第百十話 知らないはずの言葉
朝日が窓から差し込み、寝台の端を照らしていた。
リズナは薄く目を開ける。
すぐ隣には、成人姿のゼラスが横になっていた。
彼の腕は昨夜から変わらず、リズナの身体へ回されている。
「……本当にいた」
「起きたか」
「いつから起きてたの?」
「少し前だ」
ゼラスは約束どおり、どこにも行っていなかった。
リズナは安堵したように息を吐き、身体を起こそうとする。
だが、腰を浮かせたところで眉を寄せた。
「……っ」
「急に動くな」
「誰のせいよ」
「続けると言ったのはお前だろ」
「だからって、限度があるでしょう?」
「加減はした」
迷いのない返事だった。
リズナは信じられないものを見るように彼を見つめる。
「あれで?」
「ああ」
「……聞かなかったことにしたいわ」
枕へ顔を埋めたリズナの背を、ゼラスが軽く撫でる。
「今日は移動を遅らせるか?」
「父さんたちを待たせてるのよ。それに、迎えへ飛び出したまま戻らなかったら心配するわ」
「なら、風車を使え」
「そのつもり」
ゼラスが寝台を離れる。
成人した背中を見送りながら、リズナは布を胸元まで引き上げた。
昨夜のことを思い出すたび、顔へ熱が集まる。
ゼラスは卓から水差しを取り、杯を差し出した。
「飲め」
「ありがと」
水を飲み終えると、ゼラスの身体を淡い魔力が包んだ。
広かった肩が縮まり、背が低くなる。
一瞬後には、いつもの少年姿へ戻っていた。
リズナは杯を持ったまま、じっと彼を見る。
「何だ」
「昨夜との落差がすごいのよ」
「どちらも俺だ」
「分かってるけど……気持ちが追いつかないわ」
ゼラスは寝台の脇へ落ちていた衣服を拾い、リズナへ渡した。
「着替えられるか?」
「それくらいできるわよ」
起き上がったリズナの動きが、再び止まる。
ゼラスは何も言わず、彼女の腰へ手を添えた。
「……できるって言ったでしょう?」
「倒れられる方が面倒だ」
「そういう言い方しかできないの?」
「支えなくていいなら離す」
リズナは少し考えてから、彼の肩へ手を置いた。
「今は、このままでいいわ」
「ああ」
着替えを終えると、リズナは乱れた赤い髪を高い位置で結び直した。
鏡の前で髪の形を整え、振り返る。
「変じゃない?」
ゼラスは揺れる髪の先を見た。
「かなり良い」
「やっぱり、本当に好きなのね」
「ああ」
隠そうともしない返事に、リズナの頬が緩む。
「今日は随分と素直じゃない」
「今さら誤魔化す意味がない」
扉が二度叩かれた。
『ゼラス』
ミテイの声だった。
「起きてる」
扉を開けると、ミテイが廊下に立っていた。
『おはよう』
「おはよう、ミテイ」
リズナが一歩踏み出す。
ミテイの視線が、その足元へ落ちた。
『歩幅が、昨日より短い』
リズナの肩が僅かに跳ねる。
「昨日、飛びすぎたのよ」
ミテイはリズナの顔を見た後、ゼラスを見る。
『そういうことにしておく?』
「……そういうことにしておいて」
『分かった』
それ以上は尋ねなかった。
自分で踏み込まないことも、少しずつ覚えている。
ゼラスはわずかに口元を緩めた。
「あんた、今笑ったでしょう?」
「笑ってない」
『少し笑った』
「ほら」
「朝から元気だな」
「身体は元気じゃないのよ!」
廊下へリズナの声が響いた。
セトラの守備隊が用意した高速風車は、昼前に街を出た。
大きな帆が風を受け、細長い車体を石畳の上で走らせる。
乾いた草原が、窓の外を流れていった。
御者が振り返り、アスタリア語でリズナへ何かを尋ねる。
リズナも同じ言葉で答えた。
それからゼラスたちへ顔を向ける。
「この先の風脈が少し乱れているから、遠回りするそうよ」
「到着はどれくらい遅れる」
「一刻も変わらないって」
『リズナ』
ミテイが彼女を見る。
『今の言葉は、ガリオール語ではない』
「ええ。アスタリア語よ」
『二つとも、同じように話せる?』
「そうね。どちらも普通に――」
リズナの言葉が止まった。
窓の外を見ていたゼラスが、彼女へ視線を向ける。
「どうした」
「……待って」
リズナはゆっくりと自分の口元へ手を当てた。
「どうして、あたしはガリオール語を話せるの?」
「何だと?」
「習った覚えがないのよ」
