第2章
ベッドでは女の子が一人、顔を赤くして息を切らせていた。ミコトは少女の額に手を置き、少女のぬくもりを測る。その後ろには、心配そうに眺める親たちの姿。
しばらくそうしていると、ミコトはしっかり頷いてから親たちに向き直った。
「もう大丈夫です。このまま寝ていれば熱も下がるでしょう」
ミコトの言葉に胸を撫で下ろす両親。二人はそれまでの不安を吐き出すように、大きく息を吐いた。
「感染症の危険はないと思います。外からたくさん観光客も来てるので、病気をもらったのかもしれません。診たところ症状は軽いので、安静にしていればすぐ良くなるでしょう」
すぐに良くなる。その一言で緊張も解け、二人に笑顔が戻ってくる。
「ほら、大丈夫だったじゃないの。あんたも大袈裟なんだから」
「そういうお前だって、心配そうにしていたじゃないか……どうしようって」
そう語る夫も、診療所に駆け込んだ時は真っ青な顔をしていた。とはいえ、自分の子供が熱を出していきなり倒れたのだ。彼らの反応も無理はない。
ミコトがそう思っていると、夫がおずおずと頭を下げてくる。
「先生もすいません。夕食を邪魔しちゃって……」
「いえ、気になさらず。夕食なんて、明日食べればいいだけですから」
淡々と答えるミコト。真実そのように考えての返答だったのだが、あまりに淡々としすぎているせいで、怒っているのかそうでないのかわからず、、夫婦はさらに身体を小さくさせた。
「それでは私はこれで。何かあったら、いつでも呼んでください」
そう言ってミコトは、その場から立ち去ろうとした。
「……先生」
消えてしまいそうな小さな声が、ミコトを呼び止める。彼が振り向くと、ベッドで寝ていた少女が、潤んだ目で彼を引き留めていた。
「先生……私、お祭りに行けるかな……?」
途切れそうな吐息と共に、そんな言葉がミコトに向けられた。
叱られるのを怖がっているようだった。病気で寝込んでいるのに、それで遊びに出たいなどと。そんなわがままを言ってはいけないと、子供心にもわかっているはずだ。
それでも、彼女はお祭りに行きたくて、そんなことを口にしてしまった。
ミコトの目が少女をじっと見つめる。その目を少女もじっと見つめ返す。そんな二人のやりとりを、親たちはハラハラと見つめていた。
少しの間そうしていたかと思うと、ミコトがゆっくり口を開いた。
「お祭りに行きたいなら、先生と約束しなさい。明日は一日、ゆっくり休むこと。そうしたら元気になって、お祭りにも行けるようになる。いいね?」
感情も抑揚もない、暖かさも冷たさも感じない、淡々とした言葉。
ただ、その言葉が少女の耳には違う響きに聞こえたのか、彼女は嬉しそうに微笑みを返した。
「うん……約束する。ありがとう、先生」
そう言って少女は目を閉じる。今も寝苦しそうだが、その寝顔は安らかなものに変わっていた。
それを見届けたミコトは、今度こそ立ち去ろうとした。
「先生、ありがとうございました」
帰ろうとするミコトに母親がお礼を伝えた。
「いえ、それより病気が治ったら、お菓子でも買ってあげてください。きっとあの子も喜ぶでしょう。それでは」
そう言って歩き出すミコトの背中に、母親はもう一度頭を下げるのだった。
すっかり夜が深くなったグランツの街。ミコトの身体が、静寂と藍色の中に溶け込んでいく。
静寂の海の中を一人歩く。まるで世界に彼一人だけになったような、そんな感覚。
ふと、遠くから祭りの喧騒が微かに聞こえてくる。歓楽街から流れるその音に聞き入るミコト。
今夜も酒に酔って怪我人が出るかもしれない。嫌な想像にミコトの顔が歪む。
その合間、ミコトはさきほどの少女との会話を思い出す。お祭りに行くために自分と約束してくれた少女の微笑み。
あの約束は、きっとどんな薬よりも少女の病に効くだろう。
お祭りも悪いことばかりじゃない。ほんの少しだけ、ミコトの心も穏やかになった。
「きゃああああ!」
