第12章
この街の郊外に、一つの廃墟があった。それはこの街に古くからあるワイナリーで、かつては多くの人が働いていた。
しかし、新しいワイナリーが建てられてからはここも閉鎖されてしまい、そこがワイナリーだったことを語る人も少ない。今はただ、朽ちていくだけの廃墟になり果てていた。
その廃墟を、ディアが一人歩いていく。
いつもは地上を照らしてくれる月も姿を見せず、いつもより夜が濃くなっているように思えた。
長い間放置されていたせいか、敷地内は荒れに荒れていた。誰も気に留めていないため、所々廃材が散乱していた。
そんな場所をデイアがゆっくり歩いていくと、目の前に一際大きな建物が見えてきた。
大きな横開きの門が備え付けられた建物が、ディアを誘うようにその場で佇んでいた。
もしかしたら怪物が潜んでいるかもしれない。そんな想像すらさせる建物を睨みつけながら、彼女はその建物に歩を進めた。
中に入ると、そこは全くの異界。ただ真っ暗で、人の息吹も生活の香りも感じられない空間。
それなのに、彼女は確かに感じていた。そこに何かがあることを。
それは有体に言って、悪意と呼ばれるものだった。熱が通っているようなものではなく、温度の感じられない無機質な毒物。
息を飲むディア。彼女は暗闇をかき分けるように歩き続けた。
「止まれ」
その時、くぐもった声が聞こえてきた。ディアは目を凝らしてみるが、闇が深すぎて人がいるようには見えなかった。
「……約束通り一人で来たわ! セレンさんはどこ!」
喧嘩を仕掛けるような言葉を投げつける。すると、奥の方でポウっと小さな光が浮かび上がった。
そこには男が立っており、その傍らには、セレンが眠るように椅子に座っていた。
「セレンさん!」
「動くな」
走り出そうとするディアを男が声で制した。ナイフのように鋭いその声に、ディアがその場で立ち止まる。
「その場で止まって手を上げろ」
ディアは言われたとおりに両手を上げて立ち止まる。それでも男を睨むことはやめなかった。
「セレンさんは大丈夫? 何もしていないでしょうね」
「安心しろ。薬で眠らせてあるだけだ。傷一つつけていない」
信頼できない相手なのに、不思議とその言葉にディアは安堵した。
ディアが男を見据える。すると、男の顔を見て彼女が気付く。
「あなた……私を襲った人ね?」
ディアはその男に見覚えがあった。数日前、男たちに襲われてミコトに助けられた夜。その時、彼女を襲った二人のうちの一人が、目の前の男だった。
「覚えていてくれて光栄だよ」
覆面の下で、男がニィッと笑みを浮かべる。暖かみを感じない笑みを睨みながら、ディアはその手に小さな紙切れを掲げた。
「約束通り一人で来たわ。だからセレンさんを帰してあげて」
彼女の手に握られていたもの。それは一枚の手紙だった。
ミコトが病室から出ていった後、ディアのいる病室に窓から何かが投げ込まれた。彼女が見ると、それは石に括りつけられた手紙だった。
彼女がその紙を取ってみると、そこにはこう書かれていた。
セレンを助けたければ、一人で廃工場に来い、と。
「女の子を誘いたかったら、もう少しオシャレにしてほしいわ。こんなやり方じゃ、誰もときめかないわよ」
呆れたような顔で愚痴をこぼすディア。それを男は、ニヤリと笑い飛ばす。
「悪いな。こういうことは不得手でね。お誘いに応じてくれて、感謝するよ」
自分の目論見通りに進んだことを、男は満足げに笑っていた。その顔を睨みつけながら、ディアはもう一度叫んだ。
「セレンさんを解放しなさい。家に帰してあげて」
「それはあんた次第だ。あんたが言う通りにしてくれれば、この娘は帰してやる」
男はセレンを人質にしている。この状況でディアに拒否できるはずがなかった。
「わかったわ……だけど、あなたの望みは何? 私、あなたが欲しがりそうなものは持っていないのだけど?」
