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第百六話 残る者、渡る者



それから、ひと月近くが過ぎた。


魔皇城の地下記録庫から運び出された古文書が、研究室の卓を埋め尽くしている。


海を越えた魔力観測。


失われた転移施設の位置。


空間の歪みが発生した年代と、その継続時間。


ゼラスは西方天測所で得た記録と照らし合わせ、一つずつ不要な可能性を消していった。


その結果、見つかったのは魔皇国南西部に残る古い越境門だった。


かつて遠方の施設同士を結んでいた、大規模転移装置。


対となる門はすでに失われている。


本来なら使い物にならない遺物だった。


だが、西方天測所からアスタリアへつながった瞬間の座標と、リズナの魔力が残した痕跡がある。


それらを目印にすれば、一度だけなら道を開ける可能性があった。




「到着地点の誤差は?」


リュミエラが、石造りの越境門を見上げながら尋ねた。


「広く見積もって五十キロだ」


「十分に広いわね」


「ああ。下手をすれば海の上に出る」


『海に出たら、飛ぶ?』


門の前で荷物を確認していたミテイが振り返る。


「俺は飛べる。お前は俺が運ぶ」


『分かった』


ミテイが頷き、背負った鞄の紐を締め直した。


必要な物資の大半は、ゼラスの収納魔法に入っている。


食料、薬、衣服、野営道具。


それに、アスタリアの環境を調べるための魔道具。


長期間戻れない可能性まで考え、準備は済ませていた。


リュミエラは門の周囲に描かれた術式へ目を落とす。


「帰還経路は?」


「ない」


ゼラスは隠さず答えた。


「向こうへ着いてから探す」


「こちら側から、もう一度開くことは?」


「同じ座標へ続けて道を通せば、空間が耐えられん。少なくとも当分は無理だ」


「つまり、本当に片道なのね」


「今はな」


リュミエラはその言葉を聞き、僅かに目を伏せた。


不安がないはずはない。


それでも、行くなとは言わなかった。




越境門の調整が終わるまで、まだ少し時間があった。


ミテイは周囲を歩き、設置された魔道具を一つずつ眺めている。


ゼラスは門の制御盤から離れると、リュミエラの前へ立った。


「お前は、ここまでだ」


「ええ」


返事に迷いはなかった。


リュミエラは魔皇軍第一席だ。


旧命令系統を利用した者の調査は、まだ終わっていない。


西方天測所へ命令を送った者が魔皇国内にいる可能性も残っている。


長期間、国を空けるわけにはいかなかった。


「驚かないのね」


「最初から分かってた」


ゼラスは腕を組む。


「第一席が、行き先も帰る時期も分からない旅へ出られるか。陛下も許可しない」


「父上は、私が強く望めば止めないかもしれないわ」


「だからこそ、お前が残るんだろ」


リュミエラは少しだけ目を細めた。


「本当に、よく見ているのね」


「何年一緒にいたと思ってる」


「あなたが魔皇軍を離れてからは、随分と経ったわ」


「それで分からなくなるほど短い付き合いじゃない」


ゼラスは一度、越境門へ目を向けた。


「向こうは、何が起きるか分からん」


「ええ」


「帰る方法が見つかるとも限らない」


「それも分かっているわ」


「だから、お前はここにいろ」


命令するような口調だった。


だが、突き放す響きはない。


「陛下と国を頼む。命令系統の件も、お前にしか任せられん」


リュミエラは静かに彼を見つめた。


「あなたから、そんなふうに頼まれる日が来るとは思わなかったわ」


「嫌なら別の奴に頼む」


「嫌だとは言っていないでしょう?」


彼女は小さく笑う。


「任せて。こちらのことは、私が何とかするわ」


「ああ」


ゼラスは短く答えた後、僅かに視線を逸らした。


「それと……この前は助かった」


「あら」


リュミエラが目を瞬く。


「あの夜のこと?」


「他に何がある」


「今になってお礼を言うのね」


「言う機会がなかった」


「毎日顔を合わせていたでしょう?」


「そういう話を昼間からする気になるか」


リュミエラは口元へ手を添えた。


「今も十分に昼間だけれど」


「だったら忘れろ」


「嫌よ。せっかくあなたが素直に感謝してくれたのだもの」


ゼラスは面倒そうに眉を寄せた。


それでも、言葉を取り消しはしなかった。


「お前がいて助かった。それだけだ」


「ええ。きちんと受け取っておくわ」


リュミエラの声が、少しだけ柔らかくなる。


「私も、嫌ではなかったもの」


「……そうか」