その穏やかな心も、一瞬の悲鳴によって切り裂かれてしまった。
ミコトが辺りを見渡す。明らかにただの悲鳴ではない。それは悪意とか殺意とか……そんな恐ろしいものを前にした時の、本能的な叫び。
ミコトは何も考えず、声が聞こえた方へ駆け出した。
普段は平和な街だが、やはりお祭りになれば犯罪も増えてしまう。
通り魔か強盗か。考えればキリがない。
はっきりしているのは、誰かが危険な目に遭っているということ。ミコトは考える暇も惜しくて、がむしゃらに走り抜けた。
ミコトが向かった先は、人気の少ない街の郊外。そこから悲鳴が聞こえてくる。ミコトが郊外に繋がる角を曲がろうとして。
「きゃ!」
そこで一人の少女と鉢合わせした。
「すまない。大丈夫か?」
ミコトがぶつかって来た少女を見た。彼女の顔は何かに怯えていて、明らかに恐怖の色に染まっていた。
「失礼、何が……」
そこまで言いかけたところで、少女の後ろから覆面の男が二人。彼女を追ってやって来るのが見えた。その手には、ギラリと光るナイフ。
それだけで十分だった。状況を把握したミコトは、少女を庇うように彼女の前に立ち、男たちと対峙する。
「大丈夫か!」
「は……はい……」
途切れ途切れの呼吸に混じって、小さく聞こえてくる声。どこから逃げてきたのか、額に汗がにじんでいた。
男たちはナイフを構えてミコトを睨む。そんな彼らを睨むミコトの目が、鋭さを増す。
「お前たち、何が目的だ……」
反応を伺うようにミコトが問いかけると、男たちがナイフを向けてきた。
「そこをどけ。俺たちはそこの女に用がある」
男たちの脅しを、ミコトは無言で睨み返す。その無言を受け取った男たちが一歩前に出る。
脅しが本気に変わったことを感じ取り、ミコトは後ろにいる女性に声をかける。
「私から離れず、背中に隠れているんだ。いいね」
「えっと……」
怯えた声が聞こえた瞬間、男たちが一気に駆け出してきた。
男たちが描く綺麗な一閃。ナイフの軌跡が幾重も虚空に流れ、幾何学的な軌道を描いていく。
「くっ……!」
それら男たちの殺意を、ミコトはかろうじて避け続ける。自分たちの攻撃がかわされているとは思っていなかったのか、男たちが明らかに動揺していた。
対してミコトも余裕があるわけではない。女性を庇いながらの回避行動は、想像以上に負担であり、誰かを守りながらでは反撃もままならなかった。
男たちに焦りがあるように、ミコトにも迷いが出ていた。このまま助けが来るのを待つか、隙を窺って女性と一緒に逃げるか。
その迷いが一瞬の隙をミコトに生じさせた。男たちはそれを見逃さず、必殺の一閃を繰り出してきた。
それに気付いたミコトは、咄嗟に診察鞄を盾にして、その一撃を防いだ。
しかし、それは陽動。防御姿勢を取ったことでバランスを崩したミコトに、もう一人の男が本命を繰り出す。
そうして、美しい光の軌跡がミコトを襲った。
「う、ぐう……!」
呻き声はミコトのもの。左腕から鮮血が流れ出る。ミコトはその痛みに耐えながら、もう一方の手で傷口を押さえた。
なんとか致命傷には至らなかったが、左腕から真っ赤な血が流れ出し、それを押さえるのに必死になった。
男たちはミコトから距離を取り、ナイフを構えたままミコトの様子を窺う。
少しだけ間が開いたことで、ミコトが息をつく。男たちとの間に沈黙と緊張が流れる。
「だ! 大丈夫!?」
流れ出る血に少女が悲鳴を上げる。ミコトは彼女を安心させるために声をかけた。
「大丈夫だ……心配するな」
それでも少女の不安を癒すことはできず、彼女はミコトの左腕を心配そうに見ていた。
さすがに血を流しすぎたか、ミコトの息が上がる。これ以上女性をかばえるか、ミコトにも余裕がなかった。
その様子を見て好機と取ったか、男たちがさらに前に出る。
そうして構え直した瞬間に、男たちが全て終わらせようと走り出した。
らしくない舌打ちをしてしまう。ミコトはせめてもの抵抗に、自分に迫ってくる男たちを見据える。
