第6章
「なんだ!?」
何かが破壊されるような大きな音と、ガラスがひび割れたような悲鳴がいくつも聞こえてくる。
祭りや音楽とは違う、明らかな異変が起きている。ミコトたちは急ぎ、玄関へと向かった。
ミコトがドアを開けた瞬間、二人は目の前の光景に息を飲む。
診療所の前の街道で、二頭の馬が暴れていた。火が点けられたように暴れる二頭を、男たちが必死に押さえようと手綱を握りしめる。
そのすぐ横では、横倒しになった乗合馬車と、投げ出された人々のうめき声と悲鳴が、螺旋を描くように響いていた。
「ミコト!」
すでに外に出ていたのだろう。その場にいたマリクが駆け寄ってくる。
「おい! 何があったんだ!」
「馬がいきなり暴れ出して、その勢いで馬車が倒されたんだ! みんな怪我をしている!」
ミコトがもう一度馬車を見る。周りにいた人々が助けようと駆け寄るのを見て、ミコトもそれに続こうと走り出す。
その時、暴れていたうちの一頭が、怪物のような鳴き声を上げる。
その声に驚いた男が、握っていた手綱を放してしまうと、馬は本能のままに走り出した。
竜巻のような馬の暴走を、人々は成す術なく見送る。
その進行方向を見て、ミコトが青ざめる。その先に小さな子供が一人立っており、馬が走ってくることに気付いていなかった。
「危ない! 避けろ!」
ミコトが叫ぶ。子供も気が付いて振り向くが、すでに馬は目の前まで迫っていた。
「……え?」
間抜けな声が上がる。理解できないその光景を、目を見開いて見つめる。
馬が迫ろうとする中、その子供を守るようにして、ディアが駆け寄っていくのが見えた。
何故あなたがそこにいる? どうしてそんなことをしている? 答えの出ない疑問が、ガンガンとミコトの頭で響き続ける。
マリクが何か叫んでいるが、何を言っているか識別できない。すぐ横では、口を押えて絶句するセレンの姿。
ディアは何も考えていないのか、そのまま子供に駆け寄ると、庇うようにして子供を抱きしめた。
「しゃがんで!」
その叫びと同時に、彼女は目を閉じた。子どもだけは守れるように、強く抱きしめながら。
馬は真っ直ぐにディアに向かって走る。その光景にセレンが顔を背ける。
ただミコトだけは目を閉じることなく、その光景を見つめ続けた。
だが、誰もが想像した悲劇は起きなかった。子供を庇うディアに驚いたのか、馬は直前で進路を変えて、ディアのすぐ横を走り抜けて行った。
砂塵と沈黙が虚空を漂う。人々はその光景を前に、ただ呆然と見つめていた。
ディアがおずおずと顔を上げる。助かったことを理解できなかったのか、ただ驚いたような顔で周りを見回していた。
その時、彼女の胸元で、助けられた子供が大声で泣き出す。その声で助かったと知ると、ディアはその子の頭をそっと撫でた。
「大丈夫。もう心配いらないわ」
優しさと慈愛を込めた眼差しが、子供に向けられる。いつもと変わらない微笑みを浮かべ、子供を優しく宥める。
その光景を、ミコトは呆然と見つめた。
大きな事故が起きたことや、大勢の怪我人を出したことが、この時だけ彼の思考からはじき出されていた。
ミコトの中では、ただ一つの疑問が浮かんでいた。
何故あなたは、いつもと変わらず、笑っていられるんだ?
目の前で柔らかく微笑む姿は、いつものディアの姿。
その微笑みを見せていることが、ミコトには理解できなかった。
自分が死ぬかもしれなかったのに、そのことを忘れているかのように笑っていることが、信じられなかった。
何故、笑っていられるんだ?
何故だ? 何故だ? 何故だ?
思考と疑問の沼に絡み取られ、彼はそのまま沈み込もうとしていた。
「兄さん!」
その時、セレンが声を張り上げた。
「兄さん! 早くみんなを!」
「あ、ああ……わかった」
声に呼び戻されたミコトは、事故に遭った人々の救出に向かう。
怪我した人々を見たところ、それぞれ怪我の程度に差はあるが、命に別状はないようだった。
「ミコト! 私はこっちを診るから、お前はあっちを頼む!」
「わかった! セレン! お前は軽傷者の手当てを!」
ミコトたちは協力して、怪我人の治療を始めた。周りにいる人々も協力して、それぞれができることを始めた。
頭から血を流す者や、骨折した者もいたが、ミコトは迅速かつ適切な処置を施していった。
セレンもその場を駆け回り、包帯を手に彼らの傷を癒し続ける。
住民総出の救護は、夕刻まで続けられた。
頭に包帯を巻かれた男が荷台に乗せられると、馬車はゆっくりと走り出す。これから病院に連れて行こうとしていた。
馬車を見送りながら、ミコトはやっと安堵のため息を吐いた。
彼らの必死の治療もあって、幸いにも死者が出ることはなかった。ゆっくり静養すれば、すぐに歩けるようになるだろう。
その時、ミコトの肩をマリクが軽く叩く。
「おつかれさん。よくやった」
「ああ、父さんも」
お互いを称え合う親子の姿に、セレンも疲れた顔で微笑んだ。
救護に加わった街の人々が、お互いの労をねぎらった。その姿は埃だらけで、エプロンに血が付いた女性もいた。
「あ、あの……」
その時、ミコトたちに一人の女性が声をかけてきた。彼女の横には、子供が一人立っていた。
「さきほどこの子を助けてくれた女性はどちらに……? 先生のところの患者さんのようでしたが……」
その子供は、ディアが暴走する馬から守った子供だった。どうやら女性は、その子の母親のようだった。
そういえばと、ミコトは周りを見回す。すっかりディアのことを忘れていたが、彼女の姿がどこにもないことに気付いた。
「ああ……おそらく診療所に戻ってるかと。お子さんは大丈夫ですか?」
「はい。あの人のおかげで怪我もありませんでした。なので、一言お礼をお伝えしたいのですが……」
「わかりました。ちょっとお待ちください」
彼女にそれだけ伝えると、ミコトたちは診療所の中に戻っていった。
「ディアさーん。いませんかー?」
静かな屋内でセレンの声が通り抜ける。すると、食卓のある居間から、誰かが駆け出してくる音が聞こえてきた。
「セレンさん!!」
食卓からディアが飛び出してくると、そのまま弾けるようにセレンに詰め寄ってきた。
「あの子は大丈夫!? あの後お母さんが来たから引き渡したけど!?」
子供のことを必死で訊いてくるディア。それに驚きつつ、セレンは安心させるように微笑みかけた。
「ああ、うん。大丈夫よ。さっきお母さんと一緒に会いに来てくれたから」
その答えに安心したようで、、ディアはホッとして胸を撫で下ろす。
「そう……よかった」
そこには、喜びの吐息が流れていた。
「それよりディアさんは大丈夫? どこか怪我してない?」
「私は大丈夫! 馬も私を避けてくれたし。私より、あの子が無事ならそれが一番だわ。ちょっとびっくりして腰が抜けちゃったから、そのままここに戻っていたの」
子供が無事だったこと。それを無心で喜ぶディアの姿。
自分のことは顧みず、あの子供が助かった。それだけで十分で、それが全てだと、その笑顔が語っていた。
そんな彼女の姿を、ミコトは黙って見ていた。ただ黙って、睨みつけていた。
彼は無言のまま、彼女に歩み寄った。
「? ミコトさん?」
その手が届くところまで近寄ると、ディアは疑問符を浮かべながら、笑みを向けてくる。
そして、ミコトは彼女の胸倉を掴むと、吊るし上げるように彼女を立たせた。
「何をしてるんだ貴様は!!!」
激情が爆発した。ミコトはその顔に憤怒を張り付け、殴るように怒鳴りつけた。
怒鳴り声がディアに叩きつけられる。その声に、セレンもマリクもびくりと身体を震わせた。
ディアは自分が怒られているとはすぐに気付けず、丸くした目をミコトに向けるだけだった。そんな彼女の仕草がまた腹立たしいのか、ミコトがさらに怒鳴りつける。
「子供を庇おうとして自分が危険な目に遭うとか、自分がどれだけ危ないことをしているのかわかってるのか!!」
「えっと……」
ディアは困惑した。子供を助けようとしたことを怒っているのか。それとも危ない目に遭ったことを怒っているのか。
ミコトが何に怒っているのか、彼女にはよくわからなかった。
「えっと、ごめんなさい。ああしないと、あの子が助からないと思って」
「ふざけるな!!」
彼女の言葉がより気に入らなかったのか、ミコトの怒りがさらに激しくなる。
ディアはますます混乱した。彼が何に怒っているのか、どうしていいかわからなかった。
そんな彼女の疑問を察したか否か、ミコトはその想いを一気にぶつけた。
「さっきから『私より』とか、『子供が助かればいい』とか。自分が犠牲になることを前提としている、その考えに腹が立ってるんだ!」
ディアは目を丸くさせた。そんなことを言われるとは想像しておらず、驚きよりも呆気に取られていた。
ミコトはそんなことは気にせず、ひたすら怒鳴り続けた。
「私は患者を絶対治すって決めてるんだ。どんな怪我だろうと、どんな病気だろうと、必ず治すと! そんな私の前で、自分が犠牲になるだと!?」
ミコトは彼女を指差しながら、まっすぐに言い放った。
「私の前で自分を犠牲にするなんて、二度と口にするな!! そんなこと、絶対に許さんからな!! わかったか!!!」
後に残されたのは、沈黙。誰も何も言わず、ただミコトを見つめていた。燃え上がる炎を、遠巻きに眺めているような、そんな感覚。
怒りで呼吸が乱れるミコト。彼に胸倉をつかまれたままのディアは、ポカンとして彼を見ていた。
「おい。わかったのか。変な顔して」
「あ、えっと……」
どう答えればいいのかわからず、ディアは狼狽えていた。しばらくして、彼女はもう一度ミコトに向き直って、おずおずと口を開いた。
「ありがとう……」
自分でも何を言っているのかわからないのか、不思議そうな顔をするディアに、ミコトが不機嫌そうに言葉を返す。
「何でお礼なんだ?」
炭酸が抜けたような空気が流れる。お互いよくわからない感情を持て余し、二人はただ顔を見合わせた。
「兄さん」
その隙を逃さず、セレンが声をかけてくる。
「ほら、外に人を待たせてるから」
「……わかった」
ミコトはディアから手を放すと、そのまま黙って部屋を出て行った。ディアたちはただ、それを見送るしかなかった。
疲れたように息を吐いてから、彼は自室に戻った。
部屋に入った途端、それまで溜まっていた疲れが、ドッと身体を押さえつけてくる。事故が起きてからはずっと救護活動に奔走していたのだ。身も心も疲れ切っていた。
彼が椅子にドカッと座ると、眠気や疲労が一気に襲ってくる。もはやそれに抗う気力のないミコトは、身を委ねるように意識を沈めようとした。
その刹那、彼はディアの顔を思い出す。自分の命が危険だったのに、それでも笑っていた彼女。その笑顔に、ミコトは苛立ちを覚えるのだった。




