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「触れたら、静かになった」

馬車の窓の外が、少しずつ変わり始めた。

どこまでも続いていた草原の鮮やかな緑が失われ、地面はじわじわと湿り気を帯びた暗い色へと沈んでいく。


木々の幹が黒ずみ、ねじれた枝には重たげな苔がまとわりついていて、空気が急速に重くなる。


アルは窓に顔を寄せて、変わっていく景色を凝視した。


霧だ。

低く立ち込めた白い霧が地を這い、古びた大樹の根元を飲み込んでいる。

その向こう側に、一輪の花。

細く白い花が、霧を透かして淡く光り

水面に映り込んだその姿がゆらりと揺れた。


「すごい……」


窓に額をくっつけたまま、その幻想的な光景から目を離せなかった。


「着いたぞ」


御者台から、ルカンの短い声が響く。


「よし、早く降りよう!」


「待て。勝手に開けるな」


アルが勢いよく荷台の扉に手をかけようとした瞬間、ルカンの鋭い制止が入る。


「魔法障害が強すぎる。

外に出る前に、まずは確認だ」


「何を確認するの?」


ルカンは荷台へ入ってくると、アルを正面からじっと見据えた。

その翠の瞳は、いつもの飄々とした雰囲気とは違い、真剣さを帯びている。


「お前、本当に毒耐性あるんだよな」


「あるよ」


「どの程度だ」


「今まで一度も死んだことないから、たぶん大丈夫」


「………それ、根拠になってないぞ」


ルカンはしばらく沈黙したあと、重い溜息をついた。


「いいか。絶対に一人で動くなよ」


「わかった」


「『わかった』じゃなくて、『守れ』って言ってるんだ」


「……守ります」


珍しく余裕のない、ルカンの真剣な眼差し。

それを受けて、アルは少しだけ返事を遅らせる。


窓の外では、霧の中の花が風もないのにかすかに揺れていた。





馬車を降りた瞬間、空気が変わった。

湿った冷たさが肌に張り付いて、足を踏み出すたびに地面が沈む。


霧はすでに膝の高さまで達していて、一歩進むごとに自分の足元さえ見失いそうになる。


「足元に気をつけろよ。

そこら中、底なしの沼だ」


「わかった」


素直に頷き、アルはルカンの数歩後ろを慎重について歩いた。


黒く濡れた木々、枝から垂れる苔。

水面に浮かぶ白い花が霧の中でぼんやり光っていて、不思議な場所だと思った。


辺りは静まり返り、虫の音も、風の音もなく——

自分たちの足音だけが、湿った地面に吸い込まれていく。

不意に、前を行くルカンが足を止めた。


「待て」


低く鋭い声。アルも反射的に足を止める。


霧の奥に、うごめく影があった。


蔦だ。

蛇のような動きで、ゆっくりと。

まるで意志を持っているかのように、こちらへ這い寄ってくる。


「魔法障害で変異した植物だ。

暴走してる……触るなよ」


「触ったらどうなるの?」


「絡め取られて引きずり込まれる。

おまけに毒付きだ」


ルカンが手をかざすと、蔦が音もなく弾き飛ばされた。

しかし、蔦は千切れてもなお、即座に再生して再び動き出す。

一本が二本、三本と増え、じりじりと包囲網を狭めていた。


「……数が多いな」


ルカンの眉がわずかに寄る。

気がつけばアルの足元にも、一本の蔦が滑り込んでいた。


「あ」


反射的にしゃがみ込み、その蔦を素手でぐいっと払いのけた。


「アル、触るなって——」


ルカンの制止が響く。

だが、その声は途中で途切れた。

蔦の動きが、ぴたりと止まったのだ。


周囲の蔦が地面に落ちて、ほどけていく。

暴走していた植物が、音もなく静止した。


沈黙が降りる。


「………なんで止まったんだ」


ぽつりとルカンが呟いた。

しばらく、アルを見たまま動かない。


「え、なんでだろう?」


「こっちが聞いてる。お前、今何した?」


アルは自分の掌をまじまじと見つめた。

何も起きていない。

痺れも、痛みもない。


「わかんない。触ったら大人しくなっただけ」


ルカンはしばらくアルを凝視していたが、やがて何も言わずに前を向いた。


「……行くぞ。長居する場所じゃない」


「うん」


立ち上がりながら、もう一度手のひらを見た。


やっぱり、何も変わっていない。


それだけ確かめて、ルカンの後に続いた。





しばらく進んだところで、アルが弾んだ声を上げた。


「ルカン、これ見て!」


「今度は何だよ」


「これ、図鑑に載ってない。絶対載ってない!」


アルはしゃがみ込んで、鞄から図鑑とスケッチ用の紙を取り出す。


霧の中に、見たことのない植物があった。

草丈は低く、深い紫色の葉。

その表面には細かな銀色の粒が散っていて、光を受けてきらきらと輝いていた。


手早く葉の形を写し取って、銀色の粒の分布を正確に書き込んでいく。


採取地、日付、霧の密度、土壌の状態――。


「書くの、速いな」


感心したようなルカンの呟きに、「こういうのは早いほうがいいんだよ」とアルは手を止めずに答える。


「霧の濃さで見え方が変わるから、今のうちに記録しておかないと」


ルカンは腕を組み、アルがスケッチする様子を黙って眺めていた。

腕を組んだまま、アルの手元から一度も目を離さずに。

けれどアルはそんな視線に気づく様子もなく、目の前の未知の植物に、完全に没頭していた。


「よし、完成」


満足げに声を上げると、スケッチを図鑑に挟み込み、勢いよく立ち上がった。


「帰るぞ。もうすぐ日が暮れる」


「……もう少しだけ見たいんだけど」


