第百四話 いない隣
三日後。
ゼラスの身体を支配していた熱は、ようやく収まった。
魔力の循環も平常へ戻り、姿もいつもの少年へ戻っている。
それでも、朝食の席で彼が口にしたのは水だけだった。
「食べないの?」
リュミエラが尋ねる。
「腹が減ってない」
「昨日も同じことを言っていたわ」
「必要になれば食う」
ゼラスは卓上の記録へ目を落とした。
西方天測所で得た座標。
アスタリア側から流れ込んだ魔力の波形。
二つの大陸をつないだ経路の残滓。
食事の席にまで持ち込むものではない。
けれど、ここ数日のゼラスは、目を覚ましている時間のほとんどをその記録へ費やしていた。
ミテイが果物を一つ手に取る。
自分の皿へ置いた後、もう一つへ手を伸ばした。
その果物をゼラスの前へ置く。
『食べた方がいい』
「いらん」
『身体の熱は下がった』
「ああ」
『でも、ゼラスは戻っていない』
ゼラスの手が止まった。
リュミエラは何も言わず、二人を見ている。
「俺はここにいるだろ」
『いる。でも、前と違う』
「何が違う」
ミテイはすぐには答えなかった。
ゼラスの右隣を見る。
そこは空いている。
以前なら、リズナが座っていた場所だった。
『何度も、そこを見る』
ゼラスも空席へ目を向けた。
自覚はなかったらしい。
僅かに眉を寄せ、記録板を閉じる。
「癖だ」
『リズナがいた時の?』
「……そうかもしれん」
ミテイはそれ以上尋ねなかった。
ただ、ゼラスの前へ置いた果物も下げなかった。
午後。
ゼラスは城内の訓練場にいた。
地面には、大陸間転移を想定した巨大な術式が描かれている。
中央へ魔力を流す。
幾重にも重なった環が光り、空間が僅かに歪んだ。
だが、数秒も保たずに崩れる。
「また座標が流れたか」
ゼラスはしゃがみ込み、術式の一部を書き換えた。
転移先の情報が足りない。
西方天測所で得た座標は、二つの施設が同時に接続された瞬間のものだ。
片側の設備を失った今、そのまま再現してもアスタリアへは届かない。
魔力を増やせばいいという問題でもなかった。
無理に開けば、まったく別の場所へ飛ばされる可能性がある。
「ずいぶん急いでいるのね」
背後からリュミエラの声がした。
「急いでない」
「では、食事も睡眠も削っているのはなぜ?」
「忘れる前に記録を整理してるだけだ」
リュミエラは地面の術式を見る。
単なる記録整理ではない。
すでに何度も、実際の転移を試そうとしている。
「リズナちゃんを追うための術式でしょう?」
ゼラスは否定しなかった。
「今のままでは使えない」
「それで?」
「別の方法を探す」
「見つかったら行くの?」
ゼラスは術式へ視線を落とした。
「行けるならな」
「行きたいかどうかを聞いているのよ」
返事はなかった。
リュミエラは彼の隣へ歩き、空間の歪みが消えた場所を見下ろした。
「身体の反動は、もうほとんど収まっているわ」
「ああ」
「それでも元気が戻らない」
「元から愛想がある方じゃない」
「そういう話ではないでしょう」
静かな声だった。
責めても、からかってもいない。
それがかえって、ゼラスには答えにくかった。
「送ったことを後悔してるわけじゃない」
ようやく、彼は口を開いた。
「あいつは帰りたがってた。父親も待ってた。エルシアも帰す必要があった」
「ええ」
「だから、あれでよかった」
「それも分かっているわ」
リュミエラは続きを待つ。
ゼラスはしばらく黙っていた。
やがて、誰もいない右側へ目を向ける。
「……静かすぎる」
それだけだった。
だが、リュミエラには十分だった。
リズナがいない。
話しかけても返事がない。
隣を歩く足音も、風に揺れる赤い髪もない。
身体を襲った熱は、リュミエラが受け止めることができた。
けれど、この空白は別のものだった。
「そうね」
リュミエラは穏やかに答えた。
「リズナちゃんは、静かに隣を歩く人ではなかったもの」
「うるさいくらいだった」
「それでも、いてほしいのでしょう?」
ゼラスは答えなかった。
否定もしなかった。
リュミエラは地面に描かれた術式へ目を向ける。
「今日はもう休みなさい」
「まだ試すことがある」
「明日にして」
「時間を空けても結果は変わらん」
「変わるわ」
リュミエラはゼラスを見つめた。
「少なくとも、あなたが何のためにこの術式を作っているのかは、はっきりさせられる」
ゼラスが僅かに眉を寄せる。
「何が言いたい」
「明日、父上のところへ行きましょう」
「陛下に?」
「ええ。ミテイの今後についても、改めて決める必要があるわ」
それだけではないと、ゼラスにも分かっていた。
リュミエラは術式を消すため、地面へ魔力を流す。
「今度は、あなたが選ぶ番よ」
描かれていた環が、淡い光となって消えていく。
ゼラスはその場に残り、西の空を見上げた。
方法を見つけたら、必ず行く。
自分で口にした言葉が、今になって重く胸へ残っていた。




