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「俺のはそういうもの」

目が覚めたとき、部屋に朝の光が差し込んでいた。


アルはゆっくりと起き上がり、枕元に置いていた図鑑と地図を手に取る。

ルカンが案内してくれた宿は思ったより悪くなくて、ベッドも柔らかく、窓からは王都の街並みが一望できた。


地図を広げ、指先で現在地を確かめる。

大陸の中央に位置する、巨大な王都。

西には、自分の故郷であるベルネリ街と、未開拓の地が多い巨大森林。

北には険しい雪山と広大な氷原が続き、南には砂漠と古代都市の記録が記されている。


そして東——湿地と、毒の森。


ルメリア大陸は想像以上に広い。

これまで歩いたことのある場所なんて、ほんの一角に過ぎない。


地図の端には、掠れた線で海が描かれていた。

その向こうには別の大陸があるという噂をベルネリに立ち寄る商人から聞いたことがある。

けれど、今の自分にはまだ関係のない話だ。


まずは東。

そこにあるはずの「答え」を探しに行かなければならない。


「朝っぱらから熱心だね、お前」


不意に扉が開いて、ルカンが顔を出した。

長い紫の髪に、少しだけ寝癖がついている。


「あ、おはよう。ルカン、寝癖ついてるよ」


「うるさい。……地図見てたのか」


ルカンは髪を押さえながら、アルの隣に並んで地図を覗き込んだ。


「うん。東の湿地帯って、ここからどのくらい遠いかなと思って」


「馬車で三日くらいか」


「詳しいんだね」


「王都に来ることは多いから。このあたりは大体わかる」


アルは地図の東側に視線を落としたまま、小さく頷いた。


「三日か……意外と近いのかも。とりあえず、朝ごはん食べてから出発だね」


「そうだな。早く準備しろよ」


ルカンは手を上げて部屋を出ていく。

それを見送り図鑑を鞄に押し込むと、ベッドから跳ね起きた。


東の毒の森。

そこにはどんな植物が待っているのだろう。

不安よりも、好奇心が勝っていた。





朝食を終えて宿を出た二人は、連れ立って市場のほうへ歩き出した。

通りはすでに多くの人々で行き交い、朝の活気が道いっぱいに広がっている。


「まずは馬車を探してみようかな」


「馬車?」


「だって、東まで徒歩は遠いでしょ」


アルがもっともらしい理由を並べると、ルカンは「まあ、そうだな」と特に反対する様子もなく、大きな欠伸をしながらついてくる。


活気ある市場をひと通り歩き回り、賑わいが途切れる端のほうに差し掛かったとき、アルがふと足を止めた。


「あ、あれ。ちょうどいいのがあるよ」


古道具屋の軒先に、小さな荷馬車が置かれていた。

一応屋根はあるけれど、板が一枚外れかかっている。

車輪の一つが微妙に歪んでいて、荷台には長年の汚れが染み付いていた。

雨風を凌げるかも怪しい佇まいだ。


「……ボロいな」


「でも安そうだよ。買えるかも」


店主に値段を聞いて、手元の財布と相談した。

これならギリギリ、なんとかなる。


「よし、これにする」


「本気か? すぐバラバラになりそうだけど」


「直せばいいし、なんとかなるでしょ」


ルカンは腕を組んだまま馬車を眺め、やがて小さくため息をつく。


「……まあいいか」


呟いたあと、馬車の側面に手を触れた——ように見えた。

正確には触れたのかどうかすら、アルには分からなかった。


次の瞬間、馬車が光を帯びる。


バキバキと木材が軋む音が響き、歪んでいた車輪が真っ直ぐに整っていく。

外れかけていた板も元の位置へ戻った。

さらに屋根がぐっと高くなり、荷台が横へと広がる。


気づけば、外見からは想像もつかないほど広々とした空間が内側に生まれていた。

薄暗かった荷台の壁には整理棚が現れ、小さなキッチンらしきものまで設えられている。


アルは口を開けたまま、その場で固まった。


「……今、何したの」


「拡張しただけ」


「一瞬で?」


「うん」


「魔法って、そんなことまでできるの……?」


「俺はできる」


さらりと言って、ルカンは当然のように荷台に乗り込む。

アルはしばらく馬車の外と中を交互に見比べて、それから店主を振り返った。

店主もまた、口を開けたまま固まっている。


「……買います」


ようやく絞り出したアルの声に、店主は力なく頷くことしかできなかった。





代金を支払い終えて、アルは改めて目の前の馬車を眺める。

まるで新品だ。

使い込まれた形跡はきれいさっぱり消えていて、馬車の内側は一つの部屋くらいの広さがある。


「……で、肝心の馬はどこで手配すればいいかな?」


「いらない」


「え?」


聞き返したときには、ルカンはもう御者台に腰掛けていた。

彼が手を前方に泳がせると、繋がれてもいない馬車がひとりでに、ゆっくりと動き出す。


