第百五話 行く理由
翌朝。
ゼラスたちは、魔皇の執務室へ呼ばれていた。
窓から差し込む光が、広い机の上に積まれた報告書を照らしている。
魔皇は最後の一枚を読み終えると、ゆっくり顔を上げた。
「帰還者二名は、無事にアスタリアへ到着したのだな」
「はい」
ゼラスは姿勢を正して答える。
「接続が閉じる直前、向こう側で保護されたことまで確認しております」
「そうか」
魔皇は短く息を吐いた。
安堵を表へ出したのは、ほんの一瞬だった。
「西方天測所を利用した古い命令系統については、こちらで引き継ぐ。軍の通信網が使われた以上、死者の名を利用した者が内部にいた可能性も捨てられん」
「十二年前には、すでに管理者本人は亡くなっていました」
リュミエラが補足する。
「権限だけを残していたのか、誰かが偽装したのか。記録を洗い直す必要があります」
「任せる」
「承知しました」
魔皇の視線が、ミテイへ向けられた。
ミテイはゼラスの隣に立ち、帳面を胸元へ抱えている。
「次は、君のことだ」
『私』
「西方天測所の機能でも、迷宮の記録装置でもない。今の君自身について聞きたい」
ミテイは静かに魔皇を見返した。
以前なら、与えられた命令から答えを探していた。
今は違う。
『私は、誰かの機能ではない』
「ああ」
『所有物でもない』
「その通りだ」
魔皇は迷わず答えた。
「今後、君を設備や魔道具として扱うことは許さない。正式な身分が整うまでは、魔皇国の客人として保護する」
『保護は、閉じ込めること?』
「違う」
魔皇は机の上で両手を組んだ。
「危険から守るための手助けだ。どこにいるか、誰と行動するかを選ぶ権利は君にある」
ミテイは少し考えた。
それから、隣に立つゼラスを見る。
『私は、ゼラスたちといたい』
ゼラスが僅かに眉を上げる。
『まだ知らないことが多い。もっと見て、自分で選びたい』
「俺のところへ押しつける話になってないか?」
『私は、自分で選んだ』
「そうだったな」
ゼラスは小さく息を吐いた。
拒む気はないらしい。
魔皇の口元が僅かに緩む。
「では、当面はゼラスとリュミエラの同行者として登録しよう」
『同行者』
「嫌か?」
『嫌ではない』
ミテイは帳面を開き、その言葉を書き留めた。
同行者。
命令に従う機能ではなく。
自分で隣を選んだ者。
ミテイは書いた文字をしばらく見つめてから、帳面を閉じた。
魔皇は再びゼラスへ視線を向けた。
「それで、お前はどうするつもりだ」
「アスタリアへの経路を調べます」
ゼラスはすぐに答えた。
「西方天測所で得た座標だけでは足りません。向こう側の施設が閉じた今、同じ方法を再現しても正常には届かないでしょう」
「諦めるのか?」
「いいえ」
その返事にも、迷いはなかった。
「別の経路を探します。古い転移記録、海を越えた魔力観測、空間の歪みが記録された場所。使えるものはすべて調べます」
「時間はかかるぞ」
「分かっております」
「成功する保証もない」
「それも承知しています」
魔皇は黙ってゼラスを見つめた。
ゼラスも視線を逸らさない。
「許可を願います」
「何の許可だ」
「必要な記録の閲覧と、発見した経路を使用する許可です」
「それだけか?」
ゼラスの言葉が止まる。
魔皇は静かに続けた。
「お前は命令を求めているのか。それとも、自分で行くと決めたのか」
執務室に沈黙が落ちた。
リュミエラは口を挟まず、ゼラスの答えを待っている。
ミテイも同じだった。
ゼラスは一度、窓の外へ目を向けた。
西の空。
その先にあるはずの、見えない大陸。
「……自分で決めます」
魔皇は頷いた。
「ならば、記録庫の閲覧を許可する。必要な人員と設備についても、リュミエラを通して申請しろ」
「ありがとうございます」
ゼラスは深く頭を下げた。
執務室を出た後。
三人は城の西側にある露台へ出た。
空は晴れていたが、遠くには薄い雲が浮かんでいる。
ゼラスは手すりの前に立ち、西を見た。
リュミエラが隣へ並ぶ。
「これで、調査を続ける理由はできたわね」
「最初から理由はある」
「座標の研究という理由ではなくてよ」
ゼラスは彼女を見る。
リュミエラの表情に、からかうような色はなかった。
「アスタリアへ行きなさい」
「簡単に言うな」
「簡単ではないから言っているの」
彼女は西の空へ視線を戻した。
「あなたは、行けるかどうかばかり考えている。けれど、行きたいかどうかには、まだはっきり答えていないわ」
「陛下の前で答えただろ」
「許可を求めたことではなく、あなた自身の気持ちよ」
ゼラスはしばらく黙った。
風が黒い髪を揺らす。
以前なら、その隣で赤い髪も揺れていた。
「あいつに会いたい」
低い声だった。
それでも、今度は誤魔化さなかった。
「向こうで何が起きてるかも分からん。風の器だの、帰還者だの、あいつを利用しようとした連中もいる」
「ええ」
「俺がいない間に、また勝手なものを背負わされるかもしれない」
ゼラスは手すりへ腕を置いた。
「それに……」
リュミエラは急かさず、続きを待つ。
「方法を見つけたら必ず行くと、俺が言った」
「約束したものね」
「ああ」
一度口にした言葉を、ゼラスは軽く扱わない。
まして、あの光の中で交わした約束ならなおさらだった。
「隣が静かなままなのも、気に食わん」
最後に付け加えた声は、少しだけ不機嫌だった。
リュミエラが柔らかく笑う。
「それだけ言えれば十分よ」
「何がだ」
「あなたが、リズナちゃんを追う理由」
「追うんじゃない」
「では?」
「会いに行く」
ゼラスは即座に言い直した。
その違いは、彼にとって大きいらしい。
『私も行く』
後ろにいたミテイが告げた。
ゼラスが振り返る。
「安全な旅にはならないぞ」
『分かっている』
「大陸間転移が成功するとも限らん」
『それも聞いた』
「向こうへ着いても、帰る方法がないかもしれない」
ミテイは少し考えてから答えた。
『危険かどうかを知って、それでも行くか決める』
ゼラスは彼女を見つめた。
その言葉は、以前のミテイなら口にできなかったものだった。
『私は行きたい』
「理由は?」
『リズナに、もっと私になったと見せる』
ミテイは帳面へ手を添えた。
『それに、ゼラスを一人で行かせると、無理をする』
「お前まで言うようになったな」
『リュミエラに教わった』
「教えていないわ」
リュミエラが微笑む。
「自分で見て覚えたのでしょう」
ゼラスは二人から顔を背け、もう一度西の空を見た。
「好きにしろ」
『一緒に行っていい?』
「今のは、そういう意味だ」
『分かりにくい』
「慣れろ」
『努力する』
短い会話の後、ミテイもゼラスの隣へ立った。
まだ道はない。
座標も不完全。
海の向こうにある大陸の正確な距離すら、誰も知らない。
それでも、行く理由だけは決まった。
ゼラスは西の空を見据える。
「アスタリアへ行く」
風が三人の間を通り抜けた。
今度は、失ったものを見送るためではない。
再び会うための道を探すために。




