第百七話 風に乗る報せ
乾いた風が、草原を波のように揺らしていた。
ゼラスはしばらく周囲の魔力を探った後、地面から手を離した。
「転移の痕跡はここで切れてる」
『戻る道は?』
「今はない」
ミテイは二人の背後を振り返った。
そこには門も光もなく、踏み荒らされた草が残っているだけだ。
『怖い?』
「まったく怖くないと言えば嘘になるな」
ミテイがゼラスを見る。
率直な返事が意外だったらしい。
ゼラスは立ち上がり、衣服についた土を払った。
「だが、来ると決めて来た。今さら騒いでも仕方ない」
『私も、来ると決めた』
「ああ」
『だから、騒がない』
「騒ぐお前は想像できん」
ミテイは少し考えた。
『では、静かに困る』
「それも今は必要ない」
ゼラスは草原の向こうへ目を向けた。
日差しは強い。
見渡す限り、乾いた草と低い丘が続いている。
人家も街道も見えなかった。
だが、風の流れには僅かな乱れがある。
自然に生じたものではない。
一定の間隔で同じ方向へ流れ、遠くで何かに遮られている。
「北東だな」
『リズナがいる?』
「そこまでは分からん。だが、人がいる可能性は高い」
『なぜ?』
「風が整えられてる」
草原を吹く風の一部に、魔力が混ざっている。
荷を運ぶためか。
畑へ風を送るためか。
用途までは分からないが、誰かが継続して制御している痕跡だった。
ゼラスは収納魔法から水筒を取り出し、ミテイへ渡す。
「歩くぞ」
『どれくらい?』
「見つかるまでだ」
『分かりにくい』
「俺にも距離が分からん」
ミテイは水を飲み、水筒を返した。
『では、見つかるまで歩く』
「ああ」
二人は風の流れを追い、草原を進み始めた。
しばらく歩くと、ミテイが足を止めた。
『下に石がある』
「道か?」
『たぶん』
ミテイがしゃがみ、草へ手を触れる。
灰色の魔力が地面へ染み込んだ。
『細長く続いている。石が並べられている』
ゼラスが足元の草を払う。
土の下から、平らに削られた石が現れた。
長い年月で埋もれているが、確かに人の手で造られた道だった。
「風の向きと同じだな」
二人は草に隠れた石畳に沿って進む。
やがて丘を越えたところで、遠くに白い布が見えた。
大きな帆のような布が、風を受けて膨らんでいる。
その下を、荷車が走っていた。
馬も獣も繋がれていない。
車体に立てられた帆が風を受け、石畳の上を進んでいる。
『車が、風で動いている』
「リズナの故郷らしいな」
ゼラスが僅かに口元を緩めた。
その時。
後方から、硬い足音が近づいてきた。
振り返ると、四頭の騎獣が丘を下りてくる。
馬に似ているが、脚は太く、額には短い角が生えていた。
乗っている者たちは薄い鎧を身につけ、腰に曲刀を下げている。
先頭の男が片手を上げた。
聞き慣れない言葉が飛んでくる。
ゼラスとミテイは足を止めた。
『何と言った?』
「分からん」
『ゼラスも?』
「俺は八百年生きてるだけで、すべての言葉を知ってるわけじゃない」
騎乗した男が、もう一度何かを言う。
今度はゼラスとミテイを交互に指し、それから地面を指した。
「動くな、辺りか」
『同じ音が二回あった』
「覚えておけ」
『覚えた』
残りの三人が左右へ散る。
武器を抜いてはいないが、警戒しているのは明らかだった。
ゼラスは両手を見える位置へ下ろしたまま、ゆっくりと口を開く。
「俺たちは敵じゃない」
当然、通じない。
男たちは顔を見合わせた。
ゼラスは続ける。
「リズナを探している」
その名前を聞いた瞬間。
四人の表情が変わった。
「……リズナ」
先頭の男が、はっきりと名前を繰り返す。
ゼラスは頷いた。
「そうだ。リズナ」
男は仲間へ何かを告げた。
今度は全員がゼラスを見ている。
敵意よりも、驚きの方が強い。
一人が慌てて腰の筒を取り出した。
筒の蓋を開くと、中から淡い緑色の光が飛び出す。
光は細い鳥の形へ変わり、風に乗って北東へ飛び去った。
『魔力を送った』
「ああ。伝言だろう」
『リズナへ?』
「そうだと助かる」
先頭の男が騎獣を降りた。
自分の胸を指し、短い言葉を発する。
名乗ったらしい。
続いてゼラスを指した。
ゼラスも自分の胸へ手を当てる。
