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「生きてる」

朝のうちに宿を出た。


ベルネリの街は朝が早い。

三人は市場の準備をする人々の間を抜けて、進んでいく。

街の外れへ向かうにつれて人影がまばらになっていった。


やがて建物が途切れると、道の両脇には野生の草花が目立ち始める。

空気が変わったのは、木立の影が視界に入り始めた頃だった。

青い葉の匂いが混じり、足元の土はしっとりと柔らかさを増す。


「あのあたりから森だよ」


前を歩くアルが、境界線を指し示した。


「子供のとき、よくここまで来たんだ。そこより奥はあんまり入るなって言われてたから、大体ここらへんで引き返してたけど」


「大体?」


エルリックがその言葉を拾う。


「そう、大体」


ルカンは二人の少し後ろを歩いていた。

木立が近づくにつれ、その足取りが自然と遅くなっていく。

気づいたときには、二人との間に少し距離が開いていた。


森の入口が目の前に迫ってくる。

木々の隙間から差し込む光が、地面に細かな模様を作り、風が吹くとその形を複雑なものに変えていった。


ルカンは一瞬、足を止めた。


エルリックが振り返る。

だが、視線が交差するより早く、ルカンは何事もなかったかのように歩き出した。

二人は黙ったまま進んでいく。

アルはすでに木立の中に入りかけていた。



森に入った途端、アルの歩調が変わる。


「あっ、これ!」


「なんだよ」


「見て、この葉っぱの形。ギザギザが片側だけなんだよ。こういうの珍しくて」


「行くぞ」


「ちょっと待って。スケッチだけ」


アルが図鑑を取り出す。

ルカンが小さく息を吐いた。

エルリックは先の道を確認してから地図を広げる。


五分後。

三人は再び歩き始めた。

だが、数歩も行かないうちに、アルがまた立ち止まる。


「あ、これも!」


「………」


「ルカン、この実、見たことある?」


「ない」


「だよね、私も初めてで。あ、でもおばあちゃんのメモに似たやつが——」


「歩きながら書けよ」


「歩きながらは書けないんだよ」


ルカンはアルの腕を引いて立たせた。

アルは「ちょっと」と言いながらも立ち上がり、図鑑を抱えたまま歩き始める——が、ページから目を離さずに歩くので、木の根に足を取られた。

横からルカンが、襟首をつかむようにして支え、アルが「ありがと」と言うとその手を離した。


「前見て歩けって」


「見てたよ」


「見てなかった。図鑑見てただろ」


小競り合いをしながらしばらく進むと、道が二手に分かれていた。


「こっちじゃないかな」


アルが右側の、少し開けた明るい方を指差す。


「地図だとこっちだ」


エルリックは反対を示した。


二人が同時にルカンを見る。


ルカンは両方を一瞥してから、左でも右でもなく、正面の茂みをかき分けて進み始めた。


「え、道ないよそこ」


「ある」


ルカンの断言した通り、茂みの向こうには踏み跡のような細い筋が続いていた。

草が低く抑えられており、人が通ったというよりは、長い年月をかけて自然にできたような、そんな道だった。


「……あった」


「地図にはない」


「でも正しそうだね」


アルが言い、エルリックは地図を折り畳む。

二人はルカンの後に続いた。


アルは相変わらず、周囲に目をやりながら歩いていく。

足元の草、幹に張り付いた地衣類、倒木の上に並んだキノコ。

そのたびに立ち止まりかけて、ルカンに無言で背中を押された。


エルリックは黙って歩いていたが、時折、こめかみの辺りを押さえている。


森の奥へ進むほど、魔力環境が変化していく。

記録所の報告書にあった通り、この森はまだ事故の影響を引きずっていた。


ルカンの歩調が、再び落ち始める。

それに気づいているのはエルリックだけだ。

アルは前方の木の上に何かを見つけたらしく、「あれ鳥?」とつま先で立っていた。


ルカンが立ち止まることはない。

ただ、踏み出す足が重そうに見えた。

視線の端でそれを捉えていたが、エルリックは何も言わなかった。



踏み跡が途切れたとき、急に視界が開ける。


木々が左右に退き、朽ちた建物の輪郭が姿を現した。

かつては等間隔に並んでいたであろう柱の列——そのいくつかはすでに傾き、根元から折れている。


規則正しく組まれた梁の継ぎ目、段差のひとつひとつまで寸分違わず積まれた踏み板。

蔦が木目に沿って広がり、建物全体をゆっくりと飲み込もうとしているような光景だった。

 

