第9章
この日も街はお祭りの喧騒に満たされていた。どこを見ても人で溢れており、彼らの笑い声と笑顔が弾けていた。
どこからか、お祭りの歌が聞こえてくる。中にはその歌に応じるように、鼻歌を奏でる者もいた。
そんな街を、ディアが跳ねるように歩いていく。まるで歌に合わせて踊っているようにも見えた。
「うわあ……すごいわ…………お祭りってこんな感じなのね。まるで街が笑っているみたいだわ」
楽しみにしていたお祭りが楽しいのだろう。彼女の視線は右へ左へ行き来し、その目に映る光景全てに目を輝かせていた。
「ディアさん。少しはしゃぎすぎだ。ちゃんと足元を見ないと転ぶぞ」
それを後ろからついてきたミコトが、宥めるように注意した。
「ふふ、ごめんなさい。みんながとても楽しそうだから、つい私もはしゃいじゃったわ」
ディアの言う通り、街行く人々は誰もが楽しそうに笑い、このお祭りを純粋に楽しんでいた。ディアが楽しそうにはしゃぐのも、無理はない。
「それで、これからどうする? どこか行きたいところはあるのか?」
その問いにディアは考え込む。すると、ディアはミコトに近寄り、また楽しそうに笑みを向けてきた。
「ミコトさんのお勧めの場所はないかしら?」
「私のお勧め?」
「ええ。私、ミコトさんがお勧めする場所に行ってみたいわ」
そう言われて、ミコトは少し困惑した。正直彼もお祭りのことは疎く、お勧めできるものなど、彼の知識にはなかった。
しかし、ディアがそんなことを知るはずもなく、彼女はワクワクしながら答えを待っていた。
そんな彼女の顔に、ミコトは頭をかいた。
「お勧めできるかわからないが……あそこに行ってみるか」
「うわ……何これ?」
ミコトに連れられてきたディアは、その光景を唖然として見つめていた。
そこは街の中心にある広場で、そこでは多くの人が食事とワインを楽しむ、広大な青空食堂となっていた。
何よりディアの目を引くのが、そこにいる人々は皆、樽の上に食事を並べているということだった。
「ねえミコトさん。何でみんな、樽の上で食事をしているの?」
「元々この祭りは、ワインの出荷に合わせて商人たちが集まったのが始まりなんだ。ワインが出来上がると各地の商人がこの街に来て、出来上がったワインの取引が行われてきた。その時、樽の上で食事をしながら商談をしていたから、このお祭りでもそれを真似てるんだ」
まだ中世と呼ばれる時代からワインを作って来たグランツの街。今、目の前にしているような光景が、当時からこの街で見られていたのだろう。彼らの前にあるのは、この街の歴史とその残り香なのだ。
それをどのように感じているのか、ディアは目を輝かせて眺めていた。
「そうなのね……素敵だわ」
ミコトたちはそれから、空いている席に着席すると、駆け寄って来たウエイトレスに注文を伝えた。
料理が運ばれてくるまでの間、周りで乾杯の声が響く会場を、ディアはどこもかしこもという様子で見回していた。
収穫祭の熱狂と人々の情熱。彼女にとって、それら全てが初めて見る景色で、まるで絶景のように映っているのかもしれない。
そんなことをしていると、先ほどのウエイトレスが戻ってきて、その手に乗せられたお皿を器用に並べた。
ディアの前には琥珀色に輝く若鶏のソテーと、ミコトの前にはふっくらと湯気を立てる白身魚のクリーム煮込み。そして、それらに合う赤ワンと白ワインが樽の上に並んだ。
「うわ~、美味しそう! 香りだけでもお腹いっぱいになりそうだわ!」
「君の好みがわからないから、お勧めを注文したが……大丈夫か?」
「大丈夫よ。私、どんな料理も美味しく食べることができるの。素敵な才能でしょ?」
文句なしの笑みが零れると、ミコトも納得したように頷く。
ミコトがそれぞれのグラスにワインを注ぐと、ディアがそれを手に取って得意気に笑った。
「それじゃあ、 乾杯!」
