「触れたら、静かになった」
馬車の窓の外が、少しずつ変わり始めた。
どこまでも続いていた草原の鮮やかな緑が失われ、地面はじわじわと湿り気を帯びた暗い色へと沈んでいく。
木々の幹が黒ずみ、ねじれた枝には重たげな苔がまとわりついていて、空気が急速に重くなる。
アルは窓に顔を寄せて、変わっていく景色を凝視した。
霧だ。
低く立ち込めた白い霧が地を這い、古びた大樹の根元を飲み込んでいる。
その向こう側に、一輪の花。
細く白い花が、霧を透かして淡く光り
水面に映り込んだその姿がゆらりと揺れた。
「すごい……」
窓に額をくっつけたまま、その幻想的な光景から目を離せなかった。
「着いたぞ」
御者台から、ルカンの短い声が響く。
「よし、早く降りよう!」
「待て。勝手に開けるな」
アルが勢いよく荷台の扉に手をかけようとした瞬間、ルカンの鋭い制止が入る。
「魔法障害が強すぎる。
外に出る前に、まずは確認だ」
「何を確認するの?」
ルカンは荷台へ入ってくると、アルを正面からじっと見据えた。
その翠の瞳は、いつもの飄々とした雰囲気とは違い、真剣さを帯びている。
「お前、本当に毒耐性あるんだよな」
「あるよ」
「どの程度だ」
「今まで一度も死んだことないから、たぶん大丈夫」
「………それ、根拠になってないぞ」
ルカンはしばらく沈黙したあと、重い溜息をついた。
「いいか。絶対に一人で動くなよ」
「わかった」
「『わかった』じゃなくて、『守れ』って言ってるんだ」
「……守ります」
珍しく余裕のない、ルカンの真剣な眼差し。
それを受けて、アルは少しだけ返事を遅らせる。
窓の外では、霧の中の花が風もないのにかすかに揺れていた。
◇
馬車を降りた瞬間、空気が変わった。
湿った冷たさが肌に張り付いて、足を踏み出すたびに地面が沈む。
霧はすでに膝の高さまで達していて、一歩進むごとに自分の足元さえ見失いそうになる。
「足元に気をつけろよ。
そこら中、底なしの沼だ」
「わかった」
素直に頷き、アルはルカンの数歩後ろを慎重について歩いた。
黒く濡れた木々、枝から垂れる苔。
水面に浮かぶ白い花が霧の中でぼんやり光っていて、不思議な場所だと思った。
辺りは静まり返り、虫の音も、風の音もなく——
自分たちの足音だけが、湿った地面に吸い込まれていく。
不意に、前を行くルカンが足を止めた。
「待て」
低く鋭い声。アルも反射的に足を止める。
霧の奥に、うごめく影があった。
蔦だ。
蛇のような動きで、ゆっくりと。
まるで意志を持っているかのように、こちらへ這い寄ってくる。
「魔法障害で変異した植物だ。
暴走してる……触るなよ」
「触ったらどうなるの?」
「絡め取られて引きずり込まれる。
おまけに毒付きだ」
ルカンが手をかざすと、蔦が音もなく弾き飛ばされた。
しかし、蔦は千切れてもなお、即座に再生して再び動き出す。
一本が二本、三本と増え、じりじりと包囲網を狭めていた。
「……数が多いな」
ルカンの眉がわずかに寄る。
気がつけばアルの足元にも、一本の蔦が滑り込んでいた。
「あ」
反射的にしゃがみ込み、その蔦を素手でぐいっと払いのけた。
「アル、触るなって——」
ルカンの制止が響く。
だが、その声は途中で途切れた。
蔦の動きが、ぴたりと止まったのだ。
周囲の蔦が地面に落ちて、ほどけていく。
暴走していた植物が、音もなく静止した。
沈黙が降りる。
「………なんで止まったんだ」
ぽつりとルカンが呟いた。
しばらく、アルを見たまま動かない。
「え、なんでだろう?」
「こっちが聞いてる。お前、今何した?」
アルは自分の掌をまじまじと見つめた。
何も起きていない。
痺れも、痛みもない。
「わかんない。触ったら大人しくなっただけ」
ルカンはしばらくアルを凝視していたが、やがて何も言わずに前を向いた。
「……行くぞ。長居する場所じゃない」
「うん」
立ち上がりながら、もう一度手のひらを見た。
やっぱり、何も変わっていない。
それだけ確かめて、ルカンの後に続いた。
◇
しばらく進んだところで、アルが弾んだ声を上げた。
「ルカン、これ見て!」
「今度は何だよ」
「これ、図鑑に載ってない。絶対載ってない!」
アルはしゃがみ込んで、鞄から図鑑とスケッチ用の紙を取り出す。
霧の中に、見たことのない植物があった。
草丈は低く、深い紫色の葉。
その表面には細かな銀色の粒が散っていて、光を受けてきらきらと輝いていた。
手早く葉の形を写し取って、銀色の粒の分布を正確に書き込んでいく。
採取地、日付、霧の密度、土壌の状態――。
「書くの、速いな」
感心したようなルカンの呟きに、「こういうのは早いほうがいいんだよ」とアルは手を止めずに答える。
「霧の濃さで見え方が変わるから、今のうちに記録しておかないと」
ルカンは腕を組み、アルがスケッチする様子を黙って眺めていた。
腕を組んだまま、アルの手元から一度も目を離さずに。
けれどアルはそんな視線に気づく様子もなく、目の前の未知の植物に、完全に没頭していた。
「よし、完成」
満足げに声を上げると、スケッチを図鑑に挟み込み、勢いよく立ち上がった。
「帰るぞ。もうすぐ日が暮れる」
「……もう少しだけ見たいんだけど」