「ゼラス」
男が繰り返す。
「ゼ……ラス」
次にミテイを見る。
『ミテイ』
「ミ、テイ」
名前だけなら通じた。
男は二人を指し、それから北東を示す。
最後に、自分たちの後ろをついてくるよう手で示した。
『一緒に来いと言っている』
「たぶんな」
『罠かもしれない』
ゼラスは男たちの装備と立ち位置を見た。
四人とも鍛えられている。
だが、こちらを捕らえようとしている配置ではない。
何より、リズナの名を聞いてすぐに伝言を送った。
「罠でも行く」
『なぜ?』
「このまま歩き回るより早い」
ゼラスが先頭の男へ頷くと、相手は露骨に安堵した。
二人は騎獣に囲まれながら、北東へ進み始めた。
石畳は次第に広くなった。
荷車の数も増え、草原の向こうには低い石壁が見えてくる。
その内側には、赤茶色の屋根が並んでいた。
街の中央には巨大な柱が立ち、何枚もの白い帆が風を受けて回転している。
回転するたび、街へ伸びた水路の水が持ち上げられていた。
『風で、水も運んでいる』
「便利な使い方だな」
門へ近づくにつれ、人々の視線が集まった。
黒髪の少年と、銀青色の髪をした少女。
見慣れない衣服をまとった二人が、警備兵に連れられている。
注目されない方がおかしい。
ミテイは周囲を見ながら、聞こえてくる言葉を一つずつ記憶していた。
『同じ言葉が多い』
「分かりそうか?」
『まだ意味は分からない。でも、区切りは少し分かる』
「無理に急ぐな」
『急いだ方が、役に立つ』
ゼラスは歩きながら、ミテイを見る。
「役に立つためだけに覚えるな」
ミテイが僅かに首を傾けた。
「知りたいから覚えろ。その方が長く残る」
『私は、知りたい』
「なら十分だ」
二人は街の奥にある詰所へ案内された。
石造りの部屋には卓と椅子があり、壁には大陸のものらしい地図が掛けられている。
先頭の男は座るように示し、部屋を出ていった。
『閉じ込められた?』
ミテイが扉を見る。
鍵は掛けられていない。
外には見張りがいるが、こちらへ武器を向けてもいない。
「客か、保護対象か、判断に困ってるんだろ」
『待つ?』
「ああ」
ゼラスは椅子へ腰を下ろした。
だが、すぐに立ち上がる。
部屋の窓から、街の中央に立つ柱が見えた。
回転する帆の間を、伝言の光が飛び抜けていく。
先ほど兵士が放ったものと同じ光だった。
それはさらに北東へ向かい、空の彼方へ消えていった。
「思ったより遠いかもしれんな」
『リズナが?』
「ああ」
それでも、名前は届いた。
ゼラスは窓枠へ手を置き、伝言が消えた方角を見つめた。
同じ頃。
リズナは父の屋敷にある訓練場で、風をまとわせた剣を振っていた。
帰還してから、休む間もない日々が続いている。
長く不在だった娘の帰還。
第一帰還者であるエルシアの存在。
そして、再び現れた風の器を巡る者たち。
父との再会を喜ぶ時間はあった。
それでも、すべてが元通りになったわけではない。
「もう一度」
リズナは剣を構える。
高く結んだ赤い髪が、吹き上がる風に揺れた。
その時。
庭の上空から、緑色の光が降りてきた。
光は小さな鳥の形のまま、近くにいた兵士の腕へ止まる。
兵士は光へ触れ、託された言葉を読み取った。
次の瞬間、目を見開く。
「リズナ様」
「どうしたの?」
「南西のセトラ門から、緊急の報告です」
リズナは剣を下ろした。
「何があったの?」
「草原で、見慣れない二人組を保護したと」
「二人組?」
「黒髪の少年と、銀青色の髪をした若い女性です」
リズナの手から、風が消えた。
兵士は続ける。
「言葉は通じないそうですが、少年は自らをゼラスと名乗り――」
最後まで聞く必要はなかった。
リズナの周囲で、風が爆ぜる。
高く結んだ赤い髪が、大きく跳ねた。
「どこにいるの?」
「セトラの守備詰所です。ここから通常の風車で――」
「通常なら、でしょう?」
リズナは剣を鞘へ戻した。
驚く兵士を残し、屋敷へ向かって走り出す。
「父さんに伝えて!」
「リ、リズナ様!?」
「あたし、迎えに行ってくる!」
足元に風が集まる。
その顔には、帰還してから初めて見るほど鮮やかな笑みが浮かんでいた。
「本当に来たのね、ゼラス」




