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第5章

 翌日、いつものように診療所に立つミコト。目の前には見知った患者が一人。


 患者の腕を取り、怪我をした患部をじっと見つめた。


「あの……先生?」


 しばらくそうしていると、患者から不安そうな声が聞こえた。


「ずっと腕を見てますが、何か問題でもありましたか?」


「……失礼。大丈夫ですよ。怪我もほとんど治ってますし、問題はないでしょう」


 ミコトの様子を怪訝に思いつつも、患者はその言葉にホッとした。


「とりあえず仕事に戻っても無理はしないように。また痛むようでしたら、相談に来てください」


「はい。ありがとうございます」


 そう言って頭を下げてから、患者は診察室から出て行った。


 途端、診療所に静謐が訪れる。遠くからは微かに聞こえるお祭りの音楽。診療所の前を歩く人々の笑い声以外、聞こえるものはなかった。


 その静謐の中で、ミコトは小さく息を吐く。疲れているのか、それとも苛立っているのか。その目には鋭さが光っていた。


「ミコト」


 その時、唐突にマリクが声をかけてきた。


「なんだ。何かあったのか?」


 ミコトが問いかけると、マリクがやれやれと言った様子で近寄り、ミコトの眉間を指差した。


「眉間のシワがいつもより深いぞ。そんな顔をしていると、患者が怯えるぞ」


「…………」


 マリクの指摘に睨み返すも、ミコトは何も言い返せなかった。


「一体どうした? 何か悩みでもあるのか?」


「いや……別に何も……」


 そう答えるミコト。しかし本当は彼自身、その苛立ちの原因はわかっていた。


 昨晩気付いてしまった、ディアの不調の原因。体内電気を使ったことによる身体への負担。そして、それは自分を暴漢から助けるためにやったこと。


 ミコトを助けるために彼女が体内電気を放出したことが、今の彼女の不調に繋がっている。


 診察しないとわからないが、あの電気ショックは確実に彼女の身体、特に心臓に負担をかけているはず。


 どうするべきか、彼は迷っていた。悩みの深さが、そのまま眉間のしわにも表れていた。


 答えの出ない自問を繰り返し、彼の目はさらに鋭くなっていく。


 その様子を見ていたマリクが、苦笑いを浮かべて語り掛けた。


「ミコト、なんだか疲れているみたいだし、休憩がてらディアさんを見に行ったらどうだ? 診療所は私が見ておくから」


「いや、別に身体は悪くないが……」


 そう言い出すミコトを制するように、マリクが手を上げる。


「医者がわざと誤診を出すものじゃない。それは医神との誓いに反するぞ」


 医者として、そして父として向けられた言葉にミコトは押し黙る。そんな彼にマリクがさらに続けた。


「どんな仕事もそうだが、できる限り万全の体調で仕事に臨まないと。今のお前は、万全とは言えないぞ」


 叩きつけられる正しさに、ミコトはつい閉口してしまう。


 その姿にマリクは仕方ないなと笑みを零す。


「昨日ディアさんとも約束しただろう? またお話しようって。患者の言うことを聞くのも医者の仕事だ。さあ、行ってやりなさい」


「……わかった。それじゃ、後は頼む」


 そう言ってディアの元に向かうミコトを、マリクは手を振って見送った。


 病室に向かう途中、ミコトは自分のいたらなさに苛立ってしまう。


 せめてディアの前ではしっかりしないといけないと、乱れた心を正して、ディアの元に向かった。


 そうして病室の前まで来ると、中から楽しそうな話声が聞こえてくる。


 どうやらセレンと何かを話しているようだった。時々セレンが喜声を上げたりして、盛り上がっている様子が伺えた。


「ディアさん、私だ。入るぞ」


「あ、ミコトさん。どうぞ」


 ミコトが中に入ると、二人は机に向かって何かを話し合っていた。


「何か盛り上がっているようだが、何を話しているんだ?」


「兄さんも見て。ディアさんすごいよ」


