタリア語で使者へ告げる。
声は落ち着いていたが、表情は険しい。
二人の間でしばらく言葉が交わされた。
「親父さんは何と?」
「あなたたちは自分の客人だ。正式な令状も示さず、身柄を渡せという要求には応じられないって」
「まともだな」
「失礼ね。あたしの父さんよ?」
「褒めてる」
父の言葉を聞いた使者は、懐から細長い金属板を取り出した。
表面に刻まれた紋章へ魔力を流す。
緑色の文字が空中へ浮かび上がった。
リズナの父がそれを読み、顔を強張らせる。
「正式な命令なのか?」
ゼラスが尋ねた。
リズナも浮かぶ文字へ目を走らせる。
「……風導院長の権限で発行されてる」
「内容は?」
「あたしとエルシアさんを王都へ移送すること。それから、あなたとミテイを一時拘束して、越境方法と魔力構造を調べること」
『魔力構造を調べる』
ミテイが使者を見つめる。
『私を分解する?』
「させん」
ゼラスは即座に答えた。
ミテイが彼を見る。
『まだ、そうすると決まっていない』
「調べるために拘束する奴らが、お前の都合を優先すると思うか?」
『思わない』
「なら、俺のそばにいろ」
『分かった』
ミテイは一歩だけゼラスへ近づいた。
使者が再び口を開く。
今度はリズナだけを真っすぐに見ていた。
「何だ」
「……あたしに、これ以上ガリオール語を使うなって」
ゼラスの目が細くなる。
「なぜだ」
「風の器へ付与された言語術式は、風導院の管理物だから。許可なく大陸外の者と意思疎通することも、術式の不正利用に当たるそうよ」
一瞬。
誰も言葉を発しなかった。
リズナは自分の喉元へ手を触れる。
先ほど見つかった、言語適応の術式。
風導院は、その存在を知っている。
それどころか、自分たちの所有物だと口にした。
「やっぱり、あいつらが入れたのね」
リズナの声から、温度が消える。
使者がさらに命じる。
リズナの父が何か言い返したが、男は無視した。
「今度は何だ」
ゼラスが尋ねる。
リズナは拳を握った。
「風の器は、風導院の命令に従えって」
「お前はどうしたい」
ゼラスは使者ではなく、リズナを見た。
「命令に従うか?」
「従うわけないでしょう」
返事は早かった。
「なら、そう伝えろ」
「ええ」
リズナは門の外へ向き直る。
高く結んだ赤い髪が、吹き込んだ風に揺れた。
「あたしは、風導院の道具じゃない」
アスタリア語で告げる。
声は大きくない。
それでも、門の前にいる全員へ届いた。
使者の顔から、僅かに表情が消えた。
彼は右手を上げる。
背後の術師たちが同時に魔力を流した。
屋敷の左右へ張られていた風が、一斉に形を変える。
細い流れが幾重にも絡み合い、リズナの身体へ向かって伸びた。
「リズナ!」
父が叫ぶ。
風の拘束が、彼女の手足へ巻きつく。
同時に、リズナの喉元で緑色の術式が浮かび上がった。
「なに、これ……!」
息を呑んだリズナの膝が揺れる。
自分の魔力とは違う力が、身体の内側から動きを止めようとしていた。
言語適応術式の奥。
そこに隠されていた別の命令が、外からの言葉へ反応している。
『リズナの中の形が変わった』
ミテイが告げる。
『言葉の術式が、身体へ命令している』
「翻訳だけじゃなかったか」
ゼラスの声が低くなる。
使者が何かを命じた。
リズナの身体が、自分の意思に反して一歩前へ動く。
「止まれ……!」
歯を食いしばっても、足は止まらない。
次の一歩を踏み出す直前。
ゼラスの手が、リズナの腕を掴んだ。
「ゼラス、触ると――」
「動くな」
「でも、身体が勝手に……!」
「なら、勝手に動かしてる方を止める」
ゼラスは片方の手を、リズナの喉元へ添えた。
黒紫色の魔力が、薄く指先へ集まる。
使者たちの風がゼラスにも巻きつこうとする。
彼はそちらを見もしなかった。
魔力が触れる直前、風の拘束だけが音もなく崩れた。
術師たちが驚きの声を上げる。
ゼラスはリズナの中へ意識を集中していた。