「夜のここは、今の比じゃない」
「…………わかった」
その有無を言わせぬ響きに、渋々ながらも納得し、歩き出したルカンの背中を追い始めた。
霧の中を歩きながらも、意識は鞄の中へと向けられている。
図鑑に載っていない植物。
世界のどこにも、まだ名前がない。
それを見つけられた。
鞄を肩にかけ直して、歩き出したルカンの背中を追う。
気づけば少し、早足になっていた。
しかし、馬車へと引き返しかけたその時。
周囲を漂う霧の色が不自然に変質し始めた。
白かった霧がうっすらと黄色く濁り、辺りに妙に甘ったるい匂いが立ち込め出す。
その異変に、アルは思わず足を止めた。
「この匂い……」
「下がってろ」
ルカンが素早くアルの前に出た。
霧の向こう側、巨大な丸い葉を持つ植物が、黄色い煙を吐き出している。
「毒霧を放つ植物だ。吸い込むと——」
言いかけて、ルカンの動きが鈍った。
足元がわずかによろけ、かざした手が下がる。
「ルカン?」
「……問題ない」
短く答えたものの、ルカンの顔色は明らかに悪い。
アルは一瞬だけ、思考を巡らせる。
この毒は自分には効かない。
それより、ルカンがまずい。
ふらつくルカンの脇をすり抜け、迷わず一歩前へ出た。
「おい、戻れって……」
「平気だから、そこで待ってて」
躊躇なく黄色い霧の中に踏み込んだ。
匂いは濃くなったが、体に異変は起きない。
痺れも息苦しさもなかった。
そのまま植物に近づき、観察するように近くで見ると、葉の表面に細かい結晶のようなものが光っていた。
思わず、手が伸びる。
直後——
噴き出していた煙がぴたりと止まった。
さっきの蔦のときと同じだ。
アルが触れた瞬間、植物がおとなしくなる。
黄色い煙はゆっくりと薄れ、辺りは再び、静かな白い霧へと戻っていった。
また、だ。
アルはそっと手を開いたり閉じたりしてみたが、やはり何も感じない。
振り返り、少し離れた場所に立つルカンに声をかけた。
「大丈夫?」
「……ああ」
低く、短い返事。
いつもより余裕がないように聞こえる。
「毒、効いたんでしょ」
「少しな。不覚だった」
「解毒薬、すぐ作れるけど」
「いらない」
「遠慮しなくていいよ」
「いいって言ってるだろ。寝てれば治る」
アルはルカンの言葉を聞き流しながら、すでに鞄を開けていた。
手早く薬草を調合し、小さな瓶に詰めて差し出す。
「一応持っといて。また同じのが出るかもしれないから」
ルカンはしばらく、差し出された瓶を無言で見つめる。
やがて黙って手を伸ばし、一拍置いてぼそりと言った。
「……ありがとな」
「どういたしまして」
アルが笑うと、ルカンはもう前を向いて歩き出していた。
けれどその耳の端が、わずかに赤くなっているように見えた。
◇
馬車に戻る前に、立ち止まって図鑑を開き、さっき書き留めたばかりのスケッチと、図鑑に書かれた古いメモを慎重に見比べる。
掠れた走り書きの文字が、アルの目に飛び込んできた。
『東の湿地。霧の中に、銀の葉を持つ草あり。詳細不明』
見覚えのある、祖母の筆跡だ。
「ねえ、これ見て」
差し出された図鑑を、ルカンが億劫そうに覗き込む。
「メモか」
「うん。きっと、さっき見つけた草と同じだと思う。おばあちゃんもここに来てたんだ」
ルカンは少し黙って、その短い記述をじっと見つめた。
「幻の薬草についての記録は?」
「ここにはないよ。でも、同じ場所を探してた。ということは——」
「多少なりとも、手がかりにはなるってことか」
短い沈黙。まだ正解じゃないけれど——
また、一歩近づいた。
帰り道、不意にルカンが足を止める。
霧の奥に、石の杭。
厚い苔をまとい、半分ほど地面に沈みながら、その輪郭はどこか人の手を感じさせた。
「これ……」
「誰かの調査跡だな。それも、相当古いぞ」
ルカンが断定するように言った。
アルはしゃがみ込み、杭に触れる。
そこには読めない文字のようなものが刻まれていたが、その線の引き方は、図鑑の余白にある祖母の書き癖にどこか似ている気がした。
「おばあちゃんが残したのかな」
「かもな。あるいは、全く別の誰かか」
アルはもう一度だけ杭を見つめてから、ゆっくりと立ち上がる。
真相はわからない。
けれど、ここに来て正解だった——今はただ、そう思えた。
荷台に乗り込み、図鑑を膝に置く。
今日だけでスケッチは増え、祖母のメモとの一致も見つけている。
謎の石杭という、予想外の収穫まで。
「次はどこに向かおうか」
「今日はもう休め。疲れただろ」
「疲れてないよ」
「俺が疲れたんだよ」
投げやりな物言いに、アルは思わず声を上げた。
あのルカンが、そんなことを言うとは。
アルはしばらく、その背を見ていた。
馬車が静かに動き出す。
窓の外では湿地帯が遠ざかり、霧が少しずつ薄くなっていった。
——詳細不明。
その文字を指先でなぞり、そっと図鑑を閉じる。
今日、その空白がほんの少しだけ埋まった。
目的地はきっと、まだ先だ。
けれど、真っ白だったページが埋まっていくたびに、真実へと近づいている。
アルは馬車の窓にもたれ、流れていく景色を眺めた。
膝の上で、図鑑が静かに揺れている。
表紙に触れると、古い紙の感触がした。
旅は、まだ続いていく。




