「生きてる」
朝のうちに宿を出た。
ベルネリの街は朝が早い。
三人は市場の準備をする人々の間を抜けて、進んでいく。
街の外れへ向かうにつれて人影がまばらになっていった。
やがて建物が途切れると、道の両脇には野生の草花が目立ち始める。
空気が変わったのは、木立の影が視界に入り始めた頃だった。
青い葉の匂いが混じり、足元の土はしっとりと柔らかさを増す。
「あのあたりから森だよ」
前を歩くアルが、境界線を指し示した。
「子供のとき、よくここまで来たんだ。そこより奥はあんまり入るなって言われてたから、大体ここらへんで引き返してたけど」
「大体?」
エルリックがその言葉を拾う。
「そう、大体」
ルカンは二人の少し後ろを歩いていた。
木立が近づくにつれ、その足取りが自然と遅くなっていく。
気づいたときには、二人との間に少し距離が開いていた。
森の入口が目の前に迫ってくる。
木々の隙間から差し込む光が、地面に細かな模様を作り、風が吹くとその形を複雑なものに変えていった。
ルカンは一瞬、足を止めた。
エルリックが振り返る。
だが、視線が交差するより早く、ルカンは何事もなかったかのように歩き出した。
二人は黙ったまま進んでいく。
アルはすでに木立の中に入りかけていた。
◇
森に入った途端、アルの歩調が変わる。
「あっ、これ!」
「なんだよ」
「見て、この葉っぱの形。ギザギザが片側だけなんだよ。こういうの珍しくて」
「行くぞ」
「ちょっと待って。スケッチだけ」
アルが図鑑を取り出す。
ルカンが小さく息を吐いた。
エルリックは先の道を確認してから地図を広げる。
五分後。
三人は再び歩き始めた。
だが、数歩も行かないうちに、アルがまた立ち止まる。
「あ、これも!」
「………」
「ルカン、この実、見たことある?」
「ない」
「だよね、私も初めてで。あ、でもおばあちゃんのメモに似たやつが——」
「歩きながら書けよ」
「歩きながらは書けないんだよ」
ルカンはアルの腕を引いて立たせた。
アルは「ちょっと」と言いながらも立ち上がり、図鑑を抱えたまま歩き始める——が、ページから目を離さずに歩くので、木の根に足を取られた。
横からルカンが、襟首をつかむようにして支え、アルが「ありがと」と言うとその手を離した。
「前見て歩けって」
「見てたよ」
「見てなかった。図鑑見てただろ」
小競り合いをしながらしばらく進むと、道が二手に分かれていた。
「こっちじゃないかな」
アルが右側の、少し開けた明るい方を指差す。
「地図だとこっちだ」
エルリックは反対を示した。
二人が同時にルカンを見る。
ルカンは両方を一瞥してから、左でも右でもなく、正面の茂みをかき分けて進み始めた。
「え、道ないよそこ」
「ある」
ルカンの断言した通り、茂みの向こうには踏み跡のような細い筋が続いていた。
草が低く抑えられており、人が通ったというよりは、長い年月をかけて自然にできたような、そんな道だった。
「……あった」
「地図にはない」
「でも正しそうだね」
アルが言い、エルリックは地図を折り畳む。
二人はルカンの後に続いた。
アルは相変わらず、周囲に目をやりながら歩いていく。
足元の草、幹に張り付いた地衣類、倒木の上に並んだキノコ。
そのたびに立ち止まりかけて、ルカンに無言で背中を押された。
エルリックは黙って歩いていたが、時折、こめかみの辺りを押さえている。
森の奥へ進むほど、魔力環境が変化していく。
記録所の報告書にあった通り、この森はまだ事故の影響を引きずっていた。
ルカンの歩調が、再び落ち始める。
それに気づいているのはエルリックだけだ。
アルは前方の木の上に何かを見つけたらしく、「あれ鳥?」とつま先で立っていた。
ルカンが立ち止まることはない。
ただ、踏み出す足が重そうに見えた。
視線の端でそれを捉えていたが、エルリックは何も言わなかった。
◇
踏み跡が途切れたとき、急に視界が開ける。
木々が左右に退き、朽ちた建物の輪郭が姿を現した。
かつては等間隔に並んでいたであろう柱の列——そのいくつかはすでに傾き、根元から折れている。
規則正しく組まれた梁の継ぎ目、段差のひとつひとつまで寸分違わず積まれた踏み板。
蔦が木目に沿って広がり、建物全体をゆっくりと飲み込もうとしているような光景だった。
入り口のアーチに文字が刻まれているが、風雨に削られて判別は難しい。
残っている文字をエルリックが目で追い、小さく息をついた。
「魔力調律研究施設、と書いてある」
「研究施設?」
「魔力を活用するための施設だろう。かなり古い」
三人は内部に足を踏み入れる。
崩れた棚、割れた記録板、床に転がった正体不明の道具。
廃墟と化した研究室は、雑然としていた。
区画ごとに仕切りが設けられていて、かつて植物を育てていたらしい区画もある。
土を盛った台が等間隔に並んでいる。
長い年月を経てもなお根の痕跡が残っており、いくつかの台には今も雑草が細々と育っていた。
「なんで、こんな場所が捨てられたんだろう」
「記録が残っていない」とエルリックが答えた。
「事故か、資金か、あるいは別の理由か。外部の文献にも詳細はなかった」