「翻訳術式の下に、命令回路を隠してやがる」
『切れる?』
ミテイが尋ねる。
「切るだけなら簡単だ」
「簡単なの?」
リズナが苦しげに問い返す。
「ああ。だが、言語術式まで壊れる可能性がある」
「今はそんなこと――」
「お前が俺と話せなくなるのは困る」
ゼラスは淡々と言った。
「だから、命令だけを抜く」
リズナの目が僅かに見開かれる。
「できるの?」
「誰に聞いてる」
ゼラスの魔力が、喉元から額へ細く伸びた。
異物として埋め込まれた術式を壊すのではない。
複雑に絡み合った命令だけを選び、接続先を探る。
使者が再び声を張り上げた。
リズナの身体を動かそうと、同じ命令を繰り返している。
「ちょうどいい」
ゼラスの口元が冷たく歪む。
「向こうから道を開いてくれてる」
「何をする気?」
「少し返す」
「少し?」
その問いには答えなかった。
ゼラスの黒紫色の魔力が、リズナの中にある命令回路へ触れる。
そこから、使者の声に混ぜられた魔力を逆に辿った。
門の外。
命令を繰り返していた使者の胸元で、銀色の紋章がひび割れる。
「――っ!?」
男が胸を押さえ、膝をついた。
周囲の術師たちも遅れて苦しげに息を詰まらせる。
彼らがリズナへ流していた命令が、行き場を失って本人たちへ戻っていた。
ゼラスが初めて、使者へ視線を向ける。
「リズナ。訳せ」
「この状況で?」
「聞こえてるなら十分だ」
リズナはまだ喉元を押さえながら、ゼラスの横顔を見る。
「何て?」
「他人の身体に勝手に命令を埋め込むなら――」
ゼラスは跪く使者たちを見下ろした。
「自分が同じ目に遭う覚悟くらいしておけ」
リズナは一言も変えずに訳した。
使者の顔が怒りで歪む。
彼は震える手を上げ、術師たちへ何かを命じようとした。
だが、声が出ない。
ゼラスが命令回路だけでなく、彼の発声へ流れる魔力も一時的に塞いでいた。
「安心しろ。壊してはいない」
リズナが訳す。
「二度と命令を使わないなら、しばらくすれば戻る」
使者はゼラスを睨みつける。
ゼラスは退かない。
「それから、もう一つだ」
「まだあるの?」
「ああ」
ゼラスはリズナの喉元から手を離した。
同時に、彼女を内側から縛っていた力が消える。
リズナは自分の足で立ち、喉へ触れた。
「……話せる」
「命令回路だけ外した。翻訳は残ってる」
『異物の形が一つ減った』
ミテイも確認する。
『リズナの意思と違う動きは、もうない』
リズナはゆっくり息を吐いた。
それから、門の外にいる使者へ向き直る。
もう身体は動かされない。
言葉も奪われていない。
自分の意思で、ガリオール語を選べる。
「最後は、あたしが言うわ」
リズナはアスタリア語で、使者へ告げた。
風導院には行く。
ただし、命令に従うためではない。
自分の身体へ何を埋め込んだのか。
誰が自分をガリオールへ送り、何のために帰還させたのか。
すべて説明させるために行く、と。
父が驚いた顔で娘を見る。
使者もまた、声を失ったままリズナを睨んでいた。
「何と言った」
ゼラスが尋ねる。
「風導院へ行くって」
「連行される気か?」
「まさか」
リズナは口元を上げる。
「あたしたちから乗り込むのよ」
ゼラスは数秒、彼女の顔を見た。
「そうか」
「止めないの?」
「止める理由がない」
「危険かもしれないわよ」
「知ってる」
「大陸中の風術師を管理してる組織よ?」
「だから何だ」
ゼラスは当然のように答えた。
「お前が行くなら、俺も行く」
リズナの笑みが、少しだけ柔らかくなる。
『私も行く』
ミテイが二人の隣へ並んだ。
『私の構造も調べると言った。私も理由を聞く』
「決まりね」
リズナは門の外を見る。
風導院の使者たちは、もはや彼女を連行する側には見えなかった。
ゼラスが一歩前へ出る。
「リズナ」
「何?」
「最後にもう一度だけ訳せ」
「今度は何て?」
「王都まで案内しろ」
ゼラスの黒紫色の瞳が、静かに使者を射抜く。
「自分たちの足でな」




