第百九話 約束の続き
日が沈む頃。
ゼラスたちは、セトラの守備隊が用意した宿へ案内された。
一階の食堂では、リズナが通訳をしながら事情を説明している。
「二人が草原に突然現れたから、最初は密入国者だと思われたみたい」
「間違ってはいないな」
「堂々と言わないでよ」
「正式な入口を通ってないのは事実だろ」
「大陸を越えて直接来る人なんて、普通は想定してないの」
リズナは呆れたように言いながらも、どこか楽しそうだった。
ゼラスとミテイが目の前にいる。
その事実を確かめるように、何度も二人へ視線を向けている。
食事を終えると、守備隊から三つの部屋が渡された。
ミテイは鍵を受け取り、自分の部屋の扉を開ける。
『一人で寝る』
「何かあれば隣を叩け」
『分かった』
ミテイは一度、リズナを見た。
『リズナは帰らない?』
「今夜はここに泊まるわ」
『部屋は三つある』
「そうね」
『でも、リズナはゼラスの部屋を見る回数が多い』
リズナの頬が赤くなる。
「よく見てるわね……」
『前より私になったから』
「その成長、今だけ少し困るわ」
ゼラスが自分の部屋の鍵を持ち上げる。
「俺は先に休む」
「あ、待ちなさいよ」
「何だ」
「あとで行くから」
リズナはミテイの前だからか、それ以上は言わなかった。
だが、視線だけで何を意味しているのかは十分に伝わった。
ゼラスは僅かに目を細める。
「ああ」
短く答え、部屋へ入った。
夜が深くなる。
窓の外では、風を受けた大きな帆がゆっくりと回っていた。
ゼラスは椅子へ腰掛け、守備隊から借りた地図を広げている。
セトラからリズナの父がいる街までは、風車を使っても数日。
その先には大きな都市と、いくつかの領地が記されていた。
扉が三度、控えめに叩かれる。
「入れ」
扉を開けたのは、髪を下ろしたリズナだった。
高く結んでいた赤い髪が肩から背へ流れている。
普段とは違う姿に、ゼラスの視線が僅かに止まった。
「何よ」
「いや」
「今、見てたでしょう?」
「見たら悪いのか」
予想外の返事に、今度はリズナが言葉を失う。
ゼラスは地図を畳み、卓の端へ置いた。
「話があるんじゃないのか」
「ええ」
リズナは扉を閉めた。
鍵へ手を伸ばし、一瞬だけ迷う。
それから自分で施錠した。
小さな音が、静かな部屋へ響く。
「父さんのところへ戻った後の話は、明日でいいわ」
「ああ」
「エルシアさんも無事よ。身体にはまだ慣れてないけど、少しずつ歩けるようになってる」
「そうか」
「それから――」
リズナはゼラスの前へ立つ。
「別れ際の約束、覚えてる?」
「忘れるほど前の話じゃない」
「続きは、また会えた時」
「ああ」
「会えたわね」
ゼラスは椅子から立ち上がった。
少年姿の彼を、リズナが見下ろす。
「そのまま?」
「この姿がいいならな」
「意地悪ね」
リズナは少し屈み、彼の耳元へ顔を寄せた。
「今日は、大人のあんたに会いに来たの」
ゼラスの身体を淡い魔力が包む。
背が伸び、肩幅が広がる。
幼さを残していた輪郭が、落ち着いた大人のものへ変わった。
一瞬後。
リズナが見上げる側になっていた。
低くなった声が落ちる。
「これでいいか」
「……やっぱり、ずるいわ」
「またそれか」
「分かっててやってるでしょう?」
「お前が望んだ」
ゼラスが一歩近づく。
今度は、リズナが僅かに後ろへ下がった。
背中が扉へ触れる。
先ほどまで余裕を見せていた彼女の頬が、急に赤くなった。
「逃げるのか?」
「逃げてないわよ」
「なら、こっちを見ろ」
リズナが顔を上げる。
ゼラスは彼女の頬へ手を添えた。
別れ際とは違う。
転移の光も、残り時間を告げる声もない。
彼は急がず、リズナが目を閉じるのを待ってから唇を重ねた。
短く触れ、一度離れる。
リズナが目を開いた。
「……それだけ?」
「続きを望んでる顔だな」
「誰のせいよ」
今度はリズナの腕が、ゼラスの首へ回る。
引き寄せられるより早く、ゼラスから唇を重ねた。
先ほどより深く、長い口づけ。
リズナの背が扉へ預けられる。
ゼラスの腕が腰へ回り、身体同士の距離がなくなった。
息を継ぐために唇が離れる。
リズナは赤くなった顔で、彼を睨むように見上げた。
「慣れてるのね」
「今さらだろ」
「分かってたけど、実際にされると腹が立つわ」
「やめるか?」
リズナは答える代わりに、ゼラスの外套を掴んだ。
「やめたら、もっと腹が立つ」
「面倒な奴だな」
「それでも会いに来たんでしょう?」
「ああ」
迷いのない返事だった。
ゼラスはリズナを抱き上げる。
突然足が床から離れ、彼女が小さく息を呑んだ。
