第10章
古くからあるこの街には、街のシンボルともいえる場所があった。
それはこの街に昔からある教会だった。中世と呼ばれる時代からあるその教会は、この街でも特に高い塔が備えられていた。かつてはここを見張り台にして、街の犯罪やブドウ畑に泥棒が入るのを見張っていたこともあるらしい。
時代が流れた今は、見張り台としての役割もなくなり、代わりに展望所として人々に開放されていた。
とは言え、その教会自体は街の中心から外れていることもあり、人通りもまばら。人々はお祭り会場に集まるばかりで、その教会のことが目に入っていないようだった。
寂しさが流れるその通りを歩きながら、ミコトが呟く。
「こんなとこ、よく知ってたな。ほとんど人も来ない場所なのに」
お祭りの喧騒が遠くなる中、ディアが舞うように振り返る。
「初めて街に来た時に、街の人から教えられたの。最上階に上ると、そこからいい景色が見られるって。やっと昇ることができてよかったわ」
塔に入ると、上に登るための階段がずっと上に伸びているのが見えた。その階段の頂上は見えず、本当に終わりがあるのかわからないほどだった。
その階段をミコトたちは昇り続ける。すぐに疲れることがないようにゆっくりと昇るが、それでも半分まで来たところで、息が切れ始めていた。
「きゃっ」
その時、ディアが小さな悲鳴を上げる。躓いてしまったのか、その場で手を着いて倒れてしまう。ミコトが慌てて駆け寄った。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ごめんなさい。少しはしゃぎすぎたわ」
そう言って恥ずかしそうにディアが笑う。よく見ると、彼女の額にも大粒の汗が溜まっていた。
「無理するな。きつかったら少し休んでからにしろ」
正直、この階段を登るのはミコトも不安だった。まだ身体が完治していないかもしれないのに、それでこの階段を登るのは、ディアの身体に無理が生じるかもしれなかった。
本当ならこのまま引き返すべきだ。ミコトはそう伝えようとすら思った。
だが、彼女は微笑んだまま、首を横に振った。
「ありがとう。でも、大丈夫よ。自分でも不思議だけど、このまま上まで行ける気がするの。だから、このまま行かせて」
きっと楽しさと興奮から、疲れを感じなくなっているのだろう。しかし感じないからといって、疲れていないわけではない。必ず後から疲労に襲われるはずだ。
医者としては無理はさせたくない。その場で休ませたいとミコトは思っていた。
だけど、彼女の瞳が語る。心配しないでいい。だから、このまま昇らせてほしい、と。
ミコトは小さくため息を吐いた。
「わかった。だが昇るのなら私のペースに合わせてくれ。でないと私が疲れるんだ」
明らかに彼女を気遣っての言葉。一緒にゆっくり昇らせるための方便だった。
それがわかっているのか、ディアはただ柔らかく笑みを返した。
「わかったわ。一緒に行きましょう」
最上階がすぐそこまで来ていた。
「わっ」
その時、上から風が流れてきた。それは地上では感じることのできない風。目的地がすぐそこにあることの証拠だった。
ディアの顔が期待で輝いていた。もし一緒に昇る約束をしていなければ、その場から走り出しそうだった。
それでも彼らはゆっくりと、一緒に階段を昇る。
そうして彼らは、その光景へとたどり着いた。
「…………」
声もなく、ディアはその場に立ち尽くす。その光景に目を見開き、瞬きするのも忘れて、ただ目の前の景色を見つめていた。
そこから見えるのは、この街の全てだった。大きな建物が並ぶ市街地や、何台も馬車が走る大通り。少し離れたところではこの街の駅舎と、到着したばかりの汽車の姿もあった。
だが、今ディアの目に映るのは、近代化した街並みではない。彼女の視線は、市街地を越えたその先、この街の向こうに広がるブドウ畑だった。
この街を見守るように並ぶ山々に、規則正しく並ぶブドウの木。その隊列は遠く彼方まで続いていく。まるで瑞々しい緑色の線が、巨大なキャンバスの上を走っているように見えた。
その光景を、ディアはずっと見つめていた。声もなく。息もなく。
「おい。大丈夫か?」
さすがに心配になってミコトが声をかけた。
「すごい……」
その時、ディアから小さな声が聞こえてきた。とても小さな声なのに、そこに込められた感情がどれほど大きいか、その響きだけで伝わった。
彼女は振り返ると、その大きな瞳に星を宿しながら、心いっぱいに叫んだ。
「すっっっごい! すごいわ! こんな光景初めて見たわ!」
彼女の興奮ぶりに気圧されるミコト。彼女は遠く広がるブドウ畑を指差しながら、その感動を言葉で紡ぎ続けた。
「ほら見て! あんなにたくさんのブドウの木が並んでるわ!! それに全部同じ高さに揃えられていて、まるで兄弟みたいに仲良く並んでいるわ! すごい、すごいわ!」
「わかった。わかったから落ち着いてくれ。そんなにはしゃぐと落ちるぞ」
一応落下防止に鉄柵が整備されてはいるが、それを飛び越えんばかりにはしゃぐのだから、ミコトも心配でしかたなかった。