弾むようにグラスを躍らせると、ディアはワインを一息に呑んだ。そして、そのままフォークを手にとって、琥珀色に輝く若鶏を一切れ、口に運んだ。
味の感想なんて、聞く必要もなかった。彼女は言葉もなく、ただその味を噛み締めた。
頬が蕩けるという言葉があるが、彼女は蕩ける頬を守ろうとするように、その手で頬を押さえた。
「すっっっごく美味しい! お肉ってこんなに柔らかくなるのね!」
そう言って、彼女はさらにもう一切れを口に運ぶ。若鶏の肉汁が口の中を占領し、そこへまた芳醇な赤ワインを流し込む。
一切れ口に運ぶ度に、彼女は口に広がるその味に悶絶した。そのまま放っておけば、気絶するんじゃないかと思うほどに。
それを見てから、ミコトもナイフを手に取る。手元に置かれた白身魚を、一口大に切って口に運ぶ。
口の中に広がる白身魚の旨味。ディアのように感情を出したりはしなかったが、ミコトもその味をじっくり楽しんだ。
「ねえねえ、ミコトさん!」
その時、ディアが声をかけてくる。何事かと顔を上げると、彼女が一口大に切った若鶏を小皿に乗せて、ミコトに差し出した。
「ねえ、よかったら交換しない? 私、そっちの料理も食べてみたいわ!」
そう言いながら、彼女がその小皿を押し出してくる。すでに彼女の舌は、白身魚の味を想像しているに違いなかった。
「ああ、わかった。ちょっと待ってくれ」
ミコトも白身魚を一口大に切って、ディアに差し出す。彼女はそれを受け取り、代わりに若鶏を差し出した。
自分の前に置かれた魚をまたじっくり見つめるディア。彼女の目にはそれが宝石にように映っているのか。ただただ見惚れていた。
しばらくそうしてから、彼女はまたいただきますと言って、白身魚を口に入れた。口いっぱいに広がる旨味に、またしても彼女は悶絶する。
若鶏の肉汁に占拠されていた口の中が、今度は魚の旨味に道を譲る。ふっくらした魚を一噛みする毎に、彼女の中で豊かな味わいが巡っていく。
彼女はミコトから差し出された白ワインを口に含んだ。その爽やかな香りに、彼女はうっとりした様子で笑みを深めた。
幸せというものが何かと考えるなら、きっと今の彼女のことを言うのだろう。それくらいに幸せそうな微笑みだった。
それを見ていたミコトも、彼女からもらった若鶏を口に運ぶ。それは確かに美味しく、彼女が幸せそうになるのも頷けた。
「美味しかった~。今まで食べた中で一番美味しかったかも」
街を歩きながら、そんなことを呟くディア。今もその舌に味が残っているのか、まだ頬を押さえていた。
街は今もお祭りに浮かされていて、街行く人々はその熱に身を委ね、誰もが笑っていた。
だが、ミコトがディアに目を向けると、彼女はそこにいる誰よりも楽しそうに笑っていた。
この収穫祭を誰よりも楽しんでいる。そう思えるほどに。
「ねえミコトさん。今度はどこに行くの?」
「そうだな……君は行きたいところはないのか?」
「うーん……あ」
問われたディアが通りに目を向ける。すると、彼女が指差しながらはしゃぎ始めた。
「ミコトさん! あそこ! 人が集まってるけど、何のお店かしら?」
彼女が指差す方を見ると、そこにあったのはワインアクセサリーの専門店だった。
「ああ、あそこはオープナーやグラスを売っているところだ。いわゆるワインアクセサリーってやつだ」
「へえ……そうなのね」
彼女の視線が釘付けになる。人気のお店なのか、次々と人々がお店に入っていく。その様子を、ディアが興味深そうに見つめた。
「気になるなら、行ってみるか?」
その言葉にディアはすぐ頷いた。
「ええ! 行きましょう!」
早く行きたいと気がはやっているのか、彼女はミコトの答えも待たずに前を歩き出す。ミコトもそれには文句を言わず、彼女の後に続いた。
「うわあ……」