 セレンが紅潮させた顔を向けながら、机に置かれたものをミコトに見せた。


「これは……絵?」


 机に広げられていたのは、どこかの風景を描いた絵だった。掌より少し大きな紙に、いろいろな風景の絵が目に映った。


 それはミコトも見たことのない風景だった。


「これは……ディアさんが描いたのか?」


 その質問に彼女が弾けるように声を上げる。


「そうなの! これは私が旅の途中で目にしてきた光景よ!」


「ほう……今までの旅で……」


 ミコトが机に置かれている絵の一枚一枚に目を通す。


 地平線の先まで続く黄金色の田園。鏡のように輝く湖と、空に突き刺さるような山の頂。または巨大な建物が肩を並べる近代都市。


 どれも色鉛筆で描かれていて、素朴でありながらも、色鮮やかに描かれていた。


「ね? すごいでしょう? ディアさんの絵、すっごくきれいなんだよ!」


 まるで自分のことのように興奮するセレン。その横ではディアが照れ笑いを浮かべていた。


 ミコトは改めて彼女の絵を見て、ポソリと感想を口にした。


「私は絵に詳しくはないけど……確かにきれいだと思う。それに、見ていて気持ちがいい。これはディアさんが実際に見てきた景色なのか?」


 自分の絵を誉められて嬉しかったのか、ディアがその笑顔の輝きをさらに強くさせた。


「ええ、そうよ! この街に来る途中で立ち寄ったところで見てきたの! ほらこれ!」


 彼女はそれから、その一枚一枚を手に取りながら、これまでの旅の思い出を語り出した。


「これは旅立ってすぐに目にした小麦畑でしょ! こっちはきれいな湖があるって聞いて、見に行ったらこんな景色が見られたの! こっちは初めて目にした街で、こんな大きな建物が並んでいて、びっくりしたのを覚えているわ!」


 ディアが途切れることのない思い出話を語り続ける。まるで止まることのないタイプライターのように、彼女の口は回り続けた。


「本当に……素敵な景色ばかりだったわ」


 そう言って、これまでの旅を噛み締めるように彼女は絵を見つめた。


 実際、彼女の描いた絵はどれも素晴らしかった。そしてそれ以上にミコトが感じたのは、その絵からその景色の空気と香りが感じられた。


 そこに描かれた絵を見ていると、その景色の風が流れてくるように感じられて、その場に立っているように幻想した。


 田園の香り。湖の静けさ。大都市の活況。


 それらの空気が、営みが、その絵から溢れてくる。


 それを眺めながら、その景色に想いを馳せた。この小さな病室で、何枚もの絵がもたらす世界旅行。


 そんなものを幻想するほどに、彼女の絵は素晴らしかった。


「あ、ごめんなさい。はしゃいじゃって。何か用だったかしら?」


 ディアが思い出したようにミコトに声をかける。


「特に用というわけじゃないんだが、様子を見に来た。体調は……良さそうだな」


「ええ。問題ないわ。昨日はごめんなさい。不安にさせちゃって」


 昨日のことをディアは謝るが、それをミコトは首を振って制した。


「気にするな。ただ、大事を取ってしばらくは安静にしてもらう。また昨日みたいなことになったら大変だからな」


「ええ、わかったわ」


 ディアはそう言うと、窓の外に目を向ける。二階から見えるグランツの景色が、その視線の先に広がっていた。


「私の旅っていつも寄り道ばかりなの。楽しそうな場所。素敵な景色があると、すぐに汽車を降りて、その街を散策しちゃうの。人に勧められたり、話を聞いたりして。そうして目にした景色を絵に描いてきたわ。そうすれば、いつでもその景色を思い出せる気がするから」


 これまで見てきた景色を思い出しているのだろう。ディアは目を閉じて、静かに微笑んだ。


「この街もそう。本当は通り過ぎるだけだったのだけど、途中でお祭りがあるって聞いて、ぜひ見に行きたいって思ったの。収穫祭に集まる人たちの笑顔。風と共に流れるワインの香り。街全体が笑っているような光景。その話を聞いてしまったら、絶対目にしたいって思ったわ」