「あら、それだけ?」


「何を言わせたい」


「何も。今のあなたには、会いに行きたい相手がいるのでしょう?」


ゼラスは一度黙った。


「それと、あの夜のことは別だ」


「分かっているわ」


「お前とのことを、なかったことにするつもりもない」


リュミエラの微笑みが僅かに止まる。


ゼラスはまっすぐに彼女を見た。


「だから、戻ったらまた話す」


「戻れるか分からないと言ったばかりでしょう?」


「戻る方法を探すと言ってる」


「約束してくれる?」


「できない約束はしない」


ゼラスはいつものように、曖昧な希望を口にしなかった。


「だが、勝手に死んだことにはするな。俺は戻る気で行く」


リュミエラはしばらく彼を見つめた後、静かに頷く。


「分かったわ。待っている」


「気長にな」


「あなたを待つことには慣れているもの」


その言葉に、ゼラスは返事をしなかった。




『調整が終わった』


ミテイの声が二人を呼ぶ。


越境門の内側に、薄い光の膜が生まれていた。


向こうの景色は見えない。


水面のように揺れる暗い青の奥で、幾筋もの光が絡み合っている。


ゼラスが制御盤へ手を置いた。


魔力を流すと、門全体が低く震え始める。


『目的座標の固定率、七十一パーセント』


古い管理装置の声が響いた。


『安全基準を満たしていません』


「知ってる。続けろ」


『推奨されません』


「推奨を聞くために起こしたんじゃない」


『……越境経路を形成します』


光の膜が大きく歪んだ。


周囲の空気が引き寄せられ、床に置かれた砂や小石が門へ向かって転がる。


リュミエラの長い髪も、強い風に揺れた。


ミテイがゼラスの隣へ立つ。


『手をつないだ方がいい?』


「転移中にはぐれる可能性がある。腕を掴め」


『分かった』


ミテイはゼラスの左腕を両手で掴んだ。


ゼラスは門の向こうに意識を集中する。


西方天測所で感じた、アスタリア側の魔力。


リズナの風が残した、細く鋭い痕跡。


完全には消えていない。


「見つけた」


『リズナ?』


「いや、道だ」


ゼラスが右手を前へ向ける。


「行くぞ」


一歩を踏み出す前に、リュミエラが彼の名を呼んだ。


「ゼラス」


振り返る。


彼女は第一席の装束をまとい、門の外に立っていた。


「行ってらっしゃい」


その言葉に、ゼラスは一瞬だけ目を細める。


「ああ。行ってくる」


ミテイもリュミエラを見る。


『また会う』


「ええ。気をつけて」


『リュミエラも』


二人は同時に門へ踏み込んだ。


青い光が身体を呑み込む。


空間が上下左右から押し潰されるように歪み、次の瞬間には二人の姿が消えていた。




越境門の光が急速に弱まる。


やがて完全に消え、静けさだけが残った。


リュミエラは、誰もいなくなった門を見つめ続けていた。


「……行ってしまったわね」


声に答える者はいない。


踵を返そうとした時、僅かに視界が揺れた。


リュミエラは近くの制御盤へ手をつく。


胸の奥から、薄い吐き気が込み上げた。


「寝不足かしら」


旧命令系統の調査と、越境門の準備。


ここしばらく、まともに休んでいない。


しばらく目を閉じていると、不調はすぐに収まった。


リュミエラは深く考えず、魔皇城へ戻るため歩き出した。




ゼラスの身体が、硬い地面へ投げ出された。


着地と同時に体勢を整え、左腕へしがみついていたミテイを支える。


周囲には、乾いた草原が広がっていた。


遠くには赤褐色の山々。


空は高く、魔皇国よりも日差しが強い。


吹き抜ける風には、砂と草木の匂いが混じっている。


『知らない空』


ミテイが空を見上げた。


「ああ」


ゼラスは地面へ手を触れ、周囲の魔力を探る。


転移の誤差はある。


だが、海ではない。


大陸へは届いた。


風が黒い髪を揺らした。


その流れの中に、微かに覚えのある魔力が混じっている。


細く、鋭く、時折気まぐれに向きを変える風。


ゼラスが顔を上げた。


『見つけた?』


「痕跡だけだ」


『リズナの?』


「ああ」


完全に同じものではない。


だが、この土地の風には、リズナの魔力とよく似た性質があった。


彼女が生まれ育った大陸。


その事実を、風そのものが伝えている。


ゼラスは遠くに見える山並みへ目を向けた。


「来たぞ、リズナ」


乾いた風が、二人の間を吹き抜けていった。

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