第百話 餞別
最後の夜。
ゼラスは収納魔法から物資を取り出し、二つの鞄へ詰め替えていた。
食料。
薬。
衣服。
簡単な野営道具と、換金に使えそうな素材。
リズナは、次々と増えていく荷物を見下ろした。
「少し多くない?」
「向こうの状況が分からない。食料は十日分、薬も一通り入れてある」
「帰った先には父さんたちがいるのよ?」
「転移先で確実に合流できるとは限らないだろ」
ゼラスは手を止めず、薬瓶をもう一本加えた。
「空間転移の後は体調を崩すこともある。持っていって困るものでもない」
「相変わらず用意がいいわね」
「足りなくなるよりましだ」
エルシアの鞄には、身体への負担を考え、軽い物だけが選ばれていた。
それを見ていたエルシアが、静かに頭を下げる。
「ありがとうございます。ですが、私は故郷へ着けるだけでも――」
「着いた後も生きるんだろ」
ゼラスが遮った。
「なら、着くだけでは足りない」
エルシアはしばらく彼を見つめ、やがて小さく頷いた。
少し離れた場所では、ミテイが帳面を開いていた。
一行を書き終えると、リズナへ見せる。
そこには、不揃いな文字で記されていた。
リズナとエルシアは、明日帰る。
「ええ」
ミテイは続けて、もう一行を書いた。
私は、寂しい。
その感情の名を、もう誰かへ尋ねることはなかった。
リズナはミテイの隣へ腰を下ろす。
「あたしも寂しいわ」
『帰りたいのに?』
「帰りたいことと、別れたくないことは、同時にあってもいいのよ」
ミテイは少し考え、帳面へ書き加えた。
二つとも、本当。
「そういうこと」
リズナは銀青色の髪へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触ってもいい?」
『いい』
許可を得てから、そっと頭を撫でる。
ミテイは目を閉じた。
『次に会う時、私はもっと私になっている』
「楽しみにしてるわ」
『リズナも、もっとリズナになる?』
「どうかしらね」
リズナは小さく笑った。
「でも、そうなれるようにはしてみるわ」
夜が明け始める頃。
巨大な環の中央に、アスタリア側の制御室が映し出された。
向こうでは、リズナの父や術師たちが帰還設備の最終確認を進めている。
『両施設の同期率、九十九パーセント』
『帰還経路の開放準備を開始します』
エルシアとリズナは、それぞれ鞄を背負った。
二人の足元に、青白い円が浮かぶ。
リュミエラがゼラスの隣へ立った。
「本当に使うのね」
「ああ」
「戻った後は、私の指示に従ってもらうわ」
「分かってる」
珍しく素直な返事だった。
リュミエラはそれ以上何も言わず、静かに彼を見守った。
ゼラスがエルシアを呼ぶ。
「エルシア」
「はい?」
振り返った老女の額へ、ゼラスが指先を触れた。
「餞別だ」
「え――」
問い返すより早く、白い光がエルシアの全身を包み込んだ。
リズナが目を見開く。
「ゼラス、何をしたの!?」
光の中で、エルシアの身体が変わっていく。
白かった髪が、根元から本来の色を取り戻す。
深く刻まれていた皺が薄れ、やがて跡形もなく消えた。
曲がっていた背が真っすぐに伸びる。
細く衰えていた手足へ力が戻り、長い年月に削られていた身体が、若い輪郭へ変わっていった。
手にしていた杖が、乾いた音を立てて床へ落ちる。
「きゃっ……!」
急に変わった重心へ対応できず、エルシアがよろめいた。
リズナが慌てて抱き留める。
「エルシアさん!」
白い光が静かに消えていく。
リズナの腕の中にいたのは、もう白髪の老女ではなかった。
艶を取り戻した髪。
皺一つない肌。
施設へ連れ去られた日の、若い姿だった。
『エルシアの身体が変わった』
ミテイも目を見開き、その姿を見つめていた。
『骨も、筋肉も、魔力の流れも若くなっている』
エルシア本人は、呆然と自分の両手を見下ろしていた。
節立っていた指は細く滑らかになり、染みも皺も消えている。
「私の……手……?」
漏れた自分の声に、さらに目を見開く。
長い年月で掠れていた声ではない。
記憶の奥に残っていた、若く澄んだ声だった。
エルシアは喉へ触れた。
次に頬を、髪を、腕を確かめる。
「これは……本当に、私なのですか?」
立ち上がろうとして、再び足がもつれた。
脚の長さも、筋肉の動きも、先ほどまでの身体とはまるで違う。
リズナに支えられながら、エルシアはゼラスを見た。
「連れ去られた時の身体へ戻した」
ゼラスが淡々と告げる。
エルシアの瞳が大きく揺れた。
アスタリアで迎えた最後の朝。
家族と交わした何気ない言葉。
突然の光に呑まれ、この施設へ連れ去られた日の自分。
震える指で、若い頬を包む。
「私は……この姿のまま、ここへ来た……」
涙が溢れた。
若返ったことへの驚き。
失った時間への痛み。
これからも生きられるという、すぐには受け止めきれない喜び。
それらが一度に押し寄せていた。
リズナも、エルシアとゼラスを何度も見比べる。
「他人まで若返らせられたの?」
「ああ」
「そんなこと、今まで一度も言ってなかったじゃない」
「滅多に使わないからな」
ゼラスはそれだけ答えると、エルシアへ視線を戻した。
「奪われた時間までは返せない」
エルシアは涙の残る目で、彼を見る。
「だが、帰った直後に寿命を迎えるために、百年以上も耐えたわけじゃないだろ」
エルシアは若返った両足で、ゆっくりと立ち上がった。
一度ふらつく。
それでも今度は、自分の力で立ち切った。
「これから使う時間くらい、その身体で生きろ」
しばらく、エルシアは言葉を探していた。
やがて胸元へ手を添え、ゼラスへ深く頭を下げる。
「……ありがとうございます、ゼラスさん」
声は震えていた。
それでも、そこには確かな感謝があった。
「まだ、何が起きたのか受け止めきれていません」
エルシアは顔を上げる。
「ですが、あなたが私に、これから生きる時間をくださったことは分かります」
「礼はいらん」
「それでも、言わせてください」
若い頬を涙が伝う。
「本当に、ありがとうございます」
ゼラスは僅かに目を細めた。
「……ああ」
管理体の声が響く。
『第一帰還者の身体情報に大幅な変化を確認』
『帰還経路の開放を一時停止』
『適合情報を再照合します』
巨大な環が速度を落とした。
リズナはまだ信じられない様子で、若返ったエルシアを見つめている。
「本当に、若返ったのね……」
「私にも、まだ信じられません」
エルシアは自分の髪を一房つまむ。
驚きと涙の残る顔に、ようやく小さな笑みが浮かんだ。
しばらくして、再照合が完了した。
『第一帰還者の適合を再確認』
『肉体負荷、許容範囲内』
『帰還経路の開放を再開します』
巨大な環が、再び回転を始める。
今度こそ、二人をアスタリアへ送り出す時が来る。
エルシアが青い円へ戻った。
リズナもその隣へ立つ。
けれど、彼女の視線はゼラスへ向けられていた。
「ねえ、ゼラス」
「何だ」
リズナは少しだけ迷った後、悪戯を思いついた時のように笑った。
「最後に、一つだけお願いしてもいい?」
「言ってみろ」
環の中央で、二つの大陸を結ぶ光が強くなる。
温かな風を受け、リズナの高く結んだ赤い髪が大きく揺れた。
「大人の姿になってみてよ」




