第百三話 反動
魔皇城へ戻ってから二日目の夜。
ゼラスは客室の卓へ向かい、西方天測所で得た記録を整理していた。
アスタリアへ続いた座標。
両大陸の施設を結んだ魔力の波形。
一度きりの帰還経路が閉じる直前まで残していた、細かな術式の変化。
だが、先ほどから同じ数値を何度も書き直している。
『そこは、前と違う』
向かいにいたミテイが指をさした。
ゼラスは記録へ目を落とす。
「……ああ。間違えた」
普段なら考えられない誤りだった。
指先には熱がこもり、魔力の循環も一定しない。
冷たい水を口にしても、喉の渇きはすぐに戻った。
『熱が強くなっている』
「まだ動ける」
『動けることと、平気なことは違う』
ゼラスは返事をしなかった。
ミテイが自分で考え、以前教えられた言葉を使っている。
否定する気にはなれなかった。
やがて扉が開き、リュミエラが部屋へ入ってくる。
彼女は卓上の記録とゼラスの顔を一度見ただけで、状況を察した。
「今夜はもう終わりよ」
「あと少しだ」
「同じ座標を三度間違えているわ」
ゼラスがミテイを見る。
『私は、まだ言っていない』
「顔に出てる」
『顔には書いていない』
普段ならもう一言返すところだったが、ゼラスは筆を置いた。
身体の奥に潜んでいた熱が、先ほどから急速に広がり始めている。
視界が僅かに揺れた。
リュミエラが彼の額へ手を触れる。
「予想より早かったわね」
「戻した範囲が大きすぎたらしい」
「エルシアさんの身体を、連れ去られた時まで戻したもの。当然でしょう」
責める声ではなかった。
だが、心配を隠してもいない。
ミテイは二人を見比べた。
『薬で治る?』
「普通の熱ではないの」
リュミエラが答える。
「ゼラスが使った秘術の反動よ。魔力と身体に、抑えにくい欲求が生まれるの」
『誰かに触れたい?』
「ええ。それが本人の意思より強くなることもあるわ」
ミテイは卓へ手をついたゼラスを見る。
呼吸はすでに少し荒くなっている。
『私も手伝う』
「ありがとう」
リュミエラはすぐに否定しなかった。
「では、水と冷却用の魔石をお願いできる?」
『それだけ?』
「助ける方法は一つではないの。あなたには、それをお願いしたいわ」
ミテイは少し考えた後、頷いた。
『分かった』
部屋を出る直前、ゼラスへ振り返る。
『苦しい時は、止めてと言っていい』
「ああ」
短い返事を聞き、ミテイは扉を閉めた。
二人きりになると、リュミエラは部屋へ防音と遮断の術式を重ねた。
外へ魔力が漏れないようにし、寝台の周囲にも薄い結界を張る。
ゼラスは椅子へ座ったまま、額を押さえていた。
「ゼラス」
「分かってる」
「分かっていても、確認するわ」
リュミエラは彼の正面に立つ。
「私に任せる?」
ゼラスは目を閉じ、一度深く息を吐いた。
過去にも、同じ問いを交わしている。
魔皇軍にいた頃。
秘術の反動を、今ほど制御できなかった頃。
彼女は一度も、ゼラスが選ぶ前に触れなかった。
「ああ。頼む」
「私が嫌だと言えば、止まれる?」
「止まる」
「あなたが止めたいと言った時も?」
「その時は止めてくれ」
「分かったわ」
リュミエラが頷く。
淡い魔力がゼラスの身体を包んだ。
少年の輪郭が伸び、手足が長くなる。
肩幅が広がり、顔立ちから幼さが消えていく。
光が収まった時、成人したゼラスが椅子へ腰掛けていた。
熱を帯びた眼差し。
乱れ始めた呼吸。
それでも、理性は失っていない。
リュミエラは彼の頬へ触れた。
「昔より、ずっと制御できているわね」
「何百年も同じなら困る」
「口を利く余裕はあるようね」
「少しだけな」
ゼラスは頬に触れる手へ、自分の手を重ねた。
強く掴むことはせず、掌の温度を確かめるように触れる。
「リュミエラ」
「ええ」
「これは、リズナの代わりじゃない」
リュミエラの瞳が僅かに揺れた。
「分かっているわ」
「お前を都合よく使うつもりもない」
「それも分かっている」
リュミエラは彼の頬をゆっくりと撫でる。
「私たちの間にあったものまで、リズナちゃんへの気持ちで消えるわけではないでしょう?」
「ああ」
「なら、今はそれで十分よ」
彼女は顔を寄せた。
唇が触れる直前で一度止まり、ゼラスの目を見る。
拒む様子がないことを確かめてから、静かに口づけた。
最初は、熱を確かめるだけの短いものだった。
だが、離れようとしたリュミエラの腰へ、ゼラスの腕が回る。
「まだ足りない?」
「ああ」
掠れた声だった。
リュミエラはもう一度、彼へ唇を重ねた。
今度は先ほどよりも長く、深い。
ゼラスも応じる。
熱のままに奪うのではなく、彼女の呼吸と動きを確かめながら、少しずつ距離をなくしていく。
背へ回された手に力が込められた。
リュミエラも彼の肩へ腕を回し、成人した身体を受け止める。
長く触れ合っていなかった時間を埋めるように、二人は何度も唇を重ねた。
「ゼラス」
名を呼ばれると、彼の動きが止まる。
「嫌ではないわ」
その言葉を聞いてから、ゼラスは彼女を抱き上げた。
「軽く扱うつもりはない」
「知っているわ」
リュミエラは彼の首へ腕を回す。
「だから、あなたに任せているの」
ゼラスは彼女を寝台へ下ろした。