入り口のアーチに文字が刻まれているが、風雨に削られて判別は難しい。

残っている文字をエルリックが目で追い、小さく息をついた。


「魔力調律研究施設、と書いてある」


「研究施設?」


「魔力を活用するための施設だろう。かなり古い」


三人は内部に足を踏み入れる。

崩れた棚、割れた記録板、床に転がった正体不明の道具。

廃墟と化した研究室は、雑然としていた。


区画ごとに仕切りが設けられていて、かつて植物を育てていたらしい区画もある。

土を盛った台が等間隔に並んでいる。

長い年月を経てもなお根の痕跡が残っており、いくつかの台には今も雑草が細々と育っていた。


「なんで、こんな場所が捨てられたんだろう」


「記録が残っていない」とエルリックが答えた。


「事故か、資金か、あるいは別の理由か。外部の文献にも詳細はなかった」


アルはそれ以上聞かず、棚に近づいて植物の痕跡を確かめ始めた。

ルカンはそれを眺めたまま、口を開くことはない。


先に進むにつれて、魔力の気配が濃くなる。

壁に埋め込まれた石が微かに光を帯びていて、かつての術式がまだ生きている箇所があるようだった。


通路の脇には植物が生えていた。

魔法植物と思われるものが、狭い石の隙間から顔を覗かせ、壁に沿って葉を伸ばしている。


その葉が、風もないのに微かに揺れていた。


「これも面白い形してるね」


アルがその葉に触れると、揺れが止まった。

本人は気づいていない様子で、葉の表面や裏側をまじまじと観察している。


エルリックはアルに視線を向けた。

その横顔は、いつもと変わらない。


立ち止まったまま、しばらくその様子をじっと眺めていた。



道なりに進んでいくと、途中に小さな部屋があった。

扉が外れていて、中の様子が見えている。

アルがそこで足を止めた。


「……あれ」


部屋の隅に、植物がある。

石の鉢に植えられたまま、いくつかの鉢は転がっていた。


「生きてる」アルが言った。


「こんな場所なのに」


中へ入って植物の前にしゃがみ込み、それから顔を上げた。


「これ、うちにあるやつと同じだ」


エルリックが後に続く。

植物を見た瞬間、足が止まった。


光る、白い花。


「でも、うちのと違ってこっちは実がついてる」


アルがその実に手を伸ばしかけて、止まった。

少しの沈黙のあと、再び手を伸ばし、実を一粒取る。

しばらく観察してから、ためらいもなく口に入れた。


「アル」


「大丈夫、毒じゃないよ」


アルが口を動かしながら言う。


「なんか……食べたことある気がして」


周囲に視線を巡らせながら、ゆっくりと続きを言葉にする。


「子供の頃、ここ来たことがあったかも。探検して、迷って、なんか食べて……でも何ともなかったんだよね。お母さんにめちゃくちゃ怒られた記憶がある」


エルリックは動かなかった。

植物から目を離さないまま、黙って聞いている。


「……思い出した。森の中じゃなくて、ここで見つけて、持ち帰ったんだ」


アルは植物の葉をゆっくりと撫でた。

それきり、何も言わなかった。



通路の突き当たりには、重厚な扉があった。

扉の縁に沿って、術式の紋様が描かれている。

エルリックが近づき、紋様を確認してから両手をつけるが、扉は動かない。


「魔法錠だ。術式がまだ機能している」


「壊せる?」


「時間がかかる」


ルカンが無言で前に出て、扉に手を当てた。

腕輪の光が僅かに強くなる。

力を込めて押すが、石の軋む音がしただけで、やはり扉は開かなかった。


「重いんだね」


アルは二人の間をすり抜けて扉の前に立ち、両手で触れてみた。


「びくともしない——」


言い終わる前に、ゴゴゴ、と低い石の音がして、扉はあっけなく開いた。


沈黙が広がる。


「……開いた」とアルが呟く。


「なんで?二人の時は開かなかったのに」


エルリックは答えなかった。

ルカンも何も言わない。


アルは二人の顔を交互に見て首を傾げたが「まあいいか」と言って中へ進んでいく。


広い部屋だった。

中央に装置が据えられているが、それ以外は何もない。

台座の上には複数の石柱が円形に並び、それぞれの頂点を細い金属の線が繋いでいる。


今は石柱の一部が崩れ、金属線の多くが錆びて切れていた。

それでも台座の中心部だけは微かに光を帯びており、今も、何かがそこに残っているようだった。


アルは広間の隅へ向かった。

床の割れ目から根を張っている植物に気づいて、そちらへ歩いていく。


ルカンが装置の前で立ち止まる。


最初の一歩で、止まった。

エルリックは横目でその様子を伺っていた。


もう一歩踏み出し、また止まる。

装置との距離は、ほんのわずかだ。

だが、それ以上近づこうとはしない。


視線が台座の中心から動かない。

光を帯びたその部分を、じっと見ている。


ふと、自分の腕輪に視線を落とす。

右手がわずかに持ち上がり——しかし、触れることはなかった。


呼吸が一拍だけ、深く、重く変わった。


エルリックは、そのすべてを見ていた。

ルカンの横顔を一瞬だけ捉え、装置に近づく。

台座の傍らに、薄い記録帳が置かれていた。

表紙は変色しているが、中の文字はまだ読める。


ゆっくりと、ページを繰っていく。

装置の役割、調律の概念、機能するための条件。


「なんて書いてある?」


遠くからアルが尋ねると、エルリックは一節を読み上げた。


「魔力を整え、対象に安定した性質を与える。調律役が介在することで装置は機能し——調律役なき状態で魔力のみを流した場合、制御不能に陥る危険性があると、記されている」


「……難しいことが書いてあるんだね」


エルリックは記録帳から目を離した。

台座の縁にそっと手をかける。

術式の名残が、指先に触れた。


通路の揺れる植物。小部屋の光る花。

誰の手でも開かなかった扉。アルの記憶。


そして、ルカンの今の反応。


装置から手を離したエルリックは、何も言わなかった。


装置の前に立つルカン。

その横に立つエルリック。

広間の隅で植物の根に触れているアル。


広間に、沈黙が広がっていく。



森の中の遺跡——


古い装置が置かれたこの部屋で、ようやく全部が、繋がった。


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