「ちょっと、自分で歩けるわよ」
「知ってる」
「なら下ろしなさい」
「嫌そうには見えん」
リズナは反論しかけ、ゼラスの首へ回した腕へ力を込めた。
「……今だけよ」
「ああ」
寝台へ下ろされる。
ゼラスはすぐに覆いかぶさらず、横へ腰を下ろした。
指先で、リズナの赤い髪を一房すくう。
「帰ってから、ちゃんと眠ってたか?」
「今それを聞くの?」
「顔に疲れが残ってる」
「色々あったのよ」
「無理をしたな」
「あんたに言われたくないわ」
リズナは彼の手を取り、自分の頬へ押し当てた。
「でも、今はそんな話をしに来たんじゃないの」
ゼラスの手に、彼女の体温が伝わる。
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
ゼラスは彼女の上へ身体を重ねた。
今度の口づけは、問いに答えるには十分だった。
触れ方には迷いがなかった。
けれど、急ぐこともない。
リズナの呼吸が変われば、ゼラスの指も動きを変える。
身体が僅かに強張った時には、何も聞かずに力を緩めた。
そのたびにリズナは、自分から彼の背へ腕を回す。
離れないでほしいと伝えるように。
「……あんた、ずるいわ」
途切れがちな声が漏れる。
「さっきからそればかりだな」
「だって……余裕そうな顔してる」
「余裕がない方がいいのか?」
「そういう意味じゃ……」
言葉の途中で、リズナの呼吸が止まる。
ゼラスは彼女の表情を見た。
頬は赤く、目元には薄く涙が滲んでいる。
それでも逃げる様子はない。
むしろ、彼の肩を掴む指へ力が込められた。
「ゼラス」
「ああ」
「もっと、こっちに来て」
その言葉を聞いてから、ゼラスは残っていた距離をなくした。
衣服が寝台の脇へ落ちていく。
直接触れた体温に、リズナの身体が震えた。
ゼラスはその震えを抱き留める。
首筋へ唇を落とすと、リズナが息を押し殺した。
「声を我慢するな」
「隣にミテイがいるのよ……」
「防音は張った」
「いつの間に?」
「お前が鍵を掛けた時だ」
リズナが目を見開く。
「最初から、そのつもりだったの?」
「お前がそのつもりで来たからな」
「ほんと、何でも分かってるみたいに……」
「何でもは分からん」
ゼラスは彼女の頬を撫でた。
「お前が俺を求めてることは分かる」
リズナはしばらく彼を見つめた。
やがて観念したように、腕を首へ回す。
「だったら、もう遠慮しないで」
「ああ」
重なった唇の間から、リズナの声が漏れた。
ゼラスは、彼女がどこへ触れられれば力を抜くのか。
どんな速さなら呼吸が深くなるのか。
言葉にされるより早く読み取っていった。
リズナは最初こそ悔しそうに睨んでいたが、やがてそんな余裕も失っていく。
ゼラスの名を呼び、背へしがみつく。
何度も押し寄せる感覚に、赤い髪が寝台の上で乱れた。
それでもゼラスの呼吸には、まだ余裕が残っていた。
一度身体の力が抜けたリズナが、信じられないものを見るように彼を見上げる。
「……まだ平気なの?」
「ああ」
「嘘でしょう?」
「嘘をつく理由がない」
「少しくらい疲れなさいよ……」
「無茶を言うな」
ゼラスは乱れた髪を、彼女の頬から払った。
「もう休むか?」
リズナは息を整えながら、彼の胸元へ額をつける。
しばらく答えなかった。
やがて顔を上げ、悔しそうに唇を尖らせる。
「……少しだけ休む」
「ああ」
「それから、続き」
「分かった」
「今、笑った?」
「気のせいだ」
「絶対に笑ったわ」
抗議する唇を、ゼラスがもう一度塞ぐ。
リズナはすぐに彼の首へ腕を回した。
夜は長く続いた。
触れ合い、離れ、また互いを求める。
ゼラスは最後までリズナの反応を見失わなかった。
リズナも途中からは、恥じらいながら自分の望みを隠さなくなった。
別れ際には一瞬しか触れられなかった温もりを、取り戻すように。
二人は何度も身体を重ねた。
夜明け前。
リズナはゼラスの腕を枕にして眠っていた。
赤い髪が、彼の胸元へ広がっている。
ゼラスは眠る彼女の頬へ触れた。
帰還の光へ呑み込まれた時には、伸ばした手が届かなかった。
今は、確かにここにいる。
リズナが薄く目を開ける。
「……起きてたの?」
「ああ」
「本当に元気ね……」
「先に寝ていいぞ」
「言われなくても寝るわよ」
リズナは彼の胸へ顔を寄せた。
「でも、起きた時にいなくなってたら怒るから」
「どこにも行かん」
「約束?」
「ああ」
今度は、迷わず約束した。
リズナは安心したように目を閉じる。
その腕は、眠りに落ちるまでゼラスの身体を離さなかった。