「……この街に来てよかった」
落ち着きを取り戻したディアは、もう一度その光景を見つめる。記憶に刻みつけようとするように
「今までいろんな街を見てきたけど、この街もとても素敵だわ」
「そうか。そういえばここに来るまでにいろんな所を巡ったんだろう? どんなところを巡ったんだ?」
特に意味のある質問ではなかった。ミコトにとっては場を繋ぐ意味でしかない問いかけ。
それでも、その問いかけが嬉しかったのか、ディアは嬉しそうに微笑みを返す。
「本当にいろいろよ。地平線の向こうまで続く麦畑や、古いお城が佇む歴史ある街。それにたくさんの工場が建てられた大きな街。私にとってはどれも初めて見るもので、全てが美しく見えたわ」
それまでの旅の景色を思い出しているのか、彼女が目を閉じる。少しそうしてから、彼女はミコトに振り返る。
「私ね。旅に出てから思い知ったの。世界には私の知らない、想像もできない光景がいくつもあって、今もそこで輝いているって。それを知って思ったの。それをこの目で見てみたいって」
その時、彼らのいる屋上に風が流れてきた。それはブドウ畑から流れてくる風。彼女はその風を受け止める。その身で、心で。
「もしここに来れなかったら、この光景も、ここに流れる風も、私は知ることはできなかった。だけど、あなたが私を連れて来てくれた。一緒に歩いてくれた。この景色もこの風も、今感じてる気持ちを知ることができたのは、ミコトさんのおかげだわ」
「いや……別に私のおかげじゃないだろう。私はただここについてきただけだ」
にべもなく否定するミコト。だがその否定の言葉に、ディアは優しく首を振る。
「あなたのおかげよ。あなたがあの夜、私に出会ってくれて、私を助けてくれた。そして、私の怪我を治してくれた。あなたがいなかったら、私はここに来れなかったわ」
そう言って、彼女は満面の笑みを浮かべて、精一杯のお礼を伝えた。
「ありがとう。私をここに連れて来てくれて」
その言葉にミコトは目を丸くした。そんな風に言われるとは、予想していなかったから。
元々彼女の外出には反対だった。本当ならすぐに帰らせるべきだと思った。
だけどこうして彼女と共に外を歩いて、一緒にお祭りを見て回った。
今日一日のことを思い起こして、ミコトが小さく呟いた
「私も、今日は楽しませてもらったよ。感謝する」
ミコトは言った。楽しかったと。
彼女と一緒に歩いて、お祭りを見て回った。色々思うところはあったが、それが楽しいと感じていたのだと、ミコトは気付いた。
偽ることなく、彼は感謝を告げる。
その言葉を聞いたディアも、目を丸くして驚いた。彼がそんなことを言うとは思っていなかったのだろう。
だが、その言葉が嬉しかったのか、ディアはこの日で一番嬉しそうな顔をして見せた。
「ええ! 私も楽しかったわ! 本当に!」
夕陽が傾く。街が茜色に染まる。その光の中で、ディアが微笑んだ。
一枚の絵画のような一瞬。確かにそれはいい景色だと、彼はそんなことを考えていた。
「そういえばまだ街に留まるのか? 旅の途中なんだろう?」
階段を下りる途中、ミコトが問いかける。その問いかけに少し考えてからディアが振り返る。
「そうね。すぐにとは言わないけど、もう少しだけここで過ごそうと思うわ。お祭りとか街とか、もうちょっと見て回りたいから」
「そうか……」
彼女の答えにふと、ミコトが考え込む。旅をしているというが、彼女の旅の目的を聞いていなかったことを思い出す。
ローグ王国に行く旅の途中だと言っていたが、何をしに行くのかまでは聞いていない。
単純に観光目的の旅かも知れない。実際この街も観光目当てで途中下車したと言っていた。
「まあ、それなら気が済むまでうちで過ごすといい。祭りももう少し続くし、ゆっくりしていきなさい」
「あら? いいの?」
「ああ。うちの家族も反対はしないだろう。その間はセレンとよくしてやってくれ」
同居人が一人増えても数日なら問題はないだろう。それにミコトの家族、特にセレンはディアと仲良くしている。悪くない話だ。
「そうね。セレンさん、可愛い妹さんだものね。今度はセレンさんと一緒に出かけようかしら?」
「ああ、そうしてやってくれ。私と違っていい店を知ってるから、楽しませてくれるはずだ」
すでにセレンとの外出を想像しているのか、ディアが鼻歌を奏でていた。
地上に降り立った二人は教会から出ると、また祭りの喧騒が耳に響いてきた。
「そろそろ帰るか」
「そうね。お腹も空いたしね」
あれだけ食べたのにもう空腹なのかと、ミコトは静かに呆れた。
「あ! ミコトさん!」
その時、警官が一人、声を上げて駆け寄ってきた。
「よかった! ずっと探してましたよ!」
「巡査? そんなに慌ててたんですか?」
ただ事ではない何かをミコトは感じ取った。警官は血相を変えた顔を向けて、勢いよく言い放った。
「セレンさんが、セレンさんが行方不明なんです!」
さきほどまでの楽し気な空気は霧散し、ミコトたちは理解できない様子で唖然とした。




