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窓際に置かれた白い花

遺跡の外に出ると、木々の隙間から午後の日差しが差し込んでいた。

足元の柔らかい土を踏みしめ、アルは一度だけ深く息を吸った。


「空気がちがう」


誰に言うでもなく呟いて、木の根に腰を下ろした。

ルカンは少し離れたところで立ち止まったまま、中には戻らない、しかし座りもしない、という微妙な距離だった。


エルリックは木立の脇に立ち、遺跡の方を一度見てから、アルに向き直る。


「アル、少し聞いてくれ」


アルが顔を上げる。


「お前の体質の話だ」


「体質って、毒のこと?」


「それもある。だが、もうひとつある」


アルは首を傾げる。

エルリックは短く息をついてから続けた。


「通路の植物が、お前が触った後だけ静止した。……気付いていないと思うが。遺跡の扉も、お前だけが開けられた」


「うん」


「魔法植物の葉を食べても何ともなかっただろう」


「そうだね」


「強い魔力環境にいても平然としていた」


「そういえば」


「それだ」


エルリックは一息つき、再び口を開いた。


「お前は魔力を、整えているんだ」


沈黙が流れる。


「……整えてる」アルは繰り返す。


「私が?」


「無効化しているわけでも、打ち消しているわけでもない。お前の周囲では、魔力の揺らぎが安定する」


「それって、体質なの?」


「そうだ」


アルはしばらく、自分の手のひらを見つめていた。

それから「全然、気づかなかった」とぽつりと言う。

驚いた様子ではなく、ただ事実として口にしたような、そんな声だった。


エルリックは続ける。


「不安定な魔力をもつ物質が、安定した性質を持つに至る。古い記録にそれを『調律』と呼んでいた形跡がある」


「調律。石板にあった言葉だ」


「場所の話だと思っていた。土地に満ちる力の話だと。……だが違った。土地ではなく、状態の話だったんだ」


木の葉が小さく音を立てた。

風が通り過ぎ、また静寂が戻る。


「この遺跡で、かつて魔力の暴走があった」


「暴走……」


「制御を失った魔力が森全体に広がり、植物の性質を変えた。そして、本来持たないはずの魔法特性を持つ個体が生まれた」


アルが瞬きをした。


「お前は子供の頃、ここに来たことがあると言っていた。植物の実を食べたと」


「……うん」


「それがきっかけだろう」


アルは何も言わなかった。

ただその表情が、少しずつ何かを辿るようにわずかに動く。


「もしかして、私の魔力を整える体質って」


「植物によって後天的に得たものだ」


「お母さんにめちゃくちゃ怒られたやつじゃん」


地面を見つめたまま、その事実を飲み込んでいく。


「……じゃあ、図鑑の薬草は」


図鑑を取り出し、最後のページを開いた。


『すべての毒を中和する薬草。

その在処を、ついに突き止められなかった』


エルリックは図鑑を一瞥して続ける。


「ある特定の植物でも、特定の場所でもない。条件が揃ったときにのみ成立する」


少しの沈黙のあと、はっきりと告げた。


「場所じゃない。条件だ」


「……条件」


「ただし、条件が揃うには三つの要素が必要だ。お前一人では、完成しない」


「三つ?」


「起点となる魔力の乱れ、それを整える力、そして理論として理解し再現できる者。三つが揃ったとき、初めて意味を持つ」


アルは視線をエルリックに向け、それから少し離れたところに立つルカンにも向けた。

ルカンは木に背を預けたまま、何も言わない。

その瞳は、遠い森の奥に向けられている。


「……そうだったんだ」


小さく、けれど確かな響きを持った声だった。


木々の間で光が揺れる。

アルは膝の上に手を置いたまま、空を見上げていた。





三人は無言のまま、遺跡を後にした。

森の外に出ると、エルリックが足を止める。


「もうひとつある」


アルが振り返る。

エルリックは森の奧を見つめたまま言った。


「お前の家の、あの植物」


「窓際の?」


「あれはこの森の事故で変質した個体のひとつだ。お前が子供の頃に持ち帰り、長年育て続けてきた」


「……うん」


「お前の体質によって、長い時間をかけて毒性が抑えられ、性質が安定していった。この森との接続を持つ唯一の安定した個体。……つまりあれは、条件の一部をすでに満たしている」