「馬なしで動いてるんだけど」


「魔法で動かしてるからな」


「馬車って、そういうもの?」


「俺のはそういうもの」


アルはしばらく勝手に進んでいく馬車と、涼しい顔で前を向いているルカンを交互に見比べた。


「中入りなよ」ルカンが前を向いたまま言う。


「ここから先は道が悪くなる」


「……わかった」


アルは半信半疑ながらも、動いている荷台に乗り込んだ。

荷台の中は、外の揺れが嘘みたいに静かだ。


壁に設えられた新しい棚を眺めながら、調合台に腰を下ろす。

向かいではルカンが脚を伸ばして座っていた。

御者台にいなくていいのか、と思ったけれど魔法で勝手に走っているなら関係ないかと、すぐに納得して一息つく。


ふとした拍子に、ルカンの袖口から覗く手首が目に入った。


「それ、腕輪?」


「そう」


「いつも着けてるの?」


「外せないからな」


アルは少し考えてから、首を傾げる。


「外せないって、どういうこと?」


「どういうことって、そのまま。物理的に外れないんだよ」


「呪われてるとか?」


ルカンは一瞬だけ視線を腕輪に落とし、すぐに前を向く。


「まあ、そんなとこ」


「大丈夫なの、それ」


「……別に。慣れたから」


「それ、大丈夫って言わないと思うけど」


ルカンは答えなかったが、口の端だけがわずかに上がっていた。


これ以上聞いても教えてくれない顔だ、とアルは察して追及をやめた。

代わりに地図を取り出し、目的地である東の辺りを見る。


「東の湿地帯って、どんな場所?」


「行けばわかるだろ」


「答えになってないよ」


「……魔法障害が強いんだよ、あの辺。普通の魔法使いなら、近づくだけで魔力が乱れてまともに魔法も使えなくなる場所」


「ルカンは?」


「俺は普通じゃないから。関係ない」


さらりと言って、窓の外に視線を投げる。


「植物も普通じゃないものが多い。魔法障害のせいで変異してるやつとか、毒性が通常の何倍にもなってるやつとか」


「わあ、全部見たい」


「普通に死ぬぞ」


「毒耐性あるから平気だよ。四歳の時から鍛えてるし」


ルカンが横目でアルを見た。


「……お前、本当に変なやつだな」


「よく言われる」


平然と返すと、そこで一旦、会話が途切れた。


アルは改めて魔法で拡張された荷台の中を見回す。

壁に沿って整然と並んだ薬草棚に、使い勝手の良さそうな調合台。

奥にはコンパクトなキッチンと、今は畳まれている簡易ベッド。

外から見たあのガタがきていたボロ馬車とは到底思えない、整った空間だった。


「本当に広いね。棚もあるし、調合台まで」


「そこ、好きに使っていいから」


ルカンは前を向いたまま、調合台を指差した。


棚には空の瓶がいくつか並んでいて、その一つを手に取り眺める。


旅が進めば、ここが薬草でいっぱいになる。


手に入れたばかりの「移動式の工房」に満足しながら、アルは再び図鑑を取り出し、膝の上でページをめくり始めた。


「その図鑑、毎日飽きもせず眺めてるな」


「だって面白いんだもん」


「どのへんが?」


「全部。知らない草の記録がいっぱいあって……ほら、ここにスケッチがあるんだけど」


図鑑を差し出すと、ルカンはちらりと手元のページに視線を落とした。


「字、随分と古いな」


「ご先祖様とかおばあちゃんが書いたやつだからね。みんな大陸中を旅して、植物を片っ端から記録してたんだって」


「お前にそっくりじゃん」


アルは目を丸くしてルカンを見る。

それから可笑しそうに笑った。


「そんなこと言われたの初めてかも」


「そう? 迷子になりながら花摘んで旅する薬草師なんて、どう見ても血筋だろ」


「迷子はたまたまだよ」


「初日から? 説得力ないけど」


「…………」


アルは何も言い返せず、そっと図鑑を閉じた。


窓の外の景色が、時間を追うごとに少しずつ表情を変えていく。

見渡す限りの草原が地平線まで続き、その遥か先、空の境界線はどこかぼんやりとして見えた。


——東。


図鑑を膝に乗せたまま、流れていく景色をじっと眺める。

目的地はまだ遠い。

けれど確実に、近づいている。


「ねえルカン。三日で着くんだよね」


「順調にいけば」


ルカンは相変わらず、窓の外を見つめたまま答える。


「順調にいかない場合って、どんなとき?」


「お前が勝手に外に飛び出して、迷子にさえならなきゃ大丈夫だよ」


「…………」


やはり、何も言い返せなかった。


馬車は静かに、未知の領域へと足を踏み入れていく。


遠くの空は、白く霞んでいた。

まるで、その先に待つ何かを隠すみたいに。


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