ガリオールへ転移した直後。
ゼラスたちと出会った時から、彼らの言葉を自然に理解できた。
自分が声を出せば、相手にも通じた。
あまりにも違和感がなかったため、疑問を抱いたことさえない。
「ずっと、普通のことだと思ってた」
リズナは困惑した顔で続ける。
「でも、父さんたちはガリオール語を知らない。あたしだって、向こうへ行く前は知らなかったはずなのに……」
『エルシアは、施設の記録から覚えた』
ミテイが言った。
『でも、リズナは学んでいない』
「ええ」
リズナはガリオール語で話している自分の声を確かめるように、ゆっくりと言葉を続けた。
「意味も分かるし、普通に話せる。でも文法を説明しろって言われても……何も分からない」
「考えて話してる感覚は?」
ゼラスが尋ねる。
「ないわ。言いたいことが、そのまま言葉になる感じ」
『話す時、魔力が少し動いている』
ミテイの視線が、リズナの喉元から額へ移る。
『アスタリア語の時とは違う』
リズナの表情が固まった。
「何か入ってるの?」
「ここでは詳しく調べられん」
ゼラスが周囲へ目を向ける。
御者との間には仕切りがあるが、移動中の車内だ。
「屋敷へ着いてから見る」
「……分かった」
リズナは自分の胸元へ手を置いた。
知らない術式が、転移してからずっと自分の中にあったかもしれない。
そう考えると、今まで自然だった言葉が、急に不気味なものへ感じられた。
夕刻。
風車は白い石壁に囲まれた屋敷へ到着した。
門の前では、一人の男が待っていた。
リズナの父だった。
扉が開くと同時に、リズナが風車から降りる。
「父さん!」
父も娘の名を呼び、駆け寄った。
二人が交わす言葉を、ゼラスは理解できない。
声の調子と表情から、心配されていたことだけは分かった。
父はリズナの肩や腕を確かめ、怪我がないと分かると、ようやく息を吐いた。
その視線が、風車から降りたゼラスとミテイへ向く。
父がアスタリア語で問いかけた。
ゼラスは答えず、リズナを見る。
彼女もそこで、はっきりと現実を理解した。
「あ……そっか。ゼラスには分からないのよね」
「一言も分からん」
「今まで、普通に話せてたから……」
リズナは父へアスタリア語で説明する。
父は驚いた顔でゼラスを見た後、娘へ長く何かを告げた。
リズナがガリオール語へ訳す。
「父さんが、あなたがゼラスなのかって」
「そうだ」
リズナが答えを父へ伝える。
父はゼラスの前まで進み、深く頭を下げた。
再び、アスタリア語で話す。
「リズナとエルシアさんを帰してくれたことに、心から感謝するって」
「二人が帰ると決めた。俺は道を開いただけだ」
リズナはその言葉も父へ訳した。
父は首を横へ振り、さらに何かを言う。
「その道を開ける者が、他にいなかった。あなたがいなければ、二人は帰れなかっただろうって」
ゼラスは僅かに目を細めた。
「無事に着いたなら、それでいい」
リズナが訳す。
父は頷いた後、今度はゼラスがなぜアスタリアへ来たのかを尋ねた。
「父さんが、何のために大陸を越えてきたのかって」
「リズナに会いに来た」
リズナの頬が赤くなる。
父は返事を待っている。
「……そのまま訳すのか?」
「お前が通訳だろ」
「そうだけど」
リズナは小さく息を吸い、父へ訳した。
父が娘とゼラスを交互に見る。
その視線に耐えられず、リズナが顔を背けた。
「父さん、今は余計なこと聞かないで」
アスタリア語で早口に告げる。
ゼラスには内容が分からなかったが、父が何かを察したらしいことだけは分かった。
屋敷の扉が開く。
中から、若返ったエルシアが姿を現した。
「ゼラスさん。ミテイさん」
彼女はガリオール語で、はっきりと二人の名を呼んだ。
歩き方にはまだ慎重さが残っている。
それでも杖は使わず、自分の足で立っていた。
「本当に来てくださったのですね」
「ああ。身体はどうだ」
「少しずつ慣れてきました。歩幅も、力の入れ方も、以前とはまるで違いますから」
「無理はするな」
「はい」
ミテイがエルシアの全身を見つめる。
『骨と筋肉は安定している。魔力の流れも問題ない』
「ありがとうございます」
リズナの父は、エルシアとゼラスが会話する様子を不思議そうに見ていた。