「ずっと育ててたやつが」


「そうだ」


「ずっと探してたのに……最初から、近くにあったんだ」


それだけ言って、アルは黙った。


エルリックは視線を落とす。

記録所で見た文献、塔の図版、石板の一文、遺跡の装置。

それらが全て一本に繋がった感触が、まだ体の内側に残っている。


長年の問いに答えが出たというより、問い自体がようやく正しい形になった、という感覚だ。

言葉にしなくても、それで十分だった。


「旅の中で見てきた植物——霧の中のものも、銀の葉のものも、おそらく同じ系統だろう」


「どういうこと?」


「遠い祖先に、お前と似た体質の者がいた可能性がある。条件が揃いかけた場所に、痕跡として残った個体だと思われる」


アルは自分の手をじっと見つめた。


「血筋、ってこと?」


「仮定だ。確かめる術がない」


「でも、そうかもしれない」


「ああ」


二人の間に、何度目かの沈黙が降りる。

ルカンは二人から少し離れたところに立ったまま、腕輪に視線を落とした。

 

「……これは、魔力を抑えるためのものだ」


独り言のような、小さく、掠れた声。


「ガキの頃からずっと」


手が、腕輪に触れる。


「外した日はない」


それだけ言って、また黙り込んだ。


木々の隙間から差し込む光が、地面に複雑な模様を描いては消える。

聞こえてくるのは葉が揺れる音と、遠くで鳴いてる鳥の声。


それが途切れると、辺りは静寂に包まれた。





三人は森を出て、アルの家に戻ってきていた。


「たぶん、誰もいないかも」


鍵を開けると、いつもの匂いがした。

乾いた薬草と、土と、かすかな花の香り。

アルは迷わず中へ入り、二人がその後に続く。


窓際には鉢植えがある。

白い花をつけた、小さな植物。


旅に出る前と何も変わらず、ただ静かにそこにある。

花は、ほのかに光っていた。


アルは近づいてしゃがみ込み、指先で葉に触れた。

花がわずかに揺れる。

エルリックもルカンも動かない。

三人が、その小さな植物を囲むように並んでいた。


アルは葉から手を離さないまま、しばらく黙っていた。

何かを考えているような、何も考えていないような顔で。


条件は全て揃っている。

三人がここにいて——


この植物が、完成する。


祖先と祖母が辿り着けなかった場所に、今、自分は立っている。


指先が、そっと鞄に触れた。


ここに、図鑑がある。

どこに行くにも持ち歩いて、あちこちで書き込み、それでもまだ空白のページがたくさんある、旅の記録。


アルはゆっくりと立ち上がった。


「……まだ」


そこで一息つく。


「終わってない」


エルリックが、ルカンが、彼女を見た。

アルは二人の視線を受けて、少し考えてから続けた。


「図鑑、まだ全部埋めてない。これだけ完成させても、図鑑が完成するわけじゃない」


二人は何も言わなかった。


鞄から図鑑を取り出す。

旅の汚れで薄く変色した表紙。

それをめくり、空白のページを開く。


それから再びしゃがんで、植物と目の高さを合わせた。

鉛筆を取り出し、丁寧に書き始める。


見慣れた植物だ。

ずっと側にあった。

それでも、スケッチをするのはこれが初めてだった。


葉は、淡い緑色で光沢がある。

白い花びらは5枚ついていて、花びらの先は丸みを帯びている。

ほのかに光り、茎は柔らかく、だけどしっかりとした芯。


二人は黙ったまま、それを見ていた。


誰も辿り着けなかった場所まで来て——アルは答えを書かなかった。


条件も、意味も、三人のことも。

何も書かずに、形だけを残した。


やがてアルが図鑑を閉じた。

立ち上がり、背伸びをして、二人を仰ぎ見る。


「次どこ行く?」


いつも通りの調子だった。


ルカンは窓に視線をやる。


「さあ」


「さあって何」


「お前が聞いたんだろ」


「ルカンも考えてよ」


アルはエルリックに視線を向ける。


「エルリックは?」


「……未回収の文献がある場所がいくつかある」


「どこ?」


「北と、東と、南に」


「全部じゃん」


アルが笑った。


「どこから行く?」


「お前が決めろ」


「二人は?」


「「どこでもいい」」


示し合わせたように、2人は同時にそう言った。


アルは吹き出しながら、図鑑のページをパラパラとめくる。

書き込みのある場所、空白のある場所、スケッチだけ残した場所。


ひととおり眺めてから、顔を上げた。


「よし。もう一周しよう」


「一周したばっかりだろ」


「空白がたくさんあるんだよ」


「お前の図鑑は穴だらけだな」


「うるさいな……エルリックはいい?」


「構わない」


「じゃあ決まり!」


誰も異論を言わなかった。


「早く行こう!」


アルは図鑑を抱えて、扉を開けた。


外の光が部屋の中に勢いよく流れ込む。

三人は連れ立って、再び外の世界へと踏み出した。





静かになった部屋に、窓際の植物だけが残された。


わずかに光を帯びたまま、今も昔も変わらずに。


ただ静かに、そこにある。


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