一人がミコトに向けてナイフを突き出す。それが見えた時、ミコトが診察鞄を持ち上げ、思い切り相手に投げつけた。
男にぶつかった鞄から診察器具が飛び散り、男を狼狽させる。
それと同時に、ミコトの死角からもう一人が突撃してくる。
潜り込むように仕掛けてくる男の顔目掛けて、ミコトは大きく蹴り上げた。
「があ!」
その蹴りに男がもんどり打つ。後はもう一人を撃退して逃げ出そう。
そう思い振り返ったミコトの目には、もう一人が突進してくるのが見えた。
間に合わない。相手のナイフが自分を貫こうとするのが見える。
もう遅い。そう思った時には、本能が命じるままにミコトは向かってくるナイフに身構えていた。
「……は?」
その時、ミコトは自分の目を疑った。さっきまで彼の後ろにいたはずの少女が、ミコトを庇うように二人の間に割って入るのが見えた。
何で自分の前に出る? 何故自分を庇おうとしている? 一瞬のうちにいくつもの疑問が、ミコトの中で繰り返される。
それら疑問に誰も答えるはずもなく、男のナイフが少女に向けられた。
ナイフの一閃が走ったかと思うと、少女の右腕から鮮血が飛び散る。
もうミコトは何も考えられなかった。彼は無我夢中で彼女に駆け寄ろうとした。
だが、ミコトが目にしたその光景は、あまりに奇妙なものだった。
傷付いた彼女は傷を庇うどころか、そこからさらに一歩前に出る。彼女はその細い両腕で男の腕を掴むと、抱き寄せるように自分の方へ引き寄せる。
不可思議な行動に男も動揺してしまい、されるがまま。ミコトも何が起きているのか理解できなかった。
「何を……」
してるんだと言おうとしたが、最後まで言い切ることはなかった。
その刹那、世界から色がなくなるほどの閃光と、身体の核を揺らすほどの轟音が、グランツの街外れに吹き荒れた。
「があああああああ!」
あまりにも奇妙な光景だった。自分を襲おうとした男を少女が捕まえると、彼女の腕から何度も青白い閃光が爆ぜる。その光に触れた男が身体を震わせながら、人とは思えない叫び声をあげていた。
聖なる光に身を焼かれる罪人。そんな聖書の一節を思わせる光景。
数時間にも感じられた刹那が終わると、閃光から解放された男が気を失い、その場に倒れこんでしまう。
一体何が起きたのか、ミコトは目の前で起きたことを理解できなかった。何か説明しようと思考を回転させるが、納得できる説明などできるはずがなかった。
その時、女性がミコトに振り返る。風で帽子が吹き飛び、その長い髪が下ろされる。
ミコトはその光景を、ただ呆然と見つめた。
少女の身体と銀色の髪に、先ほどの青白い光が、彼女を守るように流れていた。
後から思えば、自分はおかしなことを考えていたとミコトは思い返す。
青白い光を身に纏うその姿を、ミコトは不覚にも、神々しいと感じていた。
ミコトが呆然とする中、光にやられた男の元に相棒が駆け寄る。
「大丈夫か!」
「う……」
まともに返事もできない男からは、かろうじて呻き声だけが上がっていた。
「どうした! 誰かいるのか!」
その時、遠くから声が聞こえてくる。さきほどからの騒ぎを聞いて、誰かがやって来るのがわかった。
「くそ!」
さすがに退き時と判じた男は相棒を担ぎ、夜闇に溶け込むようにその場から逃げ出していった。
ミコトが安堵のため息を漏らす中、現れたのは巡回中の警官だった。
目の前の光景に警官は狼狽えるも、血を流しているミコトを見つけて駆け寄る。
「先生! 大丈夫ですか!?」
「はい……私は大丈夫。それより彼女を。あの人も怪我をして……」
そう言いかけようとした時だった。こちらを見つめていた女性の身体が、糸が切れたよう倒れるのが見えた。
ミコトは警官の腕を振り払い、少女に駆け寄る。すぐに脈や呼吸を診たが、特に問題はない。意識を失っているだけ。
ただ、男に傷つけられた右腕からは、今も血が流れていた。