リズナがアスタリア語で事情を説明する。
エルシアも父へ向き直り、アスタリア語で話した。
それを聞いたゼラスが尋ねる。
「エルシア。お前は、ガリオール語を施設で覚えたんだったな」
「はい。案内表示や記録を読み、長い時間をかけて覚えました」
「リズナとは違う」
「違う?」
リズナが、自分には学んだ記憶がないことを説明する。
エルシアは目を見開いた。
「転移した時から、すでに話せたのですか?」
「そうみたい。今になって気づいたの」
「私は、そのような処置を受けていません」
「風の器だけに施された可能性があるな」
ゼラスが言う。
「でも、何のために?」
「別大陸へ送った後も行動させるためだろう」
ゼラスの声が低くなる。
「言葉が通じなければ、現地で情報も集められん」
リズナの表情から、先ほどまでの赤みが消えた。
「あたしを転移させた連中が、勝手に入れたってこと?」
「まだ断定はできん。調べるぞ」
「ええ」
ゼラスはリズナの前へ立った。
「額と喉へ触れる」
「分かったわ」
リズナが目を閉じる。
ゼラスは片方の手を額へ、もう片方を喉元へ添えた。
魔力を流し込むのではなく、彼女の中を巡る魔力の動きを薄くなぞる。
ミテイも隣から灰色の魔力を伸ばした。
しばらくして、ミテイが告げる。
『リズナの魔力ではない形がある』
「どこ?」
『言葉を聞く時と、話す時にだけ動く』
ゼラスも異質な術式を捉えていた。
リズナ自身の魔力回路へ馴染み、外から見ただけでは分からないほど深く組み込まれている。
「翻訳術式に近い」
「外せる?」
「今すぐ外すのは危険だ」
ゼラスは手を離した。
「ただ言葉を覚えさせてるわけじゃない。聞いた音を意味へ変えて、伝えたい意味をガリオール語へ組み直してる」
『言語適応』
ミテイが短く表現する。
「ああ。転移の時に組み込まれた可能性が高い」
リズナは自分の喉へ触れた。
「ずっと、あたしの中にあったのね」
「少なくとも、俺たちと会った時にはあった」
「全然気づかなかった」
あまりにも自然だった。
自分の意思で話しているつもりだった。
実際、伝えたい内容はリズナ自身のものだ。
けれど、その言葉を形にしていた一部は、誰かが勝手に埋め込んだ術式だった。
「……気分が悪いわ」
リズナが呟く。
ゼラスは否定しなかった。
「外す方法は調べる」
「でも、外したらあんたと話せなくなるかもしれない」
「別の翻訳術式を用意するか、お前が覚えればいい」
「簡単に言うわね」
「お前なら覚えられる」
リズナはゼラスを見る。
その答えに迷いはなかった。
「それまでは、勝手に触るな」
「術式に?」
「自分の中に入ってるからって、自分だけで無理に剥がすなという意味だ」
「分かってるわよ」
少し不満そうに答えながらも、リズナの表情は先ほどより和らいでいた。
その時。
屋敷の外から、複数の騎獣が近づく音がした。
使用人が慌てて玄関へ駆け込んでくる。
彼はアスタリア語で父へ報告した。
父の表情が険しくなる。
「何て言ってる」
ゼラスが尋ねる。
リズナは門の方角を見ながら訳した。
「風導院から使者が来たって」
「風導院?」
「アスタリアの風脈と風術師を管理してる組織よ」
「お前を風の器と呼んでる連中か」
「ええ」
父と使用人がさらに言葉を交わす。
リズナの顔から、完全に笑みが消えた。
「王都への出頭命令が出てる。あたしとエルシアさんに」
「命令に従う義務は?」
「向こうは、あると思ってるでしょうね」
門の外で、風導院の紋章を掲げた一団が騎獣を降りた。
先頭の男が屋敷へ向かい、よく通る声で何かを告げる。
ゼラスには一言も理解できない。
だが、命令する側の口調であることは分かった。
「何と言った」
リズナの手が、静かに握られる。
「大陸外から侵入した術師ゼラスと、正体不明の同行者ミテイを――」
一度言葉を切り、彼女は最後まで訳した。
「風導院の管理下へ置く。抵抗するなら、強制的に連行するって」
ゼラスは門の向こうに立つ使者を見た。
「リズナ」
「何?」
「通訳しろ」
「何て言うの?」
ゼラスの口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「断る、と」