覆いかぶさる前にも、もう一度その表情を確かめる。
リュミエラは自ら彼の頬へ触れ、引き寄せた。
二人の身体が、隙間なく重なる。
衣服越しにも伝わる熱に、ゼラスの呼吸が大きく乱れた。
それでも急がない。
リュミエラの髪へ指を通し、首元へ顔を寄せる。
彼女もまた、熱を逃がさないようにゼラスの背へ腕を回した。
「我慢しなくていいのよ」
「我慢してるんじゃない」
「では?」
「お前の声を聞いてる」
リュミエラは一瞬目を見開き、やがて柔らかく微笑んだ。
「昔より、随分と丁寧になったのね」
「昔から聞いてた」
「余裕がない時は、聞こえないふりをしていたでしょう?」
「……覚えてない」
「私は覚えているわ」
指先が、ゼラスの黒い髪を撫でる。
「長い付き合いですもの」
再び唇が重なった。
互いの衣服が少しずつ寝台の脇へ落ちていく。
触れた肌から伝わる熱は、先ほどまでよりも鮮明だった。
リュミエラはゼラスの首へ腕を回し、彼を自分の身体へ引き寄せる。
ゼラスも彼女を強く抱きながら、苦しくないかを確かめるように何度も動きを緩めた。
そのたび、リュミエラは彼の頬へ触れる。
「大丈夫よ」
「無理はするな」
「それは、今のあなたへ言う言葉でしょう?」
リュミエラは彼の額へ、自分の額を重ねた。
「私はここにいるわ。だから、一人で耐えようとしないで」
ゼラスは短く目を閉じる。
そして今度は、彼女を逃がさないように強く抱き寄せた。
熱を鎮めるためだけではない。
長い年月の中で、何度も自分を支えた相手が今もここにいる。
それを確かめるような抱擁だった。
二人は互いの意思を確かめながら、ゆっくりと身体を重ねた。
一度で反動が収まることはなかった。
僅かに落ち着いたと思えば、身体の奥から再び強い熱が湧き上がる。
そのたびにリュミエラは、ゼラスの名を呼んだ。
ゼラスも彼女を抱き寄せ、何度も口づけを返す。
余裕を失いかけた時には、彼の方から動きを止めた。
「リュミエラ」
「ええ」
「苦しくないか」
「大丈夫よ」
「本当に?」
「ええ。けれど、私が止めてと言った時には止まって」
「ああ」
短い確認を交わしてから、再び身体を重ねる。
夜が深くなるほど、ゼラスの熱は激しくなった。
それでも、呼ぶ名を間違えることはない。
腕の中にいる相手が誰なのかを、最後まで見失わなかった。
リュミエラも、彼の呼吸や指先の力が変わるたび、声をかけた。
一方だけが耐えるのではなく、二人で反動を受け止める。
かつて何度もそうしてきたように。
けれど、昔とまったく同じではなかった。
ゼラスの触れ方は以前より慎重で、リュミエラの表情を何度も確かめる。
リュミエラもまた、彼の身体だけでなく、沈んだ心まで抱き留めようとしていた。
激しい熱が一度引いた後。
ゼラスは彼女の肩へ顔を埋め、荒い呼吸を整えていた。
リュミエラの指が、汗に濡れた黒い髪を梳く。
「少し眠れる?」
「まだ無理だ」
「では、もう少しこのままでいましょう」
ゼラスは返事の代わりに、彼女の身体を抱く腕へ力を込めた。
リュミエラも何も言わず、その背を撫で続けた。
しばらくして、扉の外から控えめな音がした。
『リュミエラ』
ミテイの声だった。
リュミエラは寝台を離れる前に、ゼラスへ尋ねる。
「一人で待てる?」
「ああ」
「すぐ戻るわ」
衣服を整え、扉を僅かに開く。
ミテイは水差しと冷却用の魔石を抱えて立っていた。
『ゼラスは?』
「まだ熱はあるけれど、少し落ち着いたわ」
『水を飲める?』
「ええ。ありがとう」
リュミエラは水差しと魔石を受け取った。
『私も、ここにいた方がいい?』
「今は休んで。朝になったら、また様子を見に来てくれる?」
ミテイは部屋の奥へ視線を向けず、静かに頷いた。
『来る』
「お願いね」
扉が再び閉じる。
リュミエラが寝台へ戻ると、ゼラスは身体を起こしていた。
渡された水を飲ませ、冷却用の魔石を首元へ当てる。
だが、身体の奥に残る熱は、それだけでは消えない。
ゼラスはリュミエラの手首へ触れた。
「まだ、頼めるか」
「ええ」
答えに迷いはなかった。
リュミエラは再び彼の隣へ入り、その身体を受け止める。
夜明けまでの間に、二人は何度も身体を重ねた。
熱が押し寄せるたびに互いの名を呼び、呼吸を確かめ、止まるべき時には止まった。
秘術の反動が理性を奪わないように。
そしてゼラスが、一人で苦しみに耐えようとしないように。
夜明け前。
最初の激しい波は、ようやく収まり始めていた。
ゼラスは寝台へ横になり、天井を見つめている。
リュミエラは隣で、彼の胸元へ手を置き、魔力の流れを確かめた。
「身体は少し落ち着いたわ」
「ああ」
「けれど、顔は戻らないわね」
「何の話だ」
「リズナちゃんがいなくなってから、ずっと同じ顔をしている」
ゼラスは目を閉じた。
身体の熱とは違う。
触れた唇の温もり。
光の向こうへ消えた、赤い髪。
何度リュミエラの名を呼び、彼女の温度を確かめても、それが別の感情まで消してくれるわけではなかった。
「……今は寝かせろ」
「ええ」
リュミエラはそれ以上追及しなかった。
ただ、ゼラスが眠りにつくまで、その身体を静かに抱いていた。