店内に入ると、ディアの口からため息が漏れる。彼女が目にしたのは、その空間いっぱいに並ぶワインアクセサリーの輝きだった。
ワイングラス、オープナー、ソムリエナイフなど。実用的なものから装飾を施された物まで、それらが棚に壁にと並べられ、眩いばかりの輝きを見せる。
その光景はまるで宝石店。ディアはその光景に目を丸くし、感心するばかりだった。
「すごい……初めて見たわ」
「まあ、他の街ではあまり見ないだろうな。やっぱりワインの街だから、こういう道具も作られたりするんだ。ここは特にいい職人がいるから、観光客には人気らしい」
そんなミコトの説明が聞こえているのかどうか、その光景に彼女は夢中になっていた。
ここに来る客はお祭りの記念にと、ここの道具をお土産に買っていく。彼らは品定めするように道具を眺めていた。
それを見ていたディアも、我慢できないとばかりにミコトに振り向いた。
「ミコトさん! ちょっと見て回ってもいいかしら?」
「ああ、あまりはしゃぎすぎるなよ」
「ええ! わかったわ!」
本当にわかったのか、彼女はすぐ近くにある棚に近寄り、そこに並ぶ道具に目を凝らす。
そこに並ぶ道具は様々で、シンプルなデザインのものや、精巧な装飾が施されたものもあり、どれも一級品のものばかりで、どれ一つとして同じものはなかった。
まるで自らを誇示するように輝くそれらの商品を、ディアはじっくりと眺めていった。
「あ……」
彼女は唐突にその動きを止めると、そのまま視線を止めてしまった。
ミコトが彼女の視線を追うと、そこには綺麗なブドウの装飾が施されたソムリエナイフがあった。
この街の象徴とも言えるブドウの実。銀細工のように輝くブドウが一本のナイフに留まり、彼女の前で美しく輝いていた。
「えっと……触ってみてもいいかしら?」
「ああ、大丈夫だろう。気をつけろよ」
ミコトに促されて彼女が手を伸ばす。触ったら壊れると思っているのか、恐る恐るそれを手に取り、目の前に掲げてみた。
目の前で銀色のブドウが輝く。彼女はその輝きをじっと見つめ、その触り心地を確かめていた。
一目惚れなのだろう。上から下から、そのソムリエナイフの輝きをじっくり堪能した後、勢いよくミコトに振り返った。
「ミコトさん! 私、これ買ってもいいかしら?」
誰も拒否するはずもないのに、そんなことを言ってくるディア。彼女がそれを欲しいのなら、ミコトが反対する理由もなかった。
「君が気に入ったのなら、そうするといい。大事にしてあげるといい」
それがとても嬉しかったのか、ディアはそのナイフを大事そうに握りしめた。
ソムリエナイフを入れた紙袋を抱えて、ご満悦で歩くディア。耳を澄ませば、鼻歌も聞こえていたかもしれない。
「素敵なお店だったわ……グラスやオープナーも素敵なものばかりだったけど、これが一番気に入ったわ」
「そうか。だいぶ気に入ったんだな」
「ええ! この子を見た瞬間に、私の前で輝いていたの。まるで愛を囁いてくれてるみたいに。きっとこれが、運命ってやつなのね」
恋物語で語られるようなセリフを、嬉々とした表情で呟く。新しいおもちゃを与えられた子供のように、彼女は嬉しそうに笑っていた。
陽も傾き始めていた。それでもお祭りの音楽は途切れることなく、人々も変える気配はなかった。
他にどこか行くところはあるだろうかと、ミコトは思案し始めていた。
「あ……」
その時、彼女から小さな声が上がった。
「どうした? 何か忘れ物か?」
ミコトが問いかけると、彼女はおずおずと切り出してきた。
「忘れていたんだけど、実はこの街に来て、行ってみたかった場所があるの」
言い出しづらそうにするディア。彼女がどこに行きたがっているのか、気になるミコトは先を促した。
「わかった。次はそこに行こう。どこにあるんだ?」
すると彼女は無言でその人差し指を向けた。
目を向けると、そこには一際高い塔がそびえ立っていた。