「すいません! こちらの女性が怪我をしている! 診療所まで一緒に運んでくれ!」
「わ、わかりました!」
ミコトは彼女を運ぼうとその体を抱き起こす。
その時、彼女に触れていた手から、パチッという小さな音が聞こえた。
「患者を寝室に運べ! 傷薬と包帯の用意を!」
「わかった!」
夜の診療所でマリクとセレンの声が響く。そこへミコトが気を失っている女性を運び入れる。
診療所に戻ったミコトはすぐにマリクたちを起こし、何が起きたかを説明した。その血生臭い出来事にマリクは顔を青くしつつも、すぐに治療の準備を始めてくれた。
少女を運び終えると、ミコトは少し離れて廊下に腰を下ろした。とにかく必死だったためか、そこで初めて、自分が疲弊していることに気が付いた。
ミコトが息を切らしていると、セレンが心配そうに駆け寄り、その傷付いた左腕に優しく触れた。
「兄さんは大丈夫? まだ痛むんじゃ……?」
「大丈夫だ。痛みも引いているし、包帯を巻いたら私も手伝いに行く。それまでは頼む」
そう言って、彼は自分の腕に包帯を巻き始める。その乱暴な処置の仕方に苦笑いを浮かべながら、セレンは少女の待つ病室に向かった。
「先生、本当に大丈夫ですか?」
ここまで一緒に来てくれた警官が声をかけてきた。
「私は大丈夫。怪我も意外と深くありませんし、すぐに治るでしょう」
「それならいいのですが……本当なら聞き取りをはじめたいところですが、それも難しそうですな。本官は帰りますので、何かあればご連絡をお願いします」
ミコトが感謝を告げると、警官はそのまま診療所を後にした。
ミコトの深いため息が流れる。それと同時に、傷付いた左腕が熱くなるのを感じた。
腕を押さえながら、ミコトはさきほどまでの出来事を思い起こす。
夜中に診療を出たと思ったら、賊に襲われる女性に出くわし、それを守ろうとしたら、彼女は青白い光を放って相手を撃退した。
改めて言葉にしてみたが、やはり理解できない出来事だった。目の当たりにしたミコトでさえも、まだ信じられないでいた。
たくさんの疑問が浮かぶが、答えが出るはずもない。ミコトの中で解答のない自問が繰り返される。
「兄さん」
思考の沼に沈み込みそうになるのを、セレンが呼び戻した。
彼女を見て、その表情にミコトは首を傾げる。何故かカリンの顔は青ざめていて、声も震えていた。
「どうした? 何かあったのか?」
不穏なものを感じ取ったミコトは、警戒しながら声をかけた。
「こっちに来て。早く」
妹の反応を不審に思いつつ、言われるままにミコトは彼女について行った。
病室に入ると、そこには同じく呆然と立ち尽くすマリクがいた。
「どうした? 何があった?」
「あ、ああ……患者の怪我を診ようとしてたんだが……とにかくお前も見ろ」
マリクがわずかに横にずれる。そして、そこにあるものをミコトに見せた。
「……は?」
ミコトから掠れた声が漏れ出る。ただその声には、いろいろな感情が詰め込まれていた。
ミコトの目の前で、ベッドに横たわる女性の姿。その姿を、ミコトはこの世ならざるもののように見ていた。
ベッドに横たわり、傷を診るために服を脱がされた女性の身体は、至る所に傷があった。
両腕、肩口、お腹にも。おそらくスカートの中も同じだろう。
しかしそれ以上に、ミコトは彼女の右腕から目が離せなかった。
いや、正確には『彼女の右腕になっているもの』と言うべきかもしれない。
彼女の右腕には手術の縫合跡が残されていて、その傷より下は、明らかに彼女のものとは違う腕が縫い付けられていた。
何だこれは? 私は何を見ている? 一体何が起きているんだ?
彼の中で、言葉にならない疑問がいくつも浮かんでくる。溢れ出す疑問の濁流に襲われ、意識が溺れそうになる。
ミコトは思う。今夜のことは、きっと誰に言っても信じてもらえないだろう。
自分が出会った少女が、体中ツギハギだらけだったなんて。