「夜のここは、今の比じゃない」


「…………わかった」


その有無を言わせぬ響きに、渋々ながらも納得し、歩き出したルカンの背中を追い始めた。


霧の中を歩きながらも、意識は鞄の中へと向けられている。


図鑑に載っていない植物。

世界のどこにも、まだ名前がない。

それを見つけられた。


鞄を肩にかけ直して、歩き出したルカンの背中を追う。

気づけば少し、早足になっていた。


しかし、馬車へと引き返しかけたその時。


周囲を漂う霧の色が不自然に変質し始めた。

白かった霧がうっすらと黄色く濁り、辺りに妙に甘ったるい匂いが立ち込め出す。

その異変に、アルは思わず足を止めた。


「この匂い……」


「下がってろ」


ルカンが素早くアルの前に出た。

霧の向こう側、巨大な丸い葉を持つ植物が、黄色い煙を吐き出している。


「毒霧を放つ植物だ。吸い込むと——」


言いかけて、ルカンの動きが鈍った。

足元がわずかによろけ、かざした手が下がる。


「ルカン?」


「……問題ない」


短く答えたものの、ルカンの顔色は明らかに悪い。


アルは一瞬だけ、思考を巡らせる。


この毒は自分には効かない。

それより、ルカンがまずい。


ふらつくルカンの脇をすり抜け、迷わず一歩前へ出た。


「おい、戻れって……」


「平気だから、そこで待ってて」


躊躇なく黄色い霧の中に踏み込んだ。

匂いは濃くなったが、体に異変は起きない。

痺れも息苦しさもなかった。


そのまま植物に近づき、観察するように近くで見ると、葉の表面に細かい結晶のようなものが光っていた。

思わず、手が伸びる。


直後——

噴き出していた煙がぴたりと止まった。

さっきの蔦のときと同じだ。

アルが触れた瞬間、植物がおとなしくなる。


黄色い煙はゆっくりと薄れ、辺りは再び、静かな白い霧へと戻っていった。


また、だ。

アルはそっと手を開いたり閉じたりしてみたが、やはり何も感じない。


振り返り、少し離れた場所に立つルカンに声をかけた。


「大丈夫?」


「……ああ」


低く、短い返事。

いつもより余裕がないように聞こえる。


「毒、効いたんでしょ」


「少しな。不覚だった」


「解毒薬、すぐ作れるけど」


「いらない」


「遠慮しなくていいよ」


「いいって言ってるだろ。寝てれば治る」


アルはルカンの言葉を聞き流しながら、すでに鞄を開けていた。

手早く薬草を調合し、小さな瓶に詰めて差し出す。


「一応持っといて。また同じのが出るかもしれないから」


ルカンはしばらく、差し出された瓶を無言で見つめる。

やがて黙って手を伸ばし、一拍置いてぼそりと言った。


「……ありがとな」


「どういたしまして」


アルが笑うと、ルカンはもう前を向いて歩き出していた。

けれどその耳の端が、わずかに赤くなっているように見えた。




 

馬車に戻る前に、立ち止まって図鑑を開き、さっき書き留めたばかりのスケッチと、図鑑に書かれた古いメモを慎重に見比べる。

掠れた走り書きの文字が、アルの目に飛び込んできた。


『東の湿地。霧の中に、銀の葉を持つ草あり。詳細不明』


見覚えのある、祖母の筆跡だ。


「ねえ、これ見て」


差し出された図鑑を、ルカンが億劫そうに覗き込む。


「メモか」


「うん。きっと、さっき見つけた草と同じだと思う。おばあちゃんもここに来てたんだ」


ルカンは少し黙って、その短い記述をじっと見つめた。


「幻の薬草についての記録は?」


「ここにはないよ。でも、同じ場所を探してた。ということは——」


「多少なりとも、手がかりにはなるってことか」


短い沈黙。まだ正解じゃないけれど——

また、一歩近づいた。


帰り道、不意にルカンが足を止める。


霧の奥に、石の杭。

厚い苔をまとい、半分ほど地面に沈みながら、その輪郭はどこか人の手を感じさせた。


「これ……」


「誰かの調査跡だな。それも、相当古いぞ」


ルカンが断定するように言った。

アルはしゃがみ込み、杭に触れる。

そこには読めない文字のようなものが刻まれていたが、その線の引き方は、図鑑の余白にある祖母の書き癖にどこか似ている気がした。


「おばあちゃんが残したのかな」


「かもな。あるいは、全く別の誰かか」


アルはもう一度だけ杭を見つめてから、ゆっくりと立ち上がる。


真相はわからない。

けれど、ここに来て正解だった——今はただ、そう思えた。


荷台に乗り込み、図鑑を膝に置く。

今日だけでスケッチは増え、祖母のメモとの一致も見つけている。

謎の石杭という、予想外の収穫まで。


「次はどこに向かおうか」


「今日はもう休め。疲れただろ」


「疲れてないよ」


「俺が疲れたんだよ」


投げやりな物言いに、アルは思わず声を上げた。

あのルカンが、そんなことを言うとは。

アルはしばらく、その背を見ていた。


馬車が静かに動き出す。

窓の外では湿地帯が遠ざかり、霧が少しずつ薄くなっていった。


——詳細不明。


その文字を指先でなぞり、そっと図鑑を閉じる。

今日、その空白がほんの少しだけ埋まった。


目的地はきっと、まだ先だ。

けれど、真っ白だったページが埋まっていくたびに、真実へと近づいている。


アルは馬車の窓にもたれ、流れていく景色を眺めた。

膝の上で、図鑑が静かに揺れている。

表紙に触れると、古い紙の感触がした。


旅は、まだ続いていく。

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