第百八話 迎えに来た風
セトラの守備詰所へ案内されてから、二時間ほどが過ぎていた。
ゼラスは壁に掛けられた地図を眺めている。
現在地らしい印。
北東へ伸びる街道。
その先には、いくつもの街と山脈が描かれていた。
「リズナのいる場所までは、かなりありそうだな」
『でも、報せは届いた』
「ああ」
ゼラスは地図から目を離し、窓の外を見る。
伝言を受け取った者がリズナ本人へ届けてくれるとは限らない。
同名の別人だと思われる可能性もある。
そもそも、帰還したリズナが今どこにいるのかさえ分からない。
そう理解していながら、先ほどから何度も窓へ視線を向けていた。
『また見た』
「何をだ」
『外』
「誰か来れば音で分かる」
『なら、見なくても分かる』
ゼラスがミテイを見る。
『待っている?』
「連絡を待ってるだけだ」
『リズナを?』
「……そうだ」
ミテイはそれ以上追及せず、聞こえてくる会話を帳面へ書き留めた。
詰所の外では、守備兵たちが忙しく行き来している。
彼らの言葉はまだ理解できない。
それでもミテイは、同じ音と状況を結びつけながら、一つずつ意味を推測していた。
扉が開く。
先ほどの騎兵が、木の盆を持って入ってきた。
パンと干し肉。
香草の浮いたスープ。
男は二人を指し、食事をする仕草を見せる。
「食え、か」
『たぶん』
ゼラスは男へ軽く頭を下げた。
「助かる」
言葉は通じなくても、礼だとは伝わったらしい。
男は笑みを返し、盆を卓へ置く。
そして窓の外を指した。
風を示すように手を動かし、誰かが走る仕草をする。
最後に、何度もリズナの名を口にした。
『リズナが来る?』
「そう見えるな」
ゼラスが確認するように男を見る。
「リズナ?」
男は大きく頷いた。
続けて、かなり速いという意味らしく、両手を前へ走らせる。
「本人が来るのか」
『ゼラスは嬉しい?』
「まだ決まったわけじゃない」
『口元が少し上がった』
「上がってない」
『上がった』
男は二人の会話を理解できないまま、なぜか楽しそうに笑っていた。
食事を終えた頃。
街を巡っていた風の流れが変わった。
窓の外で回っていた白い帆が、同時に大きく傾く。
通りを歩いていた者たちも足を止め、南西の空を見上げた。
ゼラスが椅子から立ち上がる。
「来たな」
『リズナ?』
「ああ」
まだ姿は見えない。
だが、風の中に混じる魔力は間違えようがなかった。
鋭く、軽やかで。
まっすぐ進んでいるようで、時折楽しげに向きを変える。
ゼラスが何度も隣で感じてきた風だった。
詰所の外が騒がしくなる。
守備兵たちが広場へ出ていき、空を指さして声を上げた。
ゼラスとミテイも建物を出る。
街の南西。
青い空の中に、小さな影が見えた。
影は風をまとい、地面すれすれまで高度を下げてくる。
赤い髪が陽光を受けて揺れた。
「……本当に飛んできたのか」
通常の移動手段を待つ気など、最初からなかったらしい。
リズナは街を囲む石壁を越え、そのまま広場へ降り立った。
着地と同時に風が広がる。
砂埃が舞い、周囲の者たちが顔を覆った。
高く結んだ赤い髪が、遅れて背中へ落ちる。
「ゼラス!」
リズナは迷わず走り出した。
ゼラスも一歩前へ出る。
言葉を交わすより早く、リズナが彼の身体を抱き締めた。
少年姿のゼラスの頭が、彼女の肩口へ押しつけられる。
あまりの勢いに、ゼラスの足が半歩だけ後ろへ滑った。
「おい」
「本物よね?」
「ああ」
「幻じゃない?」
「触って分からないのか」
「だって、こんなに早く来るとは思わなかったのよ」
抱く腕の力が、さらに強くなる。
ゼラスは少し困った顔をしながらも、振りほどかなかった。
むしろ数拍遅れて、リズナの背へ腕を回す。
高く結んだ髪の先が、彼の頬へ触れた。
「来ると言っただろ」
「方法を見つけたら、って言ったじゃない」
「見つけた」
「簡単に言わないでよ。大陸を越えてきたのよ?」
「簡単ではなかった」
「だったら、もう少し大変そうな顔をしなさい」
「無事に着いた後まで大変そうにしてどうする」
リズナは彼を抱いたまま、笑った。
けれど、その声には僅かに涙が混じっている。
「……本当に来たのね」
「ああ」
「会いたかった?」
ゼラスはすぐには答えなかった。
以前なら、曖昧に流していたかもしれない。
だが、ここまで来た理由を、もう誤魔化すつもりはなかった。
「会いたかった」
リズナの身体が止まる。
腕の力が僅かに緩み、ゆっくりと顔を離した。
「今、何て言ったの?」
「一度で聞け」
「聞こえたけど、もう一回」
「断る」
「そこは言いなさいよ」
頬を赤くしながらも、リズナは嬉しそうに笑っていた。
ゼラスはその顔を見上げる。
帰還する直前より、少し疲れている。
目の下には薄く影があり、身につけた服にも旅や訓練の跡が残っている。
ただ父親のもとへ帰り、穏やかに暮らしていたわけではないらしい。
「お前こそ、無事だったか」
「ええ。色々あったけど、ちゃんと元気よ」
「色々、で済ませる顔じゃないな」
リズナが目を瞬いた。
「会ってすぐ分かるの?」
「何日一緒にいたと思ってる」
ゼラスは以前リュミエラへ言ったのと同じ言葉を口にした。
「話は後で全部聞く」
「全部?」
「言いたくないことまで吐けとは言わん。だが、風の器を利用しようとした連中については聞く」
「相変わらずね」
「何がだ」
「会いに来たって言いながら、すぐ面倒事に首を突っ込むところ」
「別件じゃない」
ゼラスは真っすぐにリズナを見る。
「お前の問題なら、俺が来た理由の中に入ってる」
リズナの頬が、さらに赤くなった。
「今日のあんた、どうしたの?」
「何がだ」
「すごく分かりやすい」
「離れてる間に、曖昧に言っても伝わらんと分かった」
リズナは一瞬だけ黙り、それから柔らかく笑った。
「そっか」
短い返事だった。
それだけで、十分伝わったらしい。
『リズナ』
声に振り返る。
ミテイが少し離れた場所に立っていた。
リズナはゼラスから手を離し、今度はミテイの前へ走る。
「ミテイ!」
『また会えた』
「ええ。約束したものね」
リズナは途中で一度動きを止めた。
そして、両腕を少し広げる。
「抱き締めてもいい?」
『いい』
許可を得た瞬間、リズナはミテイを抱き締めた。
ミテイは最初、腕を下ろしたままだった。
やがてリズナの動きをまねるように、ゆっくりと背へ腕を回す。
『私は、前より私になった』
「うん」
『自分でアスタリアへ来ると決めた』
「うん」
『ゼラスが無理をしないように、見ていた』
「それは助かるわ」
「おい」
ゼラスが横から口を挟む。
ミテイはリズナの肩越しに彼を見た。
『でも、無理はした』
「やっぱり」
「大陸間転移で一切無理をするなという方が無理だ」
『食事も忘れた』
「忘れてない。後回しにしただけだ」
「同じようなものでしょう?」
再会して間もないのに、二人から同時に責められている。
ゼラスは面倒そうに顔を背けた。
「元気そうで安心した」
『ゼラスが逃げた』
「逃げてない」
リズナが笑う。
その笑い声を聞き、広場を囲んでいた者たちの緊張も少しずつ解けていった。
先ほどの騎兵が近づき、リズナへ話しかける。
リズナは何度か頷いた後、彼らへ深く頭を下げた。
「二人を保護してくれて、ありがとうございます」
男たちは笑顔で答え、ゼラスとミテイへも軽く頭を下げる。
ゼラスも同じように返した。
「何と言ってた?」
「草原で見つけた時、言葉が通じなくて困ったそうよ」
「敵だと思われても仕方なかったな」
「でも、あたしの名前を出したから連れてきてくれたって」
「便利な名前だった」
「もう少し言い方があるでしょう?」
リズナは守備兵たちと少し話し、街の北側を指した。
「今日はここで休みましょう。父さんのところへ戻るには、ここからでも少し距離があるの」
「お前は飛んできただろ」
「あれをもう一度やるには、少し休まないと無理よ」
「なら歩くか?」
「何日かかると思ってるのよ」
「飛ぶだけなら、俺が運べる」
リズナの目が細くなる。
「あたしとミテイを二人とも?」
「余裕だ」
「へえ」
その返事に、妙な含みがあった。
ゼラスが眉を寄せる。
「何だ」
「別に」
リズナは少し屈み、彼の顔を覗き込んだ。
「ただ、大人の姿なら運ばれやすそうだと思って」
ゼラスの表情が止まる。
別れ際の光景が、鮮明に蘇った。
成人した姿。
外套を掴んだ指。
触れた唇。
そして、すぐに消えた温もり。
リズナも同じものを思い出しているらしい。
頬を赤くしながら、悪戯っぽく笑っている。
「続きは、また会えた時だったわよね?」
「……会ったばかりだろ」
「だから言ってるの」
「街の真ん中だぞ」
「あら。どこならいいの?」
ゼラスは答えなかった。
否定もしない彼を見て、リズナの笑みが深くなる。
『続きとは何?』
ミテイが尋ねる。
「後で教えるわ」
「教えるな」
『ゼラスが困っている』
「照れてるのよ」
「違う」
久しぶりに聞く二人のやり取りへ、ミテイは静かに目を向けた。
『前と同じ』
「何がだ」
『ゼラスの隣に、リズナがいる』
ゼラスとリズナは、ほとんど同時に言葉を止めた。
乾いた風が広場を通り抜ける。
リズナの赤い髪が揺れ、その先がゼラスの肩へ触れた。
彼はもう、その風から目を逸らさなかった。
「ああ」
短く答える。
「やっと戻ったな」




