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「お前は、必ず、なる」

南へ向かう道は、東の湿地帯とはまるで違っていた。

足元の土は乾いて固く、踏むたびに低い音を立てる。


遠くまで続く草原の先には、広い空とくっきりとした地平線が見え、湿った空気はもうどこにもない。


アルは揺れる馬車の中で図鑑を広げ、湿地帯で書き留めたスケッチにペンを走らせていた。

祖母のメモと照らし合わせながら、新しく気づいた特徴を細かく書き足していく。


「集中してんじゃん」


向かいの座席からルカンが覗き込んできた。


「うん、忘れないうちにまとめておきたくて」


アルは無意識に図鑑を自分の方へ引き寄せる。


「見せろよ」


「ちょっと待って、今書いてるから」


「いいから、見せてみろよ」


「待ってってば」


ルカンは待たなかった。

身を乗り出し、図鑑の端を指先でつまみあげる。


「引っ張らないでよ」


「引っ張ってない」


「引っ張ってる。ページが寄ってるもん」


「少し手前に引いてるだけだ」


「同じでしょ」


アルが図鑑を死守しようと抱え込んだとき、ルカンがバランスを崩して座席の肘掛けに手をついた。

カチ、と何かに触れたような小さな音が響く。

やがて、馬車がゆっくりと左に傾き始めた。


「……あれ?」


アルが窓の外を見る。

景色がさっきと違っていた。

正面に見えていた地平線が、いつの間にか右側に移動している。


「ねえ、ルカン」


「なんだよ」


「違う方向に行ってる。どんどん左に曲がってるよ」


「はあ?」


ルカンも窓の外に目をやり、しばらくのあいだ無言になった。


「……もっと早く言えよ」


「今気づいたの」


ルカンは小さく舌打ちして、御者台の方へ移動した。

術式を確認し、手早く組み直していく。

馬車は大きな弧を描きながら、ようやく元の進路へと戻り始めた。


「直った?」


「直った」


「よかった。どのくらいずれたかな」


「大してずれてない。誤差の範囲」


「ほんとに?」


「……疑り深いな。ちゃんと戻ってるよ」


ルカンが座席に戻ってきて、アルは再び膝の上の図鑑へと視線を戻した。

さっき引っ張られた箇所が気になり、指で押さえてみる。


「何に触ったの?」


「さあ。知らない」


「知らないわけないでしょ」


「そもそも触ってないし」


「触ってた。カチって言ったもん」


「気のせいだな」


「絶対触った」


ルカンはもう何も言わなかった。

窓の外に視線を逸らして、気だるげに欠伸を一つ。

アルは小さくため息をついて、書きかけの文字の続きを埋めていく。


しばらく、静かな時間が流れた。


聞こえてくるのは馬車の揺れる音と、アルが図鑑にペンを走らせる音だけだ。

ルカンは座席に背を預け、流れていく草原を眺めるともなく眺めていた。


「なあ」


「ん?」


「セルノの町の、魔法道具のことだけど」


「うん」


「お前が触ったら止まったろ?」


アルはペンを止めずに、さらりと答えた。


「止まったね」


「なんで止まったんだと思う」


「わかんない。なんとなく、あそこに触ればいいような気がしたから、触ったら止まった」


「……ふーん」


ルカンはそれ以上は追及せず、窓の外に視線を戻した。

アルもまた、無言でペンを走らせる。


しばらくの間をおいて、ルカンが独り言のように呟いた。


「……止まるもんかね、普通」


アルには聞こえていなかった。

図鑑の余白に、さっき見つけた小さな花の絵を、書き足すことに夢中だったから。



◇



昼を過ぎたころ、前方に大きな町が見えてきた。


地図には『カレッタ』と記されている。

南の物流を支える商人の町らしい。


遠目からでも、先日立ち寄ったセルノの町とは規模が違うことがわかった。

建物の数が多く、何より人の気配が濃い。


街道には何台もの荷馬車が列をなし、商人らしき男たちが威勢のいい声を上げながら荷を担いで行き来している。


町の入り口に掲げられた色鮮やかな旗が、乾いた風にパタパタとはためいていた。


「賑やかだね!」


「商人の町だからな」


アルは窓から身を乗り出し、背後から聞こえる「落ちるぞ」という注意など聞こえていないように、流れていく景色を瞳に映していた。


「大きな市場、あるかな」


「あるだろうな」


「珍しい薬草も売ってるかな」


「さあな」


「遺跡の情報を持っている人、いるかな」


「さあ」


「また『さあ』って言った」


「わからないものは、全部『さあ』だ」


馬車が町の門に差し掛かった。

門番らしき男が手を挙げて馬車を止める。

ルカンが窓から顔を出し、手慣れた様子で短いやり取りを済ませると、すぐに通行を許可された。


町の中は外から見ていた以上の熱気に包まれていた。

通りの両側には隙間なく露店が並び、客と商人の掛け合いがそこかしこで飛び交っている。

食欲がわくような香辛料の良い香りに、どこかで肉を焼く香ばしい煙が混ざり合って漂っていた。


「すごい、活気があるね」


「うるさいだけだろ」


「そこは『賑やか』って言ってよ」


「同じ意味だ」


「違うよ」


「そうか。うるさいな」


アルは可笑しそうに笑った。

ルカンは眉間に皺を寄せたまま、馬車を進めていく。


宿を確保し荷物を預けた二人は、さっそく市場の喧騒へと繰り出した。



◇



通りに入った途端、押し寄せるような人の波に飲まれる。