ディアがそう問いかけると、男は怪訝そうな顔をした。
「あんた、自分のことを何も知らないのか?」
「……? 私が何?」
今度はディアが首を傾げる番。思い当たる節のない彼女は、ただ困惑するしかなかった。
「本当に何も知らないんだな……あんた、こっちの世界じゃ高額な懸賞金をかけられているぞ」
「……私に懸賞金?」
懸賞金なんて、本来犯罪者にしか付けられないものだ。もちろんディアが犯罪を犯したということはなく、懸賞金をかけられるような心当たりは皆無だった。
そんな彼女の疑問を察したのか、男はさらに続けた。
「俺たちの世界……まあ裏社会ってやつだな。そこではこんな噂が流れているんだ。死んだ人間が歩いているとか、死んだはずの少女が生きているとか、死なない人間がいる、とかな」
ディアの身体がぴくりと反応する。死なない人間という言葉に、彼女の心臓がドクンとはねる。
そんな彼女に男はさらに続ける。
「裏社会にはいろんな趣味の人間がいてな。絶滅したはずの動物や、巨人の死体とか、そういうものを集めたがる趣味人がいるのさ」
男はそう言うと、ディアに向かって指差した。
「あんたにはそういう金持ちから、巨額の懸賞金をかけられているんだよ」
それを聞いた時の感情がどのようなものか、ディアにはわからなかった。悲しいとか怒りとかではない。ただ呆れていたのかもしれない。
考えて見れば、全く噂が立たないはずがなかった。知り合いが少なかったとは言え、ディアのことを知っている人も少しはいただろう。彼らが死んだはずのディアを見たら、みんな同じことを考えたに違いない。
『死んだ人間が生き返った』と。
その噂が広まったことで、彼女に懸賞金をかける者まで現れたのだ。
そこまで言われればわかる。男の目的が何なのか。
「つまり、あなたの目的は……」
「そうだ。あんた自身さ」
ディアにかけられた懸賞金こそが彼らの目的。ディアを連れ去り、支払い主から懸賞金を受け取ろうとしているのだ。
「それでセレンさんを人質にしたわけね。懸賞金目当てに」
「そう睨むなよ。俺も必要以上に人を傷つける気はないんだ」
言い換えれば、ディアにかけられた懸賞金は、セレンを人質するだけの価値があるということだ。そして、金額次第では血を見ることもあると、暗に語っていた。
「あんたにはこのまま一緒に来てもらう。抵抗さえしなければ、この子は家族の元に帰してやる。それと、変な魔術は使うなよ。使えば無事に済まないからな」
男の言葉にディアが怪訝そうな顔をする。
「魔術? 何のこと?」
「あの夜、魔術か何か知らないが、変な光を使っただろう。あれのせいで相棒も身体を痛めたままなんだからな。まったく」
男の憎々し気な顔にディアが得心する。あの夜はもう一人いたはずだが、どうやらその一人はディアの電撃を受けて動けない状態のようだ。
「とにかく、あんたが抵抗さえしなけりゃみんな丸く収まるんだ。大人しくついて来い。いいな」
「……わかったわ」
両手を上げた姿勢のまま、ディアは男に近寄る。
今も眠ったままのセレン。これで彼女が助かるのなら、それで十分だった。
自分に懸賞金をかけたという金持ちが、彼女をどう扱うかわからない。でも、どうなっても構わない。これでセレンが救えるのなら、悪くない取引だと思った。
ただ、彼女は一つだけ気がかりがあった。
自分のこの決断を、あの人はすっごく怒るだろう。最後の最後に怒らせることをしてしまったことが、彼女には申し訳ないと思った。
「……何をやってるんだ」
そう思うと、今もあの人の怒鳴り声が呼び起こされて……。
「何をやってるんだ、貴様は」
そんな聞き覚えのある声が、廃工場に響いた。
まさか、そんなはずはないと彼女が振り返る、それが気のせいではないことを彼女は思い知った。
肩で息をしながら、睨みつけてくるミコトの姿があったのだから。