アルはそれ以上聞かず、棚に近づいて植物の痕跡を確かめ始めた。
ルカンはそれを眺めたまま、口を開くことはない。
先に進むにつれて、魔力の気配が濃くなる。
壁に埋め込まれた石が微かに光を帯びていて、かつての術式がまだ生きている箇所があるようだった。
通路の脇には植物が生えていた。
魔法植物と思われるものが、狭い石の隙間から顔を覗かせ、壁に沿って葉を伸ばしている。
その葉が、風もないのに微かに揺れていた。
「これも面白い形してるね」
アルがその葉に触れると、揺れが止まった。
本人は気づいていない様子で、葉の表面や裏側をまじまじと観察している。
エルリックはアルに視線を向けた。
その横顔は、いつもと変わらない。
立ち止まったまま、しばらくその様子をじっと眺めていた。
◇
道なりに進んでいくと、途中に小さな部屋があった。
扉が外れていて、中の様子が見えている。
アルがそこで足を止めた。
「……あれ」
部屋の隅に、植物がある。
石の鉢に植えられたまま、いくつかの鉢は転がっていた。
「生きてる」アルが言った。
「こんな場所なのに」
中へ入って植物の前にしゃがみ込み、それから顔を上げた。
「これ、うちにあるやつと同じだ」
エルリックが後に続く。
植物を見た瞬間、足が止まった。
光る、白い花。
「でも、うちのと違ってこっちは実がついてる」
アルがその実に手を伸ばしかけて、止まった。
少しの沈黙のあと、再び手を伸ばし、実を一粒取る。
しばらく観察してから、ためらいもなく口に入れた。
「アル」
「大丈夫、毒じゃないよ」
アルが口を動かしながら言う。
「なんか……食べたことある気がして」
周囲に視線を巡らせながら、ゆっくりと続きを言葉にする。
「子供の頃、ここ来たことがあったかも。探検して、迷って、なんか食べて……でも何ともなかったんだよね。お母さんにめちゃくちゃ怒られた記憶がある」
エルリックは動かなかった。
植物から目を離さないまま、黙って聞いている。
「……思い出した。森の中じゃなくて、ここで見つけて、持ち帰ったんだ」
アルは植物の葉をゆっくりと撫でた。
それきり、何も言わなかった。
◇
通路の突き当たりには、重厚な扉があった。
扉の縁に沿って、術式の紋様が描かれている。
エルリックが近づき、紋様を確認してから両手をつけるが、扉は動かない。
「魔法錠だ。術式がまだ機能している」
「壊せる?」
「時間がかかる」
ルカンが無言で前に出て、扉に手を当てた。
腕輪の光が僅かに強くなる。
力を込めて押すが、石の軋む音がしただけで、やはり扉は開かなかった。
「重いんだね」
アルは二人の間をすり抜けて扉の前に立ち、両手で触れてみた。
「びくともしない——」
言い終わる前に、ゴゴゴ、と低い石の音がして、扉はあっけなく開いた。
沈黙が広がる。
「……開いた」とアルが呟く。
「なんで?二人の時は開かなかったのに」
エルリックは答えなかった。
ルカンも何も言わない。
アルは二人の顔を交互に見て首を傾げたが「まあいいか」と言って中へ進んでいく。
広い部屋だった。
中央に装置が据えられているが、それ以外は何もない。
台座の上には複数の石柱が円形に並び、それぞれの頂点を細い金属の線が繋いでいる。
今は石柱の一部が崩れ、金属線の多くが錆びて切れていた。
それでも台座の中心部だけは微かに光を帯びており、今も、何かがそこに残っているようだった。
アルは広間の隅へ向かった。
床の割れ目から根を張っている植物に気づいて、そちらへ歩いていく。
ルカンが装置の前で立ち止まる。
最初の一歩で、止まった。
エルリックは横目でその様子を伺っていた。
もう一歩踏み出し、また止まる。
装置との距離は、ほんのわずかだ。
だが、それ以上近づこうとはしない。
視線が台座の中心から動かない。
光を帯びたその部分を、じっと見ている。
ふと、自分の腕輪に視線を落とす。
右手がわずかに持ち上がり——しかし、触れることはなかった。
呼吸が一拍だけ、深く、重く変わった。
エルリックは、そのすべてを見ていた。
ルカンの横顔を一瞬だけ捉え、装置に近づく。
台座の傍らに、薄い記録帳が置かれていた。
表紙は変色しているが、中の文字はまだ読める。
ゆっくりと、ページを繰っていく。
装置の役割、調律の概念、機能するための条件。
「なんて書いてある?」
遠くからアルが尋ねると、エルリックは一節を読み上げた。
「魔力を整え、対象に安定した性質を与える。調律役が介在することで装置は機能し——調律役なき状態で魔力のみを流した場合、制御不能に陥る危険性があると、記されている」
「……難しいことが書いてあるんだね」
エルリックは記録帳から目を離した。
台座の縁にそっと手をかける。
術式の名残が、指先に触れた。
通路の揺れる植物。小部屋の光る花。
誰の手でも開かなかった扉。アルの記憶。
そして、ルカンの今の反応。
装置から手を離したエルリックは、何も言わなかった。
装置の前に立つルカン。
その横に立つエルリック。
広間の隅で植物の根に触れているアル。
広間に、沈黙が広がっていく。
森の中の遺跡——
古い装置が置かれたこの部屋で、ようやく全部が、繋がった。