アルは目を輝かせ、色とりどりの露店に端から順番に目を通していた。


「いいか、絶対に迷子になるなよ」


「ならないよ」


「お前は、必ず、なる」


「ならないってば」


ルカンは深いため息をつき

人混みへ視線を向けた。



——わずか五分後、そこにアルの姿はなかった。



露店が並ぶ一角に、見慣れない葉をつけた植物が積まれていた。

その前にしゃがみ込み、葉をまじまじと観察している。


「これ、なんていう植物ですか?」


声をかけると、店番をしていた腰の曲がった老婆が顔を上げた。


「南の乾いた土地で採れる草さ。薬になるとは聞いてるけど、あたしゃ詳しくは知らないねえ」


「買えますか?」


「一束で銅貨二枚だよ。持っていくかい」


アルは迷わず財布を取り出す。


買ったばかりの葉を一筋ちぎり、鼻先に近づけて匂いを確かめる。

その次に、口に入れた。

少し苦くて、その奥にかすかな甘さがある。


祖母の残したメモに、これと似たような特徴の記述があったはずだ。


「よし……」


鞄から手早く図鑑を取り出す。

そして膝の上で、新しく手に入れた草をスケッチし始める。

葉の色、形、口当たりは、悪くない。

苦味と微かな甘さ——

アルはもう、周りが見えていなかった。



◇



一方、ルカンは市場の喧騒を離れ、人通りが少し落ち着いた一角にいた。

魔法道具を専門に扱う小さな露店の前で、棚に並んだ道具を眺めている。


店主が「珍しいものが入りましたよ」と声をかけてくるが、ルカンは特に返事をしなかった。


店内をざっと見てから、一つの道具を手に取る。

それは小型の術式刻印器で、指先ほどの大きさにもかかわらず、驚くほど細工が精巧だった。


「それは南の腕利きの職人が作ったものです。術式の精度が、そこらのものとは格段に違いますよ」


「ふーん」


ルカンは道具を光にかざし、複雑な模様を描く線をなぞるように目で追った。

しばらくの間、その感触を確かめるように沈黙していたが、やがて静かに棚へと戻した。


「お買い上げにはなりませんか?」


「いらない」


それだけ言って踵を返したところで、ようやくアルの姿が消えていることに気づく。


短く舌打ちをして、人波に目を凝らした。

が、薄茶のセミロングは見当たらない。


露店の並びを端から確認していく——植物か、薬草か、珍しいものがあれば必ずそこにいる。



◇



市場の入り口付近で二人が合流したのは、それからしばらく経ってからだった。


「どこに行ってたの?」


「こっちの台詞だ」


「まあいいや、それより見て! 珍しい植物が買えたんだよ」


アルが嬉そうに紙に包まれた一束を掲げて見せた。


「南の乾燥地帯に生える草。おばあちゃんのメモに似た記述があったんだ」


「へえ、良かったじゃん」


「ルカンは何してたの?」


「散歩。ついでに変なガラクタ見てた」


「変なガラクタ? なにそれ、気になる」


「お前よりは変なものじゃない。気にするな」


「失礼じゃない?」


ルカンはそれには答えず、ただ「行くぞ」とだけ言って歩き出す。

アルは新しく手に入れた植物の束を大事そうに抱え、その後を追っていった。



◇



市場をひと回りし終えるころには、太陽はすっかり傾いていた。


広場の端に、使い古された荷物を山積みにした荷馬車が止まっていて、老いた行商人が手際よく荷解きをしている。

アルは何気なく歩み寄り、声をかけた。


「すみません。もしかして、南の方から来ましたか?」


行商人が顔を上げた。

日焼けした皺だらけの顔が、経験を感じさせる。

きっとずっと、旅をして回っているのだろう。


「ああ、そうだよ。南の砂漠沿いの集落をずっと回ってきたところさ」


「あの……古代遺跡の近くも通りました?」


行商人の表情がわずかに強張った。


「……通ったよ。だが、近づきはしない。あの界隈は商売道具を抱えて行くような場所じゃないからな」


「どうして?」


「あのあたりはね」


行商人は荷物から手を離し、まっすぐにアルを見た。


「魔法が狂うんだ。道具は誤作動を起こし、頼みの綱の術式も使い物にならなくなる。慣れた旅人ほど、あそこだけは避けて通るのさ」


「魔法が狂う……それってどういうことですか」


「理屈はわからん。ただ術式が上手く機能しなくなり、不安定になる。昔からそういう場所なんだよ」


行商人は首を横に振り、再び作業に戻りながら付け加えた。


「遺跡に興味があるなら止めはしないがね。くれぐれも気をつけるんだよ」


「……ありがとうございます」


アルは丁寧に頭を下げ、少し離れたところで待っていたルカンのもとへ戻った。


「今の、聞こえてた?」


「聞こえてたよ」


「魔法が狂うって、どういうことなのかな」


「さあな」


「あ、また『さあ』って言った」


「わからないものは、全部『さあ』だって言っただろ」


アルは腕を組む。

魔法が狂う場所。遺跡。

間違いなく、変わった植物があるに違いない。

図鑑の手がかりも、もしかしたら見つけられるかもしれない。


「でも、行くよね」


声は知らずのうちに弾んでいた。


ルカンはそんな彼女の様子を横目で見てから「行くだろ、お前がそのつもりなら」とそっけなく言った。


アルは頷いて鞄を抱え直すと、ルカンの前を歩き始める。

魔法が狂う、遺跡に向かう。

その足取りは軽かった。




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