王子の家庭教師と、物語の始まり
「王子様。これからはどのようなお名前でお呼びすればよろしいですか?」
鏡の前で自分の新しい身体を確かめている元王女に、セラフィーナが尋ねた。
すると、彼は自らの引き締まった顎に手を当て、低く響く声で答えた。
「それについては、あらかじめ考えていたのだ。……エステル。これからはエステル王子と呼んでほしい」
「分かりました。みんな聞いていたね? 王子様の名前はエステルだよ」
セラフィーナが振り返り、アルノーと、そして控えていたレオナに伝える。
さらにセラフィーナは、にやりと意地の悪い笑みを浮かべ、エステル王子に向き直った。
「さて、エステル王子。せっかく男になれたとはいえ、中身はまだ女性だ。男としての立ち振る舞いや、王族男子としての基礎知識が必要でしょう? ……ご安心なさい。うちのメイドのレオナがお教えしますよ。不思議なことにねぇ、このメイド、なぜだかそういうことに『もの凄く』詳しいのですよ」
意味深に目を細めるセラフィーナの言葉に、エステル王子はパッと表情を明るくした。
「おお、それはありがたい! 男としての所作はもちろん、身体的なことや生理的なことも初めてのことばかりだからな。レオン……いや、レオナをつけてくれるのは、こちらとしても願ってもないことだ」
こうして、奇妙なマンツーマンのレッスンが始まった。
レオナは常時エステル王子に付き従い、王族男子としての歩き方、座り方、公の場での受け答えなどを、懇切丁寧に解説しながら教えていった。果ては、夜会でのダンスで女性をスマートにリードする方法まで、完璧に叩き込んでいく。
しかし、元々は「男になりたくて性別を変えたわけではない」エステルだ。
慣れない男性の身体や、押し付けられる男としての役割に、時には戸惑い、激しい自己嫌悪に陥ることも少なくなかった。
「……私は、本当にこれで良かったのだろうか」
頭を抱えて座り込むエステル王子の隣には、いつもレオナがいた。
「大丈夫です、エステル様。あなたのその苦悩も、すべては国を、民を守るためのもの。その気高さは、どんな男よりも男らしいと、私が保証します」
かつて自分も同じように「性別の変化」に戸惑い、それを受け入れてきたからこそ、レオナの言葉には強い説得力があった。常に寄り添い、優しく支えてくれる美しいメイドに、エステル王子が惹かれていくのは、あまりにも自然な流れだった。
レッスンが始まってからしばらく経ったある日のこと。エステル王子はレオナの手をそっと握り、真っ直ぐに見つめた。
「レオナ。……私と一緒に、ヴァルデリア王国に来てくれないか?」
「えっ……」
唐突なプロポーズのような言葉に、レオナは驚いて目を丸くした。
「で、ですが、私のような『元・男』がエステル様につき従って王国に参ったら、国民から反感を持たれるのではありませんか? 出生の怪しいメイドなど……」
「そんなことはない!」
エステル王子は、見事なまでに男らしい笑みを浮かべて胸を張った。
「『旅先で急病に掛かり、この施療院で療養していた間、献身的に看護してくれた美しいメイドに王子が惚れ込んだ』――そう説明するつもりだ。どうだ?」
「まあ、そんな……っ」
レオナはポッと頬を赤く染め、俯きながらも、どこか嬉しそうな表情を浮かべている。
「国民というのはね、いつだってこういうロマンチックな物語に飢えているものさ。きっと大歓迎される」
二人の間に流れる甘い空気。
それを特等席で眺めていたセラフィーナは、わざとらしくこれ見よがしなため息をついて、パチリと算盤を叩いた。
「はいはい、分かりました。これ以上ここにいられると施療院の風紀が乱れるから、何処へでもいいからそのメイドを連れて早く出ていってちょうだい!」
「セラフィーナ様、私に人生というものを与えていただきありがとうございました」とレオナは大きな目に涙を讃えてセラフィーナに感謝の言葉を伝えた。
ぶっきらぼうな言い方だったが、それがセラフィーナ流の、照れ隠しの門出の祝いだと誰もが分かっていた。
レオナはエステル王子の隣で、施療院の仲間たちに向けて、これまでにないほど幸せそうに微笑むのだった。