 ディアの話を聞きながら、ミコトはその手に握られた絵に見入っていた。


 今もその作品からは、その世界の風が流れてくるようだった。


 その時、ディアの微笑みがミコトに向けられる。


「本当に素敵な光景だった。それを見ることができたのは、素敵な旅の思い出よ」


 そう言って、彼女はにこやかに笑った。微塵の憂いも感じさせない、爽やかな微笑みを。


 その微笑みを見て、ミコトは別のものを感じ取っていた。


 彼女の微笑みに憂いは感じられない。だけど、その爽やかさの向こう側に、何故か寂しさを感じさせた。


 その寂しさの正体が何なのか、ミコトはそれが気になってしまった。


 しかし、ミコトの思考とは裏腹に、ディアはそんな空気を掻き消すように舌を出した。


「まあ、やって来た初日にあんな目に遭ったのは不運だったけどね」


 小さな舌を出しながら、恥ずかしそうに彼女は笑う。小さな失敗を見られたみたいに。


 それを見たミコトも、呆れたようにため息を吐いた。


「これに懲りたら、もう危ないことはやめておくんだな。次は怪我では済まなくなるぞ」


「ええ、そうね。気を付けるわ」


 その言葉にミコトは頷いてから、彼女に腕を出すよう促した。


「ほら、診察するから腕を出してくれ」


 その言葉に応じて、ディアがその腕を差し出す。ミコトはその腕を取り、診察を始める。


 その傍らで、セレンが何かを思案するように二人を見つめていた。



「……とりあえず問題はなさそうだが、もうしばらくはここで安静にするように。また昨日みたいなことが起きたら、すぐに誰か呼んでくれ」


 診察を終えたミコトがそう伝えると、彼は退室しようと席を立った。


 すると、彼に向かってディアが手を振って笑いかけた。


「ええ! またお願いね!」


 また明日。子供が言うような言葉を楽し気に口にするディア。


 ミコトはそれには何も答えず、横目で見流しながら部屋を出て行った。


 診察室に向かおうとするミコト。その間、彼はディアの容態について考えた。


 問題はないように思える。顔色を見る限り体調は良さそうだし、脈や体温も異常はなかった。


 ただ、どうしても昨日のことが頭をよぎる。


 何の前触れもなく、唐突に苦しみ出すディアの姿。また同じことが起きるのではないか。


 その考えに、ミコトの目はまた鋭くなっていく。


「兄さん」


 思考を繰り返すミコトを呼び止める声。彼が振り返ると、セレンがトテトテと歩み寄ってくるのが見えた。


「どうした? 何かあったのか?」


「えっとね……」


 何かを言おうとして、しかしそれを口にすることを恐れるような、セレンはそんな顔色をしていた。


 妹のその態度を、ミコトも不審に感じる。そのまま待っていると、彼女は勇気を出して声を上げた。


「兄さん。ディアさんを外出させちゃダメ?」


 その一言に、ミコトの目がまた鋭くなる。その場の空気が張り詰めるのを感じながら、ミコトが口を開く。


「……どういう意味だ?」


「言ったとおりの意味。ディアさんをお祭りに連れて行ったらダメかな?」


 セレンの真剣な顔がまっすぐに向けられる。彼女が冗談でそんなことを言うことはないことを、ミコトは知っている。


 だからこそ、彼はその真意を問い質す。


「どうしてそんなことを?」


「だってディアさん。お祭りに行けなくて、寂しそうだから」


 その言葉を紡ぐセレンも、寂しそうな顔をした。それはきっと、ディアから溢れ出す寂しさを、彼女が感じ取ったから。


「ディアさん、ああして笑っているけど、どこか寂しそうにしている。やっぱり楽しみしていたお祭りに行けなくて、残念なんだと思う」


 その言葉にミコトは無言を返す。それはミコトも薄々感じていたこと。


 自分に向かって笑いかけてきたディア。その憂いのない微笑みも嘘ではないだろう。


 だけど、やはりお祭りを見に行けない寂しさはあるはずだ。


 それをすぐ横で感じ取っていたセレンは、その寂しさから救いたいと、兄に詰め寄っているのだ。


 彼女の瞳が真っ直ぐにミコトを捉える。その瞳を見れば、彼女がどれだけ真剣か、ミコトは兄としてよくわかっていた。


「だめだ」


 だからミコトは、それ以上の強さで押し返した。


「どうして?」


 それでもセレンは譲らない。彼女の瞳が、その強さを増した気がした。


「心配なら私もついて行く。何かあれば休ませるし、すぐに連れて帰るから。だから」


「だめだ。許可できない」


 二人を中心に、空気が温度を下げ始める。まるで銃を向け合うような、そんな二人の睨み合い。


「本当に何かあったら、手遅れになることだってある。まだディアさんは療養中だ。無理させるわけにはいかない」


 医者としての当たり前の意見。暖かさも、冷たさも感じさせない、無機質な言葉をミコトは繰り返す。


「お前も見たはずだ。昨日ディアさんが苦しみ出したのを。まだ身体に不調を残している証拠だ。そんな状態で外に出すことを、認めることはできない」


 セレンが押し黙る。兄の言葉が正しいことも彼女は理解している。その正しさの前に、彼女は唇を噛む。


 それでも、彼女はその正しさに歯向かい続けた。


「兄さんは嫌じゃないの? ディアさんに寂しい想いをさせて」


「私がやるのは、患者を治療することだ」


 ミコトが鋭さを持った言葉を言い放った。


「私が嫌だとか、ディアさんが寂しいとか、それは関係ない。私のやることは、患者を治療することだ。誰であっても、それを邪魔することは許さない」


 冷然と言い放つミコト。全てを拒絶するような言葉が、セレンに突き刺さる。まるで氷の壁が前に立ったような、そんな兄の姿。


「感謝もいらない。恨まれてもいい。患者を治療する。私がやるのは、それだけだ」


 その目を見ればわかる。患者を治す。それは絶対に譲れない、彼の意志なのだと。誰であっても、邪魔はさせないのだと。


 ただ、それでセレンが納得するはずもない。彼女は何も言い返さないが、それでもディアのために、その場に踏みとどまった。


 それから二人は睨み合い、対峙する。その場の空気が、氷のように凍結していくような気がした。


 そんな張り詰めた空気を、爆発するような轟音が吹き飛ばした